第1330回 出雲の国譲りとは何なのか?(3)

 

因幡の白兎伝承のある白兎海岸の淤岐ノ島。


神話の中で描かれる「出雲」を、縄文に遡る日本の先住系の人々の文化と捉え、天孫降臨という新参者に「国譲り」という形で実権が奪われたと考えている人がいるが、それは違っている。
 長野の諏訪大社は、今日まで太古の祭祀の形を残しているが、神話の中で国譲りに最後まで抵抗したと描かれる出雲系のタケミナカタ主祭神だが、この神は後からやってきた神であり、先住の神は、洩矢の人々が祀るミシャクジだった。
 諏訪の祭祀が興味深いのは、後からやってきたタケミナカタの末裔が現人神として地域を治めることになっても、その後継の成人儀礼の時に、先住の洩矢の神官が、後継にミシャクジ神を降ろす儀式が行われていたことだ。つまり、後からやってきた勢力は、新しい技術文化によって地域の産業化などの指導者となるが、霊的には、先住の人々が祀り続けてきた神のスピリットを引き継いでいくことになっていた。
 諏訪のケースからもわかるように、「出雲」は、縄文古来の人々ではなく、新しい知識や技術を持って日本列島に後からやってきた人たちである。
 縄文人というのは、長いあいだ、自然に即した循環型の社会の中で生きていた。だから、急激な変化というものがなかった。
 変化の速度が速くなったのは、紀元前5世紀頃、弥生人と言われる人たちが、大陸から、稲作をはじめ様々な技術や知識を運んで来てからだ。当時の中国は、春秋・戦国時代の混乱期だったが、孔子老子などの賢人も多く現れていたし、激しい内乱の中で、おそらく強力な武器を求めた結果だろう、青銅器文化から鉄器文化へと移行していった。
 だから、その時に日本にやってきた人たちが、米だけを持ってきたはずがなく、大陸において既に当たり前となっていた知識や技術を運んできたと考えるのは、自然なことだ。
 おそらく、神話の中で描かれるオオクニヌシの物語は、こうして新しく始まった日本の産業化のプロセスを伝えている。その期間は、かなり長く、100年とか200年といったレベルではないだろう。
 前回の記事で、島根県の穴道湖の西は、律令制の新秩序が始まる時に、旧秩序の終焉を象徴する形で出雲大社などの聖域が設定されたのではないかと書いたが、記紀で描かれる「出雲のオオクニヌシ」の物語は、島根県の出雲地方ではなく、鳥取県の東端を流れる千代川と、鳥取県の西端にそびえる大山の西を流れる日野川流域のあいだが舞台となっている。
 オオクニヌシが国造りを始める前に出会ったのがヤガミヒメだが、ヤガミは、鳥取の八上郡とされ、ここには万代寺遺跡という縄文早期から平安時代まで栄えた複合遺跡がある。この場所は、因幡の様々な河川が流れ込む千代川にそったところで、さらに山陰道山陽道を結ぶ連絡道の「因幡道」が通る古代の交通の要所だった。

 

オオクニヌシの最初の妃、ヤガミヒメの故郷、現在の八頭町に鎮座する因幡国二宮の大江神社。

 

 ここから千代川を15km遡ったところの智頭枕田遺跡は、縄文時代から平安時代の遺跡としては、九州を除いて西日本では最大である。
 ヤガミヒメは、この地域の巫女だった。
 オオクニヌシに対して、ヤガミヒメと結ばれることを預言する素兎においては、白兎海岸が伝承地として知られているが、八上郡にも伝承が残り、万代寺遺跡の近くに白兎神社が鎮座する。この地の伝承では、兎は、アマテラス大神の道案内をするのだが、月読神の御神体とされている。
 日本の伝統的な美術や工芸の図像に、波兎文様がある。波の上を兎が跳ね飛んでいる図像だが、謡曲竹生島」では、「月、海に浮かんで、兎も波を走る」と表現され、月に照らされて揺らめく波のつながりを波の上を渡る兎と喩えている。因幡の素兎の物語で、ワニの背中を渡る兎とは、このイメージをさらに抽象化したものだろう。
 月読神というのは、浦島太郎の祖にも位置付けられており、海人との関わりが深い神であり、それは、海人にとって、月の影響を受ける潮の干満を読むことが重要だからだ。
 5世紀末、その月読神とともに、亀卜という新しい占いが畿内にもたらされた。亀卜は、預言であり、同じく月読神の御神体である因幡の素兎が、オオクニヌシに対して、ヤガミヒメと結ばれることを預言するのである。それは、オオクニヌシに象徴される新しい勢力と、ヤガミヒメという縄文時代から続く勢力の仲介役として、月読神に象徴される海人勢力が存在したことを意味していると洞察できる。

ワニによって皮を剥がれた素兎が傷口を洗い、治療したといわれる御身洗池、季節を問わず水位が一定のため、不減不増の池といわれている。(白兎神社)

 

 ヤガミヒメを娶ったオオクニヌシの物語は、鳥取県の東から西の大山の麓へと移る。
 この場所で、ヤガミヒメオオクニヌシと結ばれたことに腹を立てた八十神によって、オオクニヌシは、2度に渡って殺される。1度目は、真っ赤に焼けた大岩で、2度目は、大樹によって。しかし、なんとか母の介在によって再生し、紀国に逃げたことになっている。
 八十神というのは、たくさんの神という意味であり、これは「八百万の神」と同じではないか?
 オオクニヌシは、八十神の異母兄弟という位置付けの八十神の荷物持ちである。つまり、オオクニヌシは、後からやってきた勢力と、前からいた勢力との混血だ。
 そしてオオクニヌシは、巨岩や大樹といった縄文時代からの神威で、試されるのだ。
 オオクニヌシの死と再生の聖域は、鳥取県西伯郡の赤猪岩神社周辺だが、この地域にある殿山古墳は、全長108mで、鳥取と島根では、北山古墳(110m)に次いで大きい。
 そして、ここから北に3kmほど、日野川流域に青木遺跡と福市遺跡があり、主に弥生時代後半から奈良時代まで続く集落遺跡で、100棟におよぶ住居跡が、そのままの形で発掘されるという全国的にも珍しい巨大遺跡である。

 

オオクニヌシの死と蘇りの聖地、赤猪岩神社。

 

 青木遺跡には、縄文時代の遺物も確認され、古くから人間活動があった場所だったことがわかっているが、2016年、4基の四隅突出型墳丘墓が確認された。そして、これが現時点では最古の四隅突出型墳丘墓と見られ、従来の認識が覆される事態となった。
 というのは、前回の記事にも紹介したが、四隅突出型墳丘墓というのは、広島の山間部、島根の出雲地方から鳥取の大山周辺、そして北陸にだけ築かれた特徴ある墳丘墓だが、これまでの学説では、最古のものは広島の山間部の三次盆地に築かれたものとされていた。
 大山の北麓の麦晩田遺跡にも、古い四隅突出型墳丘墓が数多く築かれ、後に、穴道湖の西、出雲の王家の谷と呼ばれる西谷墳墓群で、かなり巨大なものが築かれているので、なぜ、広島の三次が、出雲に特徴的な四隅突出型墳丘墓のルーツになっているのかが謎だった。
 しかし、今回の発見で、鳥取と島根のあいだの日野川流域、オオクニヌシの死と再生の舞台となっている地域が、そのルーツということになる。
 出雲地方に特徴的な四隅突出型墳丘墓のルーツがあり、さらに、山陰で最大級の前方後円墳の殿山古墳がある場所が、オオクニヌシの死と再生の舞台であるというのは、何を象徴しているのか?
 大山の北麓に、麦晩田遺跡という日本最大の弥生遺跡がある。

麦晩田遺跡


 巨大環濠集落として知られる佐賀県の吉野ケ里遺跡の3倍以上の大きさを誇る。
 日本各地に、弥生時代の集落跡が残るが、この妻木晩田遺跡ほど素晴らしい眺望に恵まれた場所はないだろう。美しい弧を描く美保湾が、遺跡から見下ろせる。
 水田耕作を営みの基本にしていた弥生時代の集落は、低地帯に築かれることが多いが、弥生時代の後半、高地性集落が築かれるようになり、これは敵との戦いに備えたものと説明される。
 妻木晩田遺跡もまた、高地性集落ということになるのだが、これほど大規模で、長期間にわたるものは珍しい。
 現地の印象としては、縄文時代の遺跡のロケーションに似ており、発掘調査からも、狩猟や漁労に関する遺物が多く出土しており、この集落の住民が、周辺の森でクリなどの木の実を採集し、鹿や猪を狩り、海や川で魚介類を得ていたことと考えられている。
 遺跡内では、水田や畑などの遺構は発見されていないが、住居跡や貯蔵蔵などから炭化米などが見つかっているため、周辺の平地や谷部などで米作りを行っていたようだ。
 いずれにしろ、敵からの攻撃に備えた高地性集落というより、他地域の縄文時代の集落跡が似たような丘陵地に多く見られることから、麦晩田遺跡の住人は、縄文時代の営みの延長上の暮らしを、この丘陵地で行っていたのではないだろうか。
 さらに、この遺跡から、隠岐の黒曜石や、讃岐のサヌカイトで作られた道具や、北九州で多く見られるガラス玉が出土した。土器は、西瀬戸内海、兵庫県から鳥取のかけての日本海側地方の特徴を持ったものが見つかっている。また、鉄器類も膨大に見つかっており、中には大陸性のものも確認されているが、一つの遺跡から出土した鉄製品は、日本最大である。
 麦晩田遺跡の住民は、水上交通によって各地と結ばれていたのだ。
 また、美保湾を見下ろせる絶景の場所に、洞ノ原墳墓群があり、ここには、四隅突出型墳丘墳が、比較的大きなものが5基ほど、さらに一辺1~2mの小さなものも含め11基ほど見つかっているが、これらは西暦1世紀から2世紀にかけて作られたもので、四隅突出型古墳のなかでは、上に述べた青木遺跡もののとさほど変わらない古さだ。

麦晩田遺跡の四隅突出型墳丘墓。

 

 しかし、この場所での営みは、約300~350年間にわたって続いていたが、3世紀後半、古墳時代が始まる時、突然、終焉を迎えた。その理由は、明らかになっていない。
 それまで、この場所にある墳丘墓は、木棺で埋葬されていたが、大小の石を組み合わせた石棺に遺体を収める台形型の古墳が登場した時を最後に、この場所での人の営みの痕跡は消えたのだ。
 古墳時代に入ると、人々は、この海に面した絶景の丘陵地を捨てた。しかし、大山の西麓、日野川流域では、青木遺跡や福市遺跡のように、奈良時代まで栄えているし、山陰最大級の殿山古墳が築かれ、古墳時代後期の5世紀後半から6世紀後半には、向山古墳群が築かれている。
 麦晩田遺跡は、弥生時代最大の遺跡であるにもかかわらず、稲作を中心にした集約農業の集落ではなく、縄文時代から続く狩猟や漁労、森で採取する木の実なども食糧源とする粗放農業が暮らしを支えていた。敵からの攻撃に備えるための丘陵地というよりは、生活環境として、それが望ましかったのではないか。
 しかし、縄文時代と明らかに違うのは、豊富な鉄器製品をはじめとする様々な技術革新だった。
 麦晩田遺跡というのは、縄文文化に、新しい産業力が重なった世界だった。
 だとすると、それは、国造りを始める前のオオクニヌシが、ヤガミヒメと結ばれた状態と重なってくる。
 オオクニヌシは、2度に渡る死と再生を経て、八十神から逃げるために紀国に行き、さらに追ってきた八十神から逃れて根の堅州国に向かい、そこで、スセリビメと出会い、その父スサノオからの試練を乗り越え、再び出雲に戻って、はじめて「大国主」となる。それまでは葦原色許男神である。
 その後、スサノオから授かった太刀と弓矢で八十神を退け、スセリビメを正妻にして、新宮を建てて住み、国づくりを始めた。この時、ヤガミヒメは、大国主のもとを去ってゆく。
 大岩や大樹の力を前に無力だった葦原色許男神が、太刀と弓矢を備えた大国主となって国造りを始める。これは、麦晩田遺跡が終焉を迎える弥生時代後期から、古墳時代への移行を象徴しているのではないだろうか。
 すなわち、オオクニヌシの国造りは、古墳時代も続く。古墳時代は、一般的にはヤマト王権の時代と考えられており、ヤマト王権は、オオクニヌシの国を奪い取って始まった王権のように解釈している人が大半だが、そうではない。
 ヤマト王権とされる時代もまた、オオクニヌシの国造りの物語で象徴される過程であり、だから、スクナビコナのような医薬とか酒造りという新しい知識文化の普及に貢献する神が加わってくる。
 オオクニヌシの国造りによって産業化は進む。しかし、それは、最終的に、強い者が全てを独占する社会になっていく。
 この状態こそが、タケミナカタオオクニヌシに対して国譲りを迫る時の言葉、「あなたの国は、ウシハクである。」という意味だ。
 そして、オオクニヌシが国を譲って、「シラス」、つまり共有社会の時代に移行するというのは、推古天皇の頃に整えられた17条憲法で、独占や徒党を禁じ、話し合いによって政治を進めていくことが求められた、律令制に向けた動きを象徴しているのだろう。
 歴史を学ぶ時、ヤマト王権氏姓制度を作り、貢献度に応じて連や臣などの身分を与えることで豪族たちを統率したなどと説明されることがあるが、この制度は、そんなに古くは遡らない。
 氏姓制度は、飛鳥時代の話であり、それらの北魏に習った統治制度づくりへの動きは、5世紀後半、「今来」という渡来人がやってきてからであり、その頃に即位した第26代継体天皇の時代こそが、大きな転換期だ。継体天皇が、現在の天皇から遡れる最も古い天皇であり、それ以前の日本は、異なるコスモロジーの国だった。
 一般的に、飛鳥時代奈良時代古墳時代ヤマト王権の延長と考えてしまっていることで、歴史の解釈に間違いが起きてしまっている。
 
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