第1380回 古代のことを考えるためには地理のことを踏まえる必要がある。

古代の吉備国の聖域は、吉備の穴海にそって築かれていた。

 

 古代のことを考えるためには地理のことを踏まえる必要があり、吉備もまた例外ではない。

 古代の吉備において早くから高度な文化が栄えた場所は、現在の岡山市から総社市倉敷市にかけての一帯だが、現在、沖積平野のこの場所は、古代、吉備の穴海と呼ばれる内海で覆われていた。そして、現在は内陸部であるが古代は海のすぐ傍だったところに全国第4位の大きさを誇る造山古墳(350m)や第10位の作山古墳(282m)など、主要な聖域が築かれていた。

 吉備の地理において、もう一つ重要なポイントが吉備の穴海に注ぎ込んでいる三大河川であり、東から吉井川、旭川高梁川となるが、中国山地を縦断するように北から流れてくるこれらの川は、日本海側の出雲や因幡といった、かなり古くから大陸と交流を行なっていた地域を結ぶルートになっている。

 吉井川は、西日本最大級の縄文遺跡の智頭枕田遺跡などが存在する千代川にアクセスし、因幡国とつながっており、旭川高梁川は、鳥取と島根の県境の大山の南麓が源流で、大山の北麓には、日本最大の弥生遺跡である麦晩田遺跡がある。

 古代出雲は、律令時代においては中海と宍道湖のあいだに国府が築かれたが、最も古くから栄えていたのは、大山の麓の周辺地域だった。

 一般的に、吉備は、瀬戸内海に面しているので、古代の瀬戸内海交通の要衝として認識されているが、それだったら瀬戸内海にそった他の場所でもよいわけで、吉備でなければいけない理由としては、吉備の穴海という船着場に最適な地理環境と、この場所へと注ぎ込む三大河川が出雲や因幡とつながり、吉備の場所が、畿内への中継ポイントになっていたことが大きい。

 その根拠の一つが、吉備における初期古墳が、三大河川沿いに集中していることだ。 

 三世紀後半に築かれた古墳としては日本でも最大規模の浦間茶臼山古墳は、奈良の箸墓古墳の二分の一の規模の相似形の前方後円墳だが、吉井川流域に築かれた。

 この古墳から、ほぼ真西8kmのところ、旭川流域には4世紀前半、前方後方墳備前車塚古墳が築かれた。

 備前車塚古墳の石室内から鉄鏃・鉄斧・鉄剣・鉄刀・鉄棒残片など豊富な鉄製品とともに、三角縁神獣鏡が11面も出土しており、そのうち9面は、三角縁神獣鏡が32面も出土した京都南部の木津川流域の椿井大塚山古墳(3世紀末)をはじめ、九州地方から北関東地方の多くの古墳の出土鏡と同じ鋳型から作られたものであり、日本各地と交流があったことが伺える。

 備前車塚古墳から真西25kmの高梁川流域には、4世紀前半に築かれた一丁𡉕(ぐろ)古墳がある。この古墳は、城山の南嶺の標高189mに築かれた33基もの古墳群のなかで最も大きな70mの大きさを誇る前方後方墳だ。

一丁𡉕古墳のそばの、高梁川沿いにそびえる岩盤の上の石疊神社。

 備前車塚古墳や一丁𡉕古墳は古墳時代初期の前方後方墳で、北緯34.70付近に位置しているが、備前車塚古墳から真東115kmのところにある西求女塚古墳(神戸市灘区)も、古墳時代初期の3世紀後半に作られた前方後方墳で、この古墳からも備前車塚古墳と同じく三角縁神獣鏡が7面出土しており(2面が椿井大塚山古墳と同じ鋳型)、さらに、この古墳の石室の石材は徳島や和歌山から運ばれたもので、出土した土器に地元のものはなく、祭祀系の土器は山陰系のものだった。また、西求女塚古墳の近くの篠原遺跡からは、青森の亀ヶ岡遺跡の遮光器土偶の目の部分などが出土しており、このあたりの地域も、古代から日本各地と交流があったことを裏付けている。

 この西求女塚古墳から、冬至のラインで50kmのところが京都の向日山で、ここは、継体天皇が弟国宮を築き、桓武天皇長岡京を築いたところだが、この場所の元稲荷古墳は、神戸の西求女塚古墳と同じ3世紀末に作られ、同じ大きさ、同じ形の前方後方墳である。残念ながら盗掘によって副葬品はよくわからないが、この古墳に隣接するように弥生時代の高地性集落が築かれている。

 また、この向日山には、4世紀前半に築かれた寺戸大塚古墳があり、この古墳から三角縁神獣鏡が出土しており、これは、椿井大塚山古墳と同じ鋳型のものである。

 向日山は桂川と鴨川の合流点近くだが、神戸の西求女塚古墳と向日山と、椿井大塚山古墳のある木津川は水上交通で結ばれており、三角縁神獣鏡の同笵関係も考慮すると、このネットワークに吉備も関わっていたということになる。

 そして、古代の吉備といえば、古今和歌集の「まがね吹く 吉備の中山」で知られるように、豊かな鉄資源が知られている。

 平城京出土の木簡からは、奈良時代に、備前国備中国美作国は鉄を税として納めた記録が残っている。

 日本における製鉄は、考古学的には6世紀後半からとされていて、日本最古の製鉄遺跡とされるのが、岡山県総社市の千引カナクロ谷製鉄遺跡だ。ここからは鉄鉱石を溶かす炉が4基発見されている。 

 吉備には、製鉄遺跡が30箇所、製鉄炉が100基以上発見されており、日本の他の地域と比べて際立って多い。

 特に総社市域に集中しており、西団地内遺跡群・奥坂遺跡群の11遺跡で82基の製鉄炉が見つかっている。

 考古学的に日本最古の千引カナクロ谷製鉄遺跡は、鬼伝承のある鬼ノ城の東側で、現在は鬼ノ城ゴルフ場になっているところなのだが、この傍を流れる血吸川を下っていったところに、全国で4番目の大きさを誇る造山古墳や、弥生時代最大の墓とされる楯築遺跡がある。

350mという日本第4位の大きさを誇る造山古墳

弥生時代最大の墓とされる楯築遺跡


 血吸川は、造山古墳のあたりで足守川と合流し、さらに笹ヶ瀬川と合流し瀬戸内海に注ぐが、古代は、造山古墳や楯築遺跡あたりが、海との接点だった。

 桃太郎の物語のなかでは、笹ヶ瀬川が桃の流れてきた川で、血吸川は、崇神天皇の時代の鬼退治で、吉備津彦命が放った2本の矢のうち1本が吉備の鬼とされる温羅の左目に命中し、温羅の目から噴き出す血で清流が真っ赤に染まったという伝承となっている。

 吉備における初期古墳が、出雲や因幡に通じる三大河川の流域に築かれていたのに対して、古墳時代中期の5世紀以降は、造山古墳や作山古墳、そして、6世紀後半の古墳時代後期としては全国でも最大規模で、かつ石室の大きさが日本の全古墳のなかで3番名に大きなコウモリ塚古墳などは、鉄と関わりの深い総社に集中的に作られており、律令時代の国府も、ここに築かれた。

 吉備の鬼退治伝承は、温羅という鬼を、第10代崇神天皇の時代に四道将軍吉備津彦命が退治したという日本書紀の記録がもとになっていて、その舞台が鬼ノ城ということなのだが、この場所で製鉄が行われたのは6世紀後半で、時代としては第29代欽明天皇の頃となり、崇神天皇欽明天皇の年代的なギャップをどう解釈するかという問題が残る。

吉備津神社。祭神は、吉備津彦命

 

中山茶臼山古墳宮内庁によって吉備津彦命の墓とされている。


 鉄は酸化しやすく、形を留めにくいし、製鉄炉は、鉄の製造のたびに壊される。千引カナクロ谷製鉄遺跡は6世紀後半のものとされているが、もしかしたら、同じ場所で、長年、鉄の製造が続いていて、その最終段階の時期のものが発見されただけの可能性もある。

 製鉄遺跡の発見は、6世紀以降であるが、鍛冶関連の遺跡は弥生時代に遡り、弥生時代の遺跡から膨大な数の鉄製品が出土している。しかし、それらの鉄製品は、現時点における学会の認識では、海外から輸入した鉄を、日本国内で加工しただけとされており、日本国内で産出された鉄資源の利用ではないとみなされている。

 吉備は、6世紀以降に鉄鉱石を利用した製鉄を行ない、奈良時代には日本一の生産量だったのだが、鉄鉱石を取り尽くしてしまったためか、796年の記録では、「備前では鉄が産出しないので、鉄での納税をやめたい」と、窮状が訴えられている。

 律令時代の吉備は、備前、備中、備後、美作などに分断されており、美作など中国山地内陸部では、砂鉄による製鉄は続けられていた。備前、備中、備後あたりは、砂鉄があまりとれなかったようだ。

 しかし、律令時代以前では、吉備というのは、兵庫県加古川より西の地域全体を指していたともされる。

 なので、河川を通じて中国山地内陸部や山陰の豊富な砂鉄資源を獲得していた可能性もある。

 桃太郎の物語に象徴される吉備の鬼退治は、果たしていつの時代の出来事を象徴的に伝えているのだろうか。

 造山古墳など日本でも最大級の古墳が築かれた総社のすぐ北に位置する鬼ノ城というのは、単なる鬼の伝承地ということだけでなく、日本最古の製鉄遺跡が存在するとともに、7世紀後半、天智天皇の頃に、巨大な山城が築かれたところでもあった。

鬼ノ城

 この山城は、標高397mの鬼城山の頂上に築かれており、唐と新羅の連合軍に大敗した白村江の戦いの後の唐の侵略に備えた防御施設と一般的には解釈されているが、海を通ってやってくる敵に備えて山の頂上に城を築いて、果たして防衛の機能を果たせるのだろうか。

 瀬戸内海は潮流の流れが激しく、さらに無数の小島があり、中世においても、点在する小島を拠点にする海賊が権力者を悩ましていたが、防衛線を張るのであれば、山城よりも、瀬戸内海に点在する島々の方は適切だ。

 仮に、その当時、栄えていた備中の総社地域を守るにしても、総社地域の背後ではなく前面に築くべきではないかという気がする。

 また、この鬼ノ城は、城壁の周りに敷石が敷き詰められているのだが、これは日本の他の地域ではどこにも見られず、同じようなものは、朝鮮半島で数例見つかっているだけである。

 人を寄せつけない威容で、城の中には、建物や倉庫群・水場・のろし台、鍛冶工房などが確認されていることから、この城は、中に篭るためのものという印象が強い。

 中国のシルクロードを旅すると、西域地方に、高昌故城や交河故城の遺跡が見られる。これらは自然の要害の上に築かれた城であり、北方民族と興亡を繰り広げた中国王朝側の前線基地だった。そのため、鬼ノ城のように、のろし台が設置され、不穏な動きがあると、長安まで情報が伝達されるようになっていた。

 白村江の戦いの後に日本各地に築かれている城にも、のろし台が設置され、四国や九州、そして対馬まで連続しており、唐が攻め込んできた時に、奈良まで情報伝達するためと説明されているのだが、そうではなく、日本の状況を朝鮮半島新羅まで伝えるためと考えた方が相応しい気がする。なぜなら、日本が海の向こうからの敵に備えるためであれば、九州や山陰で敵の動きを察知できるわけで、吉備の地にそれが必要だとは思えないし、新羅と直面する山陰地方には山城は一つも築かれていないのだ。

 新羅や唐が、九州に渡って、瀬戸内海を通ってヤマトの地に向かうとは限らない。むしろ、新羅からは山陰や丹後あたりに上陸した方が、ヤマトを攻めるとしたら理に適っている。

 古代の中国は、敦煌あたりが国境で、その西は異民族の世界だが、高昌故城や交河故城は異民族に囲まれた場所に築かれ、異民族を監視し、警戒し、不穏な動きに対処するための軍勢が、その城の中に籠もっていた。

 吉備の鬼ノ城は、そうした中国辺境に築かれた故城と似ており、だとすると、敗者側の日本が唐や新羅に備えたというよりは、勝者側の唐が、日本国内に入り込んでいた跡なのではないかと私は思う。

 日本書紀においても、白村江の戦いの後、郭務悰に率いられて2000人が来日したことなど、幾たびか、かなりの人数で唐や新羅から人間が送り込まれた記録が残されている。

 藤原京の建造は、日本書紀の記録によれば、天武天皇の676年頃から段階的に進められたと考えられるが、だとすると白村江の戦いから13年しか経っておらず、その間、中国との交流がないまま、中国の都城を参考にして都を造営するための知識や技術は、どこから手に入れたのかという問題がある。

 いずれにしろ、吉備の鬼ノ城に山城が築かれたのは、7世紀末において、この場所で鉄鉱石が得られたことが、大きな理由だったのではないかと思われる。

 鉄鉱石の産地を守るためと考えるのならば、標高397mのこの場所に、これだけの巨大な山城を築いたことも納得できる。城内には、鍛冶場もあった。

 吉備の鬼退治伝承が、この場所を舞台としているのは、この場所の鉄をめぐる攻防が、神話に象徴されているのだろう。

 それは、一体いつの時代なのか?

 その時代を見極めることは、吉備津彦による鬼退治のあった第10代崇神天皇の時代の物語が、どの時期を神話的に語っているのかということにもつながる。

 

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