1年に一度、京都に来て学んでいるスタンフォード大学の学生に対して「編集」に関する講義をしていて、一昨日にそれを行った。途中、コロナ禍があったので記憶が曖昧だが、6、7年前に始めたかと思う。
毎年違う生徒なので同じ内容のものでも構わないのだが、こちらとしては、ただ決められた作業をこなしているわけではなく、そのたびに考えているので、やるたびに深めていくことになる。
私は写真家でもなければ作家でもなく、職能でいえば「編集人」ということになる。しかし、宇宙の摂理や、どんな表現や学習も、そして社会や人生も、様々な事物が織り込まれ、編み込まれた構造になっているのだから、すべて編集だと思っている。
だから、この講義を始めた最初の頃は、本や雑誌の編集という内容から始めたかもしれないが、今年は、宇宙の根本的構造ということで、曼陀羅とか素粒子物理学とか、聖書や古事記の話なんかも編み込まれた内容になってしまい、さすがに私の語学力では手に負えなくなってしまった。
しかし私には、中山慶という強力な助っ人がいる。私が思うに、彼は日本でも最高峰の通訳者だし、15年ほど前、風の旅人の編集部で私のアシスタントとして働き、私の考え方や仕事のスタンスを熟知しているので、単なる私の言葉の置き換えではなく、言外の意味も含めて、伝えることができる。
さらに、この授業のファシリテーターが、メキシコで育ち、日本語とスペイン語と英語のトリリンガルであるため文化の三角測量ができるアーティストの荻野Nao之君で、彼もまた風の旅人の深い関係者なので、学生とのあいだに絶妙な橋を架けて、いいタイミングと適した内容で、学生に問いを投げかけることができる。
こうした3人で行う授業もまた、「編集」といえる。
数年前に始めた頃から、私たちは、ずっと即興でやってきた。事前に方向性と深度におけるコンセンサス作りのための対話は行うが、具体的に何をどう進めていくかなんて決めない。
拙い私の英語を基調にしながら中山が補っていくのか、私が日本語で思考し続ける過程を中山が英語化していくのか、ずっと、その時の流れのなかで、それぞれが判断して行ってきた。
楽譜にとらわれず、その場のひらめきによって、メンバーが音を作っていくジャズのインプロビゼーションのようなもの。
私は、何をやるにしても、この方法が体質的にあっていて、これまで行ってきた色々な対話トークなどにおいても、事前の打ち合わせは行わず、その時に出てきた言葉に対応していくやり方を望んでいたが、事前に周到な打ち合わせを求める写真評論家もいた。
インプロビゼーションの方法は、別の言葉でいうと、ブリコラージュということになる。
ウィキペディアなどで、ブリコラージュの意味を「寄せ集め」などと解説しているが、単なる寄せ集めではなく、最適組み合わせと言った方が正しい。
私が、ビジュアル的な例としてよく見せるのが、石工が作った石垣や、宮大工が作る建築物の柱の組み方。
レヴィー・ストロースは、このブリコラージュこそが、生命原理だと唱えた。
彼は、近代西欧文明が、エンジニアリング的な設計思想を基礎に成り立っていて、そのことが、非自然で生命力を損ない、様々な歪みの原因になっていると考えた。
現在の大学などで行われる学生に対する講義などでも、教授が書いた一冊の本を、最初のページから最後のページまで一年間かけて授業を進めていくようなやり方があるが、これは、設計思想の授業で、義務教育の授業も同じだが、生命原理に反しているから授業が活性化することがない。
生命界というのは、その都度、新鮮な出会いに満ち溢れている。それが危機や不安の原因でもあるが、むしろその危うさが、生命を躍動させる。人生もまた同じであり、決まり切ったことの繰り返しを安定とか安泰と考えている人がいるかもしれないが、実際は、そうした時間は、生命力を衰弱させていく。
どちらが良いか悪いかではなく、生命原理の特性が、そうなっている。
人と一緒に仕事を始める時、相手の経歴に目を通して、経歴を経験の深度だと勘違いして、その人と組んでも、新しい事は何も起こらないし、むしろ逆に、パターンが固定してしまって仕事が硬直していく。
私は、風の旅人の編集部において、多くの応募があったが、出版社での経験とか関わったメディア媒体が列挙されていても、何もトキメキを感じなかった。そういうのは、想定の範疇でしかないからだ。
上に述べた中山慶の場合は、出版社どころか会社組織でも働いたことのない若造だったが、風の旅人に匹敵する分厚さの志望動機を送ってきた。風の旅人の読者として、私が、経歴よりも内容を重視するということを理解していたからだろう。
私は、風の旅人の執筆者や写真家が、どれだけ過去に実績や名声があろうとも、一切、そうしたプロフィールは載せていなかったので。
採用というのは、応募する側が、雇う側の心に食い込もうとすることで成り立つ。
その時に、自分の経歴をダラダラと並べることが相手の心に食い込むことだと判断している人は、それがその人のセンスだから、仮にその人と仕事をすることになれば、そういう仕事の仕方になる。
こうした接点において何よりも大事なことは、相手と呼応することだ。相手の発している波動に惹かれるものがあって、その相手とつながりたいと思うのならば、相手のその波動と共振する波動を自分の側でも作り出すことが必要になる。
自分の経歴を並べることが自分を高く売ることにつながると勘違いしている人は、そのことがわかっていない。だから、相手のことを深く知ろうともしない。
風の旅人に写真を売り込んでくる写真家でも、風の旅人を読んだことのない人が多く、そういう人は自分の自慢ばかりしていた。
写真家と自称していながら、けっきょく自己表現の材料なら被写体や媒体はなんでもいいという程度の認識の者がアウトプットするものが、健全な未来への架け橋になるはずがない。
相手と仕事をしようとする時に、相手を深く知ろうともしない人を、私は信用できない。そういう人は、つまり相手は誰でもいいわけで、自分を評価してくれる相手がどこかにいれば、そいつとやればいいという発想だからだ。
ブリコラージュとエンジニアリングの違いは、ここにある。
エンジニアリング的な思考に凝り固まっている人は、自分で設計図を書いて、それに合わせて材料を揃えようとする。物づくりだけでなく、学問や研究でも、企業組織などでもそうだ。
それに対して、ブリコラージュに基づく仕事をしている人は、たとえば石工や宮大工など、設計図は持たず、石や木の声を聞くという心構えと集中力で仕事をしている。
スティーブ・ジョブスは、エンジニアリング的発想で物を作ることを忌み嫌っていた。新しい技術を作った技術者が、その技術をコアにして新しい商品を設計して作るという発想を否定していたのだ。
だから、Ipadを構成する部品で、アップルが開発したものはなく、すべて他社が開発したもので、それらの最適な組み合わせで作られたのが、Ipadだ。
ジョブスが重視したのは、カスタマーエクスペリエンス。つまり、石工が石の声を聞くように、顧客の心の深いところにある声を聞くということ。
(決して、アンケートをとって色々な声を聞くということではない)。
ジョブスは、日本文化を愛していて、日本に来ると必ず京都の西方寺(苔寺)を訪れていたようだが、日本庭園もまた木と石と水などのブリコラージュであり、設計思想に基づくベルサイユ宮殿の庭などとは明らかに異なる。
写真を編集する場合も、自分が伝えたい情報のために写真を取捨選択するという方法が、エンジニアリング的発想だ。
たとえば、「世界の貧困」というテーマ設計で、写真を集めるという作業がそれに該当する。
イベントなどでも、こういうテーマ設定で、その専門家みたいな人が集められることがあるが、そういう場で出てくる意見は、どれも想定内のものにすぎない。
それに対して、ブリコラージュ的発想の写真編集は、自分の心が動く写真の声を聞くことから始まる。その声をより鮮明に聞くために写真を組み合わせていく。つまり「場」の力を高めていく。そうすることで、テーマが後から浮かんでくる。
組み合わせ方によって、ノイズになったり、声が消えてしまうこともあり、その注意力が、重要な感度となる。
そうした集中力によって整えられた構成は、写真家自身も気がついていなかったテーマを浮かび上がらせることがある。
トークの場でも同じで、予定調和な内容になるのか、当事者ですら認識していなかったところへと深まっていくのか?
石工や宮大工は、優れた匠であるとともに、すぐれた編集人であり、すぐれた編集人は、ブリコラージュの奥義を身につけている。
そして、ブリコラージュは、レヴィーストロースの言うように、生命原理なのだから、石工や宮大工が作り出すものは、生命原理にそっている。
生命原理の本質は決して分断ではなく、変化しながら、どれ一つ同じものがない状態でも、調和と均衡が絶妙に保たれて展開していく。石工の組んだ石垣を見れば、それがよくわかる。
他者の隠れた声に耳をすますブリコラージュと、他者を自己の駒のように捉えているエンジニアリングでは、どちらが世界の分断につながり、どちらが世界の調和と均衡につながるのか明らかだろう。
若い学生たちで、志の高い人は、自分のその能力を、分断なのか調和なのか、どちらに対して使えるようになりたいのか自問した方がいい。
そして、その二つが、他者と向き合う時のスタンスの違いによって決まってくることも理解した方がいい。
スタンフォードの学生は、社会で自分の力を発揮したいという意欲がとても強いから、「編集」についての講義を、本や雑誌の中に限定してしまうよりは、生命原理や社会原理まで広げた方が食いつきがいいように感じられた。
しかし、日本の学生の場合はどうだろうか? こういう内容の話で、3時間に及ぶ時間を、寝る事なく、退屈そうな顔をせずに聞き続ける人が、果たしてどれだけいるだろうか?
テクニカルな内容、具体的なやり方、ハウツーの情報ばかりに頭が慣れていると、エンジニアリング的な、「こうすれば、ああなる」という筋道のわかりやすい話の方が、スムーズに頭に入る。
ブリコラージュというのは、蝶の羽ばたきが嵐につながるというバタフライ効果を秘めていて、先行きが簡単に読めない。
だから面白いと感じるのか、ついていけない、と自分の殻に閉じこもってしまうのか。
私が、今、定期的に行っているワークショップも、歴史のお勉強ではなく、歴史を対象にしていながらも、そこに地理や地質や地勢なども織り込み、かつコスモロジーが主題になっているので、「編集」と深く関わっていて、だから無限に広がっていく。
コスモロジーは、人が、自分が生きている世界をどのようにとらえ、その捉え方に応じて、どう生きていこうとしているか、という意味に置き換えることができる。
死んだらすべておしまいと思っていたら、そういう生き方になる。死後に天国か地獄かの分かれ目があると信じていたら、その裁きを意識して生きることになる。
死後に天国も地獄もないけれど、生きていくことは編集していくことで、その編集は、宇宙全体を構成する織物の一部であり、その上で、宇宙はミクロもマクロも相似形だと踏まえれば、連続する宇宙の展開のなかで一つの形を成したことが人生で、その形の消滅は、他の形の生成と対になっていると受け止めることもできるだろう。
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ワークショップセミナーの第12回目を、 11月11日(土)、11月12日(日)の両日(それぞれ1日で完結)、京都にて、午後12時半〜午後5時にかけて行います。
詳細、ご参加のお申し込みは、こちらをご覧ください。
両日とも、10名限定。
場所:かぜたび舎(京都)
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ピンホールカメラで向き合う日本の古層。Sacred world Vol.1,2,3 販売中 https://www.kazetabi.jp/