第1297回 古代海人のコスモロジー

 前回の記事で、福島第二原発がある場所の天神原遺跡(2000年前における東日本最大の集団墓)が、遠隔地交易の拠点だったのではないかということを書いた。

 そして、この天神原遺跡の位置が、北海道の余市からまっすぐ南に来たところにあり、この東経141度の南北のラインが、北海道から東北の奥羽山脈へと続く火山帯のラインで、その上に、縄文時代の環状列石や重要な遺跡が数多く連なっていることを紹介した。

 その続きなのだが、福島の天神原遺跡から冬至のラインで西に進んでも、日光の男体山、群馬の赤城山榛名山、そして浅間山八ヶ岳を超えて諏訪に至る火山帯が続き、火山帯にそって石器時代縄文時代に遡る重要な遺跡が多く残っている。

妙義山


 福島の天神原遺跡からラインにそって100kmの所にある栃木県那須塩原の槻沢遺跡(つきのきさわ)は、縄文時代中~後期(およそ4,000~5,000年前)を中心とする大集落遺跡で、ここから出土した土器は、東北地方と関東地方それぞれの地域に特徴的な形や文様が見られる。

 ここから西に18km、日光市塩谷町那須塩原市矢板市にまたがる火山の高原山は、黒曜石を産出し、この麓には石器時代に遡る遺跡が残るが、高原山の黒曜石は、縄文時代、関東地方で広く利用されていた。

 また、このラインは日光東照宮や中禅寺のすぐ近くを通るが、日光市内には16カ所の縄文・弥生遺跡がある。

 さらに日光から50kmほどラインにそって行くと群馬の赤城山を通り、赤城山山麓渋川市の道訓前遺跡に至る。ここは、縄文時代中期中葉から後葉にかけての大規模な環状集落で、出土遺物は、新潟県や長野県、南関東、北関東周辺地域との文化交流を示している。

 とくに、ここから出土した焼町土器は、縄文土器の傑作といわれ、カナダやフランスでの展示でも人々に強く印象を与えた。

 さらにラインを進むと、妙義山の北麓、群馬県安中市に坂本北裏遺跡環状列石がある。そして浅間山の南麓、日本最大の縄文時代の石棒のある佐久市を通り、八ヶ岳の星糞峠(黒曜石原産地遺跡)を抜けて諏訪湖に至る。

 群馬県渋川市の道訓前遺跡から諏訪湖までがちょうど100kmである。

 この冬至のラインを諏訪から西に進むと、木曽御嶽山の南麓の王滝口登山道に王滝御嶽神社が鎮座している。ここは、木曽御嶽山への山岳信仰に基づく神社だが、この場所に縄文時代の里宮遺跡が残る。

 御嶽山は、東日本の火山帯の一番西に位置し、ここから西、東海、近畿、四国には火山が存在しない。御嶽山は、独立峰としては富士山の次に高く、標高3,000mを超える山としては、日本国内で最も西に位置する巨峰である。

 そして、冬至のラインを御嶽山から西に向かい、山々を超えて濃尾平野に入ったところが美濃だ。美濃は、古代から現代に至るまで日本の東西回廊の中枢に位置する所であり、「美濃を制する者は天下を制する」と言われ、壬申の乱、関が原の合戦など、幾度となく日本史上の重要な決戦地になった。

 福島の天神原遺跡から諏訪を通る冬至のラインは、諏訪までは火山帯で、縄文遺跡が関係していたが、美濃の地から西にかけては、違った特徴を持つようになる。

 それは、きわめて古い、弥生時代から古墳時代初期に築かれた前方後方墳との関わりだ。これらの前方後方墳は、大和盆地に前方後円墳が築かれはじめた時代と同じか、それ以前のものもある。

福島から諏訪湖を通って伸びる冬至のラインは、美濃から近畿にかけて、古い前方後方墳の配置と重なる。紫色の西から、神戸の西求女塚古墳、向日山の元稲荷古墳、東近江の神郷亀塚古墳、美濃の上磯古墳群は、50kmの等間隔。赤いマークが、弥生時代の荒尾南遺跡で74基もの方形周溝墓が発掘されている。

 まず、美濃市長良川沿いに、美濃観音寺山古墳がある。

 この前方後方墳のサイズは全長20.5mほどだが、この古墳から、翡翠の勾玉や、中国の前漢後漢のあいだの「新」(西暦8〜23年)の時代に官営工房で製作された王莽鏡と呼ばれる銅鏡が出土した。そのため、この古墳は、弥生時代後半の3世紀前半までに築造されたと考えられている。

 この古墳のそばを流れる長良川は、白山の麓を源流とするが、上流部で油坂峠(標高800m)を越えると九頭竜川につながって福井市へと至る。

 このルートは、織田信長が、越前の一向一揆を討伐する際に通った道であり、古代から日本海へ抜ける主要ルートだった。

 そして、九頭竜川が、恐竜の町として知られる福井県勝山市に入ったところに、縄文時代の三室遺跡があり、集落跡や、石を環状に並べて祭祀を行ったと考えられる配石遺構などが発掘され、さらに下流福井市中角にも縄文遺跡が見つかっている。

 現在の天皇の血統を過去に遡った最も古い天皇である第26代継体天皇の母親の振姫の出身は、この九頭竜川下流域で、継体天皇も、即位する前は、この福井を拠点としていた有力豪族だったとされる。

 美濃観音寺山古墳から冬至のラインを西に30kmほど行ったところが大垣市の荒尾南遺跡だが、ここは、東海地方最大級の弥生・古墳時代の遺跡で、船の絵が描かれた土器をはじめ、350万点に及ぶ土器、80本のオール、約600軒の建物、1万点を超える木製品、近畿式銅鐸の飾耳が出土している。

 古代、濃尾平野は、この近くまでが海だったと考えられている。

 この荒尾南遺跡からは74基もの方形周溝墓が発掘されている。

 方形周溝墓は、方形の木棺埋葬地の周囲を幅1~2mの溝で囲ったものだが、弥生時代には、方形周溝墓と、円形周溝墓があった。

 円形周溝墓が一人の被葬者であるのに対して、方形周溝墓は、複数の被葬者が見られることに特徴があった。

 その分布にも違いがあり、円形周溝墓が、瀬戸内海の東に現れ、近畿以外に広がらなかったのに対して、方形周溝墓は、瀬戸内海の西に現れ、東海から関東まで普及していった。

 この弥生時代の墓制の違いに対しては、現時点での学説では意味付けることができていない。

 しかし、方形周溝墓は、後の時代の前方後方墳の普及地域とかなり重なっている。

 前方後方墳前方後円墳も、後方部分や後円部分が埋葬空間で、前方部分は祭祀空間である。だとすれば、弥生時代の方形周溝墓や円形周溝墓という墓制に、祭祀が結びついて発展していったのが、前方後円墳前方後方墳だとみなすことができる。

 荒尾南遺跡に、74基もの方形周溝墓が築かたのは、この方形周溝墓のコスモロジーを持つ勢力が、この地域を拠点としていたということだろう。 

 そして、この荒尾南遺跡から北東8km、根尾川揖斐川が合流するところに、上磯古墳群がある。根尾川の流域は、菊花石で全国的に有名なところだ。

 この上磯古墳群は、笹山古墳、北山古墳、南山古墳と、三代に渡って築かれた前方後方墳と、その後に築かれた前方後円墳の亀山古墳がある。  

 興味深いのは添付の図のとおり、前方後方墳の北山古墳と南山古墳が、冬至夏至のラインを軸に建造されていることだ。

 つまり、前方後方墳が築かれた時代、冬至夏至の方向が意識されていたことを、古墳の向きが示している。

 そして、この古墳群で一番古い笹山古墳は、2021年、発掘調査によって出土した土器の形状や模様から、築造年代が2世紀末~3世紀初めと推測されているが、ヤマト王権の始まりとされる奈良盆地の纒向にある前方後円墳の石塚古墳と、同じか、それよりも古い前方後方墳ということになる。

 それまでは、福島から続く冬至のライン上で、この上磯古墳群から50km西の神郷亀塚古墳(東近江)が、弥生時代後期(西暦220年頃)の土器が検出されていたことから日本最古の前方後方墳と考えられていた。

 この神郷亀塚古墳から北東3kmには、弥生時代最大級の鉄工房跡が見つかった稲部遺跡がある。

 そして、神郷亀塚古墳から冬至のラインを西に50kmのところが、向日山の元稲荷古墳で、この二つのあいだに等間隔で、冨波古墳(滋賀県野洲市)と、皇子山古墳(滋賀県大津市)がある。

 冨波古墳は、大岩山古墳群8基のなかの一つで、この古墳群は3世紀後半から6世紀にかけて築かれた円墳が4つ、前方後円墳が3つあり、冨波古墳は、そのなかで最も古く、しかも唯一の前方後方墳で、3世紀後半に築かれたと考えられている。

 そして、この大岩山の斜面からは24点もの銅鐸が見つかり、そのなかに、高さ134.7cmという日本最大の銅鐸がふくまれている。

 この大岩山から南西に17kmの大津市の皇子山古墳は、天智天皇が近江京を築いた場所である。

 神郷亀塚古墳から、冬至のラインを50km行ったところにある京都の向日山の元稲荷古墳は、3世紀中旬に築造された当時としては古墳のなかでも最大規模の100mに及ぶ前方後方墳だが、この古墳のすぐ隣には、弥生時代の高地性集落があった。

 そして、この向日山を中心に、桓武天皇によって長岡京の右京と左京が築かれたが、それよりも300年前、継体天皇が、ここに弟国宮を築いていた。 

 しかも、この地は、西日本では珍しい縄文時代の石棒の製造地で、さらに弥生時代の銅鐸製造の跡も残っていることから、縄文時代に遡る祭祀と政治の中心だったのではないかと考えられる。

 また、そのことが意識されてかどうかはわからないが、東京の明治神宮は、元稲荷古墳の横に鎮座している向日神社をモデルに設計されている。

 この元稲荷神社から冬至のライン上に西に2.5kmのところの長法寺南原古墳も前方後方墳だが、ここからは三角縁神獣鏡を4面含む6面の銅鏡が出土している。さらにそのうち2面は、同じ鋳型か原型から作られたもので、同じ型の鏡は、兵庫県奈良県、愛知県、岐阜県の古墳からも見つかっており、各地域と交流があったと考えられる。

 そして、この本州を分断するように走っている冬至のラインの陸の端が、神戸の西求女塚古墳で、京都の向日山の元稲荷古墳からちょうど50kmに位置している前方後方墳だ。

 西求女塚古墳が築かれた場所は、古代、重要な港だった。そして、ここから出土した祭祀用の土器は山陰地方の特徴を示し、石材には阿波とか和歌山のものが使われている。さらに、三角縁神獣鏡7面など計11面の銅鏡が出土したが、そのなかに、木津川の椿井大塚山古墳、福岡県の石塚山古墳、奈良県の佐味田宝塚古墳、広島県の中小田1号墳などから出土した鏡と同じ型にものがある。

 こうしたことから、古墳の被葬者は、遠隔地を結ぶ水上交通と関わりが深いと考えられている。

 この神戸の西求女塚古墳と向日山の元稲荷古墳は、3世紀の同じ時期、同じ大きさ、同じデザインで作られた前方後方墳だ。

 しかも、この二つの古墳と、近年まで日本最古と考えられていた東近江の神郷亀塚古墳と、2021年の調査で日本最古だとわかった笹山古墳( 岐阜県揖斐郡)は、50kmの等間隔である。

 そして、本州を分断するこの冬至のラインで、福島の天神村遺跡から神戸の西求女塚古墳までの距離が約600kmで、その中間が諏訪湖となる。

諏訪湖

 諏訪湖は、中央構造線フォッサマグナ糸魚川・静岡構造線という日本列島を南北と東西に分断する断層の交わる場所でもあるが、さらに、縄文時代から古墳時代前半にかけての重要な聖域が並ぶ冬至のラインの要にもなっているのだ。

 この冬至のラインは、諏訪から東においては火山帯や縄文時代の史跡と関わりが深く、諏訪から西は、前方後方墳との関わりが深くなっている。

 これらの前方後方墳は、濃尾平野の重要河川、琵琶湖、桂川と木津川と宇治川の合流点、そして瀬戸内海交通に面した港と、すべて水上交通とつながっており、各地を結ぶ方向や距離は極めて正確である。

 福島の天神村遺跡が、古代、阿武隈山地の宝石を運ぶ遠隔地交易の拠点だと想定すると、日本列島の東西を自由に行き来して交流を行っていた人々は、こうした地理関係を十分に把握していたのではないだろうか。

 

 ________________________

ピンホール写真とともに旅して探る日本古代のコスモロジー

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

http://www.kazetabi.jp/