第1296回 日本古代のコスモロジーと、日本の地質。

 日本という国の中を移動する時、列車や高速道路を使ってしまうと気づかないが、古くからの街道、とりわけ河川沿いの道を通ると、この国の地質的な特徴がよくわかるし、そうした地質的な特徴が、文献資料や考古学的成果から見えてこない歴史の真相に近づく鍵を示しているのではないかと思うことがある。

 誰でも知っているように、日本は火山国で、火山の噴火による堆積物の特徴は至るところで見られ、マグマの成分によって玄武岩安山岩流紋岩となっている。

 また、日本列島の位置は、太平洋プレートに強く押しこまれた場所であるため、各地で隆起現象が起きている。

 海岸近くならば砂岩や泥岩や石灰岩ということになるが、もっと深い数千メートルの海底が隆起しているところは、プランクトンの死骸が化石化して石になった硬いチャートである。

 海ではなく大地の地下深くから隆起すると、地中深くでマグマが冷えて固まった花崗岩や、成分の違いで斑れい岩になる。

 私の京都の拠点からは、愛宕山比叡山が見えるが、この京都を代表する二つの霊山は地質的に異なる。愛宕山の頂上付近はチャートのため、風化されにくくてオデキのように膨らんだ独特の形として残っており、そこに愛宕神社が鎮座している。

 一方、比叡山から大文字山にかけては、水の侵食を受けやすい花崗岩で、そのため、長年の侵食で、二つの山の間がすり鉢状のお盆のようになっており、ここに白川の源流があり、花崗岩を削ってできた白い砂を運び、祇園を通って鴨川に合流するが、中世は、この白い砂が、銀閣寺などの石庭で使われた。

 日本の地質でさらに興味深いのは、そのように隆起して形成された大地が、後の火山活動でさらに焼き固められたり、地中でマグマと接して変成岩になって隆起することだ。

 紫式部源氏物語を書き始めた場所とされる石山寺は、石灰岩が熱変成した珪灰石の上に建っている。

石山寺

 日本の地質は、こうした違いが、大陸と違って極めて接近した場所で次々と見られるのだが、中央構造線あたりだと、中央構造線の南側は、海の方から押し付けられて隆起した岩盤(チャート等)で、北側は、大地の下から隆起した岩盤(花崗岩)と、明確に分かれている。

 古代からの聖域を訪れると、必ずといっていいほど、こうした地質的な特徴が印象的なのだが、なかでも特に気になるのが花崗岩地帯で、日本の聖域は、この花崗岩地帯に非常に多い。

 花崗岩地帯は、自然放射線が強いこともわかっており、それは地中にウランやトリチウムなどの放射性物質が多く含まれているからだ。

 こうした放射性物質は、粉塵として大気中に出てくると内部被曝を起こして人間に深刻な害を与える。

 しかし、ラジウム温泉が古くから湯治に使われていたように、放射能を浴びた水(ラドン)と気体そのものは、人間を元気にする。

 地中深くからジワジワと滲み出てくる自然放射線もまた同じなのだろう。

 アメリカの先住民の聖域では、ウラン鉱の上にあるところが多くあり、そうした場所では、長老が、決して地面を掘り返すな、掘り返すと人間に災いが起きると言い伝えてきた。

 第二次世界大戦後、核の時代となり、大量の原爆を作るため、地中に眠るウランが掘り返されるようになり、アメリカ先住民地域では健康被害が出ている。

 日本では、ウランに関しては大きな鉱脈があるところは限られており、鳥取人形峠や岐阜の瑞浪が知られているが、採算が合わないという理由で、採掘は続かなかった。

 屋久島は、癒し効果が高いということで人気だが、この島は全体が花崗岩でできている。

 癒し効果は屋久杉など森林効果だけでなく、たぶん自然放射能の力もあると思う。

 私は、屋久島に住み続ける写真家の山下大明さんと一緒に登山を行った時、雨がすごく、腰をかけて休憩することもできず、昼食も立ったままオニギリを頬張って山頂を目指し、下山したのだが、なぜかまったく疲れず、その夜も、目が冴えてまったく眠れなかった。

 一睡もできないと次の日の行動が辛いなあと思ったが、次の日もまったく平気だったという経験がある。

 京都では、比叡山から大文字山にかけてが花崗岩地帯で、この麓に関西随一のラジウム温泉とされる白川温泉がある。

 花崗岩地帯に聖地が多いのは、自然放射線効果だけでなく、鉱物資源が関係しているのではないかと私は思っている。

 御影石など花崗岩の石そのものも重宝されているが、現在は取り尽くされて採掘は難しいが、古代では極めて重要だった辰砂=朱(硫化水銀)などの鉱脈も花崗岩地帯に多い。 

 そして辰砂の鉱脈は、金や銅と同じ熱水鉱床なので、辰砂のあるところには砂金や銅資源も多かった可能性がある。

 花崗岩というのは地中深くのマグマが冷えて固まったものが隆起しているのだが、水の侵食を受けやすく、地中深くの亀裂などが侵食され、マグマの熱によって高温となった水に溶け込んだ鉱物資源が、その亀裂などに溜まりやすい。

 その状態のまま隆起すると、鉱脈が地上に露頭することになり採掘が非常に簡単になる。採掘が簡単ということは、持ち去られやすいということで、今でも鉱物ハンターはいるが、古代から数千年の歳月を経た現在、古代の状況を想像することは難しい。

 日本は、黄金のジパングなどと言われていた。大航海時代には、日本から輸出された銀が、ヨーロッパの銀相場を大きく変動させたなどとも言われる。

 日本は、縄文時代から大陸と交易を行っていた。朝鮮半島でも糸魚川産の翡翠の勾玉が見つかり、日本産の黒曜石は、朝鮮半島ウラジオストックでも見つかっている。

 中国の『後漢書』には「倭では、真珠と青い玉が採れる」と記されており、『魏志倭人伝』には「壱与(卑弥呼の後の女王)が、魏に、2つの青い大きな勾玉を献上した」と記されている。

『隋書』には「新羅百済は倭を珍しい文物の多い大国と崇め、倭に使いを通わしている」と記されている。

 古代、大陸から日本にもたらされたものは日本に残っており、考古学的調査によって発見できるが、その交易の見返りに、日本から出ていったものの追跡は簡単ではない。

 翡翠とか黒曜石は、その成分の違いを調べれば産地を特定できるのだが、特定できない貴重品もある。

 金とか辰砂もそうだろうが、宝石は、ルビーやサファイアやエメラルドなど6種類を除いて特定できないそうだ。

 花崗岩地帯に、ペグマタイトができているところがある。ペグマタイトというのは、地中深くでマグマが固結する時に、特定鉱物成分の析出が起きて純粋結晶化した状態のもので、これが高純度になったものが宝石だ。

 日本で採れる宝石といえば、翡翠、真珠、琥珀、水晶くらいは比較的よく知られているが、古代、ヨーロッパや中国で珍重された宝石で、日本に比較的多く採れる宝石としてトパーズがある。トパーズは黄玉と呼ばれるが、黄色とは限らない。透明なものは水晶のように見えるが、水晶よりも硬く、加工がしずらい。

 そのためか、日本においては、中世の頃、水晶は、飾り玉にするなど宝石扱いされていたが、加工には向かないトパーズは放置されていた。

 明治時代、来日した外国人宝石商がこれに目をつけ、地元の人々を雇って拾わせ、海外に持ち出されたトパーズは明治年間に700kgに及んだという。(滋賀県大津市の田上鉱物博物館ホームページより)。

 明治維新以降、浮世絵の海外流出のようなことが、トパーズでも起きていた。

 

大戸川

 このトパーズの代表的産地が、滋賀県大津市の太神山(田上山)で、その麓を大戸川が流れており、その流域は、この写真(九頭弁財天八大龍王)のように花崗岩の岩盤が剝き出しになっているところが幾つかある。この場所は、琵琶湖から瀬田川宇治川)が流れ出ていく場所の近くで、古代、海人の隼人の拠点でもあった。

 二つ目が、岐阜県中津川市の苗木で、ここにある苗木城は、自然の巨岩をそのまま積み上げた石垣で有名だが、木曽川流域で、ここもまた写真のように花崗岩の岩がゴロゴロしている。 

木曽川岐阜県中津川市苗木)。

 三つ目が、昨日のタイムラインでも書いたが、山梨の甲府盆地に流れ込む荒川の上流部で、今でも水晶峠という名がついているが、修験の山、金峰山の周辺だ。

 この荒川の流域は、昇仙峡という観光名所になっているが、昇仙峡にも巨大な水晶の鉱脈がある。そして、この荒川が、甲府盆地に流れ込むところが大塚古墳など立派な横穴式石室を持つ古墳の集中地帯となっている。

昇仙峡

 そして四つ目が、福島の阿武隈山地である。

 現在は、福島県石川町が宝石の町として有名だが、阿武隈山地には、多くのペグマタイとが存在しており、とくに阿武隈山地のペグマタイトは、結晶が大きく、種類が豊富であり、トパーズに限らず様々な宝石が得られる。

 岐阜県苗木地方、滋賀県田上山、福島の阿武隈が「日本三大ペグマタイト鉱物産地」とされている。

 この阿武隈山地から東に流れる木戸川の河口、太平洋を望む場所に、天神原遺跡がある。この場所は、福島第二原発のすぐそばで、17km北に、大災害を引き起こした福島第一原発がある。

 この天神原遺跡というのは約2000年前の集団墓で、これまでに土器棺33基、土坑墓49基が見つかり、東日本最大の集団墓とされている。

 日本の歴史学の時代区分では、2000年前は「弥生」ということになる。縄文と弥生を分けるものは、一般的には稲作とされている。

 しかし、東北地方の弥生土器には縄文時代以来の系統が色濃く残っていることもあり、もともと縄文文化が栄えていた東国においては、「稲作」というキーワードだけでは単純に時代を区分できないような気がする。

 その当時、生きていた人々にとっては、縄文と弥生の区分などなかった。そうした歴史の年代区分よりも気になるのは、縄文と弥生、そして古墳時代においても続いていたであろう遠隔地交易だ。

 福島の太平洋に望む天神原遺跡のある場所は、すぐ東に阿武隈山地が迫り、稲作のために開かれた場所ではないことが明らかだ。人が暮らしにくい場所だから、原子力発電所が作られた。

 2000年前、この場所に築かれた東日本最大の集団墓について考えるうえで、これまでの歴史教育の定説のように、稲作による定住生活で階級差が生まれ云々を当てはめることは難しい。

 阿武隈山地の鉱物資源を、海上交通によって他の地域へと運ぶための拠点と考えた方が理解しやすいだろう。

 もしかしたら、古代、阿武隈山地の宝石が、大陸とのあいだの交易に用いられたかもしれないが、現在の歴史学では、証拠がなければ、そういう事実は無いものとされる。

 現代の歴史学者は、縄文時代に、黒曜石や翡翠など遠隔地交易が行われていたと認めているが、弥生時代に、そうした遠隔地交易が減ったとしている。そうした説は、けっきょく産地を特定できる黒曜石や翡翠などの証拠品に依存しており、産地を特定できない交易品は、証拠にならないから、説につながらないだけなのだ。

 時代とともに主要な交易品は変わっていくし、海上ルートを獲得した古代人にとって、そのルートを発展させていくことは自然のことだったのではないかと思う。

 それはともかく、私個人として不思議でならないのが、先日のタイムラインで書いた北海道の余市から東北の奥羽山脈にそって真南に伸びるラインの一番南が、この天神原遺跡の場所であることだ。

東経141度のライン、一番北の余市には縄文時代の環状列石が集中していて、北黄金貝塚公園(北海道にある縄文貝塚の1/5の面積を占める巨大な貝塚)。7千年前の大船遺跡、(世界最古の漆の副葬品)、垣ノ島遺跡(国宝 中空土偶)、万座環状列石、釜石環状列石などがあり、もっとも南、太平洋とぶつかるところ、木戸川の河口に、天神原遺跡がある。

 

 福島の天神原遺跡に埋葬されている古代人は、こうした遠隔地との交流と関係していたのではないか。

 そして、古代、遠隔地と交易を行っていた人々は、こうした地理的な関係も正確に把握していたのではないだろうか。

 江戸時代、伊能忠敬は、隠居後の20年ほどで、徒歩だけで全国をめぐり、測量し、現在の地図とほとんど変わらない精度の地図を作成した。

 数十年、数百年、数千年と、人間が行き来していれば、経験の蓄積によって、日本全国の地理的な把握は、当たり前のようにできていたのではないだろうか

 

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