第1295回 古代のコスモロジーと、海人の活動

高幡不動の私のオフィスから冬至の日に太陽が沈む方向に富士山があり、このラインの延長上に伊勢神宮がある。そして夏至の日に太陽が沈む方向が奥秩父で、その延長上に八ヶ岳があって、さらに諏訪大社の上宮にいたる。

 今週末、ワークショップセミナーを行う東京の私のオフィスは、高幡不動駅から徒歩12分くらいの高台の上にあり、部屋の窓から奥秩父の山々が見えるが、ひときわ印象深い山容を見せるのが、奥秩父連峰の盟主とされる金峰山(標高2599m)で、ここは、吉野の金峯山寺から蔵王権現が勧請された修験の山。私の部屋から金峰山の方向が夏至の日に太陽が沈む方向で、そのラインの延長が、諏訪大社の上宮。
 また、この部屋の窓から冬至の太陽が沈む方向で、金峰山の真南にそびえるのが富士山(窓の外の木が成長しすぎて全体がはっきり見えないのが残念)。この冬至のラインを富士山から延長すると伊勢神宮になる。
 私が今これを書いている場所の地理的な特殊性は、たぶん、近くの高幡不動尊金剛寺が関わっている。行基が開基し空海不動明王を置いたとされる金剛寺関東三大不動で、新撰組土方歳三菩提寺でもあるが、行基の活動を守っていたのが修験者で、空海も修験と関わりが深く、金峰山も富士山も修験の山だからだ。
 この金峰山と富士山のちょうど真ん中が甲府盆地で、私の部屋からだと真西にあたる。
 富士山の麓に住む写真家の大山行男さんとの付き合いで、何度も甲府盆地に足を運んでいるが、甲府盆地は、古代においては水の底、もしくは湿原だったのではないかと考えられている。
 甲府盆地の北の松本から安曇野にかけてもそうなのだが、周辺を高い山に囲まれて、そこを源流とする河川は多いのだが、水が外に出ていく河川が、松本盆地甲府盆地も1つしかない。
 松本盆地は北上する犀川で、甲府盆地は南下する富士川だ。しかし、この二つの川は切り立った断崖に挟まれた谷であり、たとえば地震などの落石で塞がれてしまうと、水が外に出て行かずに、盆地に溜まるしかなくなる。
 この松本盆地甲府盆地には、諏訪神社が異様なほどたくさんある。諏訪神社は、八幡神社などとともに数の多い神社だが、その大半は、長野県と山梨県新潟県に集中している。
 松本盆地の水を外に出すための犀川の貫通事業において、小太郎伝説があるが、小太郎の母親が諏訪明神の化身となっている。
 諏訪明神というのは、タケミナカタと、その妃の八坂刀売神(やさかとめのかみ)の2神を指すが、八坂刀売神は、海人の安曇氏との関わりがあると考えられており、松本の北には、安曇氏の拠点だった安曇野という地名が今も残る。
 また、松本盆地から犀川が出ていく場所に、安曇氏の祖神を祀る穂高神社があるので、松本盆地から水を出す事業に海人の安曇氏が関わっていた可能性が高い。
 ならば、同じく諏訪神社が集中し、かつ水の出口が1箇所しかない甲府盆地も同じようなことがあったのではないだろうか?
 実際に、甲府盆地には稲積地蔵の伝承があり、地蔵が、「甲府盆地の水を抜けば肥沃な土地が現れるはず」と、神様に相談した。そこで、穴切(あなぎり)明神が山に穴を開け、蹴裂(けさく)明神が岩を蹴り飛ばし、さらに瀬立(せだち)不動が川を作って水を導いた。こうして、甲府盆地の水は抜け、人々は豊かに暮らせるようになったと言われている。
 稲積というのは、どうやら地名を指しているようなのだが、甲府盆地の真ん中に、稲積神社が鎮座しており、この神社の由緒でも、今から2080年前、甲府盆地は湖沼地帯であったが、第10代崇神天皇四道将軍建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)の東征の際に、湖岸を切り開き水を富士川に流したと記されている。
 こうした伝承を探っても、甲府盆地と海人の直接的な関係は見えてこないのだが、奥秩父金峰山あたりを源流として甲府盆地に流れ込む川は、荒川と笛吹川がある。
 荒川の流域は、水晶など鉱物資源が豊かで、水晶の鉱脈が走る昇仙峡を通って甲府盆地の北の甲斐市に至るのだが、ちょうど盆地に入ったところが大塚古墳など古墳の集中地帯となっている。

大塚古墳(山梨県甲斐市


 笛吹川は、甲府盆地に入ると、巨石を祭神とする立石神社や大石神社など古代からの聖域や、縄文遺跡として有名な釈迦堂遺跡などの近くを流れ、かつて国府のあった笛吹市を抜けて、北から流れてくる荒川と合流するのだが、その合流点が曽根丘陵で、ここから富士五湖への道が続く。
 曽根丘陵は、石器時代縄文時代古墳時代の集中地点で、今も、東日本では最大級の甲斐銚子塚古墳などの古墳群が見られるし、ここにある山梨県立考古学博物館に陳列されている縄文土器は、日本の考古学博物館の中では最も充実し、質が高いものがそろっており、山梨が縄文王国であったことを今に伝えている。

甲斐銚子塚古墳

 

 さらに、曽根丘陵にある鳥居原狐塚古墳(とりいばらきつねづかこふん)からは、238年の紀年銘をもつ鏡が出土している。
 魏志倭人伝で、卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡100枚を賜ったのは239年で、この年代より古い年号が刻まれた鏡は、日本全国で3枚しか出土しておらず、ここ以外では、大阪の高槻の安満宮山古墳と、丹後の峰山にある太田南5号墳だ。
 高槻の安満宮弥生遺跡は、日本最大級のスケールがあり、近畿に稲作が入ってきた最初の場所とされており、丹後の峰山は、扇谷とか奈具岡など弥生の最先端都市がある他、弥生時代としては最大規模の墳墓である赤坂今井墳墓がある。
 近畿の淀川流域と丹後が古代の先端地域であったことは歴史好きには知られている。ヤマト王権の拠点は近畿だと考えられているため、古代の文化は西高東低で、東国は遅れていたと一般的には思われている。
 しかし、山梨盆地や、その北の諏訪から松本盆地は、縄文王国であり、山梨盆地の曽根丘陵に残る痕跡を見ると、石器時代から縄文時代弥生時代から古墳時代まで、連続している。
 この歴史の連続に思いを馳せるうえで、非常に不可思議な事実が、ここにある。

ライン上の北から、糸魚川の青海海岸(ヒスイが拾える海岸)、長和町資料館原始・古代ロマン体験館(黒曜石の産地)、八ヶ岳連峰(蓼科山、赤岳)、縄文の梅乃木遺跡、甲府盆地の大塚古墳、銚子塚古墳、富士山、伊豆の河津町の段間遺跡(神津島産の黒曜石の加工場)。  東西のラインは、西の伊勢神宮と茨城の鹿島神宮の距離が400kmで、富士と伊豆と糸魚川を結ぶラインは、その中間にあたり、直角に交わっている。

 

 この地図は、富士山と八ヶ岳の赤岳や蓼科山を結ぶラインを延長したものだ。富士山と八ヶ岳のラインは東日本の火山帯の端にあたるが、このあいだの北杜市などには、縄文遺跡が無数にある。
 実際に訪れると、縄文遺跡のあるところは、富士山と八ヶ岳の両方の姿を確認できる風光明媚な場所が多い。
 そして、不思議なのは、甲府盆地に2箇所ある古墳の集中地帯は、上に述べたように奥秩父金峰山を源流とする荒川でも結ばれているが、さらに富士と八ヶ岳の赤岳と蓼科山を結ぶライン上にある。
 さらに、このラインを北に伸ばして日本海にぶつかるところが糸魚川の青海海岸で、ここは、ヒスイの鉱脈のある姫川と青梅川に挟まれたところで、今でもヒスイ拾いの海岸として有名である。この糸魚川のヒスイは、古代、北海道から、九州、沖縄まで流通していたことがわかっている。

明星山。この麓がヒスイ峡で、ここのヒスイが、川によって、糸魚川の青梅海岸まで運ばれる。

 また、同じラインを南に伸ばして太平洋にぶつかるところが、伊豆の賀茂郡河津町の段間遺跡で、ここは、古代、神津島産の黒曜石の加工場だった。この場所で黒曜石を石器に加工して日本各地に流通させていたことがわかっている。
 さらに、ライン上の糸魚川八ヶ岳のあいだに、ドンピシャで長和町資料館原始・古代ロマン体験館があるが、この周辺は黒曜石の産地であり、黒曜石を通じて古代世界を紹介する場所である。
 そして、ライン上の八ヶ岳甲府盆地のあいだが、縄文時代の梅之木遺跡(北杜市)であり、この高台からは、眼前に連なる南アルプス雄大な風景が望める。
 このように見ていくと、富士山と八ヶ岳の赤岳と蓼科山を結ぶライン上に、縄文時代の重要な聖域が重なっており、さらに、甲府盆地の南北の端では、古墳の集中地帯がある。
 さらに、興味深いのは、このラインは、三重県伊勢神宮茨城県鹿島神宮を結ぶラインと富士山の南麓で直角に交わるのだが、伊勢神宮鹿島神宮のあいだが400kmで、このラインは、ちょうど中間点の200kmのところを走っている。
 茨城の鹿島神宮の場所は、日本列島を南北に分断する中央構造線の東端で、伊勢神宮もまた中央構造線上にある。
 また、糸魚川から伊豆にかけてのラインは、日本を東西に分断するフォッサマグナの西端の糸魚川・静岡構造線である。
 つまり、このクロスラインは、日本を東西と南北に分断する断層と関わっている。
 さらに、中央構造線鹿島神宮からほぼ真西に向かい奥秩父を経て八ヶ岳を越え諏訪湖あたりに出て、そこから西南方向に伸びて伊勢神宮に至るのだが、鹿島神宮から諏訪までの距離と、諏訪から伊勢神宮までの距離も、約220kmで同じである。
 伊勢神宮はアマテラス大神の聖域で、鹿島神宮は、アマテラス大神の使いとして大国主に国譲りを迫ったタケミカヅチを祭神としており、諏訪大社は、国譲りに最後まで抵抗したタケミナカタの聖域となっている。
 国譲りの神話に関係する3神の主要聖域の配置が、220kmの間隔でつながっている。
 これらの位置関係が偶然なのか計画的なのかはわからないのだが、さらに興味深いことがある。
 神津島の黒曜石の加工場所であった段間遺跡の河津町来宮神社が鎮座しており、熱海の来宮神社も有名だが、伊豆半島来宮神社があるところには、鹿島踊りが伝えられている。

 

伊豆半島河津町にある来宮神社。この海岸に、神津島の黒曜石の加工場だった段間遺跡がある。

 名前からしても、この踊りは茨城の鹿島神宮と関係が深いのだが、海からの来訪神を迎える踊りであり、来宮神社の祭神は五十猛神で、この神は、船造りや海上交通と関わりの深い神である。
 神津島の黒曜石も、糸魚川のヒスイも、日本各地に流通させるうえで、当然ながら海上交通が重要だった。
 そして、この糸魚川と伊豆を結ぶライン上の山梨や長野といった内陸部で、かつては湖だった場所の水を外に流すという事業が行われたという伝承に諏訪明神(海人の安曇氏と関わりのある八坂刀売神)の存在が見え隠れする。
 卑弥呼が魏から賜った239年以前の年号が銘記された三つの鏡のうちの一つが甲府盆地から発見されていることも含め、海人のネットワークが、古代の物と、文化と、コスモロジーの伝達に大きな力を発揮していたことは間違いない。
 そして、コスモロジーの伝達において、方向や距離などを含む「地理」が、何かしらの深い意味を持っていたようで、その地理に通じていたのが、海人だったのではないかと思われる。
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