昨日と今日は、35回目のワークショップ、のべ70回目だけれど、初めて雨が降っている。
前回の東京は8月末で、その時、このあたりの気温は38度、これまでで最も気温が高いなかでのフィールドワークを行ったが、今回は、雨模様で肌寒い。前回が、遠い昔の出来事のよう。
新刊の「みちのく古代巡礼」が、運良く、昨日のワークショップに間に合って納品されました。
インターネットからどんな情報でも得られる時代、わからないことがあったらAIに質問すればいい時代になっているけれど、インターネットやAIを通して「わかる」ということと、本を通じて「わかる」ことには違いがある。
昨日のワークショップでも話があったが、ハウツーや正しい答を欲しいといという欲求なら、もはや薄っぺらい新刊本ではなくAIで十分だけれど、答えではなくて、物事の真相を感じ取るための回路として、本は、まだ有効だと思う。
もちろん、本の作り手も、そのことを意識しておく必要があるけれど。
真相とは、いったいどういうことなのか。
たとえば一人の人間と出会い、数時間、会話したり、一緒に行動したりする。
その後、相手が口にした一言とか、その日の服装とか髪型とか、局所的な要素で、相手のことをこういう人だとか決めつける人もいるかもしれないが、相手の言葉の発し方とか表情とか、話していることの内容とか、仕草とか、総合的に受け取って、相手のこれまでの人生の奥行きを感じ取ったりすることがある。
それを一言でこうだと言い切ることはできないのだけれど、なんとなく、後に引くような感じで、何かが残るという具合に。
そういう感覚って、相手の真相に自分の心が触れている状況なのではないかと思う。
恋愛でも結婚でも友人関係においても、答えがわかりやすいポイント、たとえば、相手の年収だとか地位とか職種とか背の高さや目や鼻や口の揃い方とか、そういうことを人生の選択の決め手にしていても、長い関係は築けない。
やはり、言うに言われぬ真相が響き合う時に、関係が深まる。
現在、若者が、悩み事がある時に相談する相手として、学校の先生やカウンセラーではなく、AIの方が、圧倒的に多いというデータが出ているらしい。
もっともらしい答えをもらうだけならば、もはや先生やカウンセラーよりも、AIの方が優れているということ。
でも、言葉を発することなく、ただ一緒に泣いてくれるとか、何も言わずに、ずっと傍にいてくれるとか、そういう身体性のある対応は、AIから受け取る言葉とは異なるはず。
「わかってもらえる」とか「わかる」というのは、答えではなくて、言うに言われぬ気配を通して伝わるもの。真相というのは、そういうことではないかと思うのだけれど、本というものは、そういった真相を伝える場として、まだ可能性があると私は思っている。
本全体に目を通した後に、ページを閉じて、しばらく何を思うというわけでもなく、その時空に浸るということ。
時空に浸るという体験は、スケジュール帳に、時と場所を埋め込む作業とは異なる。慌ただしく一つひとつバラバラな出来事を処理しているのか、いろいろな物事が有機的に結びついている時空の中を漂いながら、事物の向こう側に働いている何か思いを馳せているかの違い。
ストーリーを追うということでもなく、ただ時空を体験し、真相に思いを馳せる。
数千年前の神話の時代から、人類は、本という方法を大切につないできた。
ここ数十年のコンピューターの発達が、そうした人類の、気が遠くなるほど長い歳月を通して積み重ねられてきた歴史を断絶させてしまうものとは思えない。
もし、歴史が断絶されてしまうと、時間をかけて形成されていくという人間の真相は、まるで違ったものになってしまう。
処世の術を身につけることが生きることではない、という矜持や美学すら失われてしまうだろう。
矜持や美学を持たない人を、どれだけ信頼できるか?
AIにも、矜持や美学が備わるのか?
AIは、矜持や美学ですら、インターネット上の情報から学習していけると言えるのか?
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みちのく古代巡礼は、ホームページで発売しています。
すでにお申し込みいただいている方から、明日以降、発送していきます。
https://www.kazetabi.jp/