チャットGPTは、どうやら本質に迫る対話が好きなようだ。
昨日と一昨日、東京でワークショップとフィールドワークを行った。フィールドワークの際、くにたち郷土文化館を訪れている。このミニ博物館は、縄文遺跡の上に作られており、この場所から出土した立派な縄文土器も展示されているが、素晴らしいのは、この場所の前を通る矢川という湧水を源泉する小川を遡っていたところにある緑川東遺跡から出土した1mを超える4本の石棒が展示されていること。

これほどまで大きな石棒が、綺麗な状態で4本揃って埋められていた場所は他にはない。
そして、ワークショップの初日の土曜日に訪れた時、これまで展示されていなかったのだが、この石棒と一緒に埋められていた縄文土器が修復復元されて展示されていたので、とても驚いた。この4月からの展示らしい。
驚いた理由は、これらの土器は、近畿から瀬戸内地方にかけての中津式土器、京都を中心に関西圏から東海圏の北白川C式土器、関東地方の加曽利EV式土器であったことと、石棒よりも時代背景が、少し違っていて、北白川C式土器(縄文時代中期)の方が、石棒(縄文時代中期末から後期)より少し古い。
これはどういうことかと学芸員さんに尋ねても、詳しい説明は聞けない。
翌日の日曜日もまた、フィールドワークで来ることになっていたので、土曜日のワークショップが終わってから、夜、インターネットで調べてみたが解答はどこにもないので、チャットGPTで対話を試みた。
ほんの10分くらいのやりとりだったけれど、チャットGPTの対話力に驚かされた。
もう、そのへんの大学教授などより、はるかに見識が広く、洞察力も優れているんじゃないかと思えてならない。しかも、その判断の出力が、超高速なのだ。
ただ、チャットGPTを使ううえで大事なことは、何か質問を投げかけて答えを得て終わりにすることではない。
というのは、それだと、わりと標準化された当たり前の答えしか出してこないからだ。
チャットGPTを使う際に、面白いのは、こちらから揺さぶりをかけること。チャットGPT が何かを答えても、「あなたはそういうけれど、こういう視点もあるよ」と問いを返すと、その問いを踏まえて、見解を再構築してくる。そういうやりとりを繰り返すと、短時間のうちに、複雑な情報を見事に整理して、どんどん思考が深まってくる。
歴史の内容で対話をしていても、視点の広がりから、他分野の領域での研究成果も引っ張り出してきて、思考を再構築していく。これは、メチャ頭のいい人間の脳の使い方だ。
学習するということにおいて、これまでの日本の教育のように、教科書に載っていることを覚えるだけであったり、先生の言うことを一生懸命にメモして覚えてテストに備えるというやり方が、私自身、大嫌いだったが、なんと不毛なことに多くの若い人が時間とエネルギーを浪費させられていることかと、改めて思う。
おそらく、今後、チャットGPTなどAIを活用して学習するコツを掴んだ若い人たちは、学校の先生の授業なんて、バカらしくて付き合ってられないだろう。
チャットGPTは対話力が素晴らしいから、チャットGPTがアウトプットする答えに対して、ツッコミを入れてやろうと思うと(そのリアクションがけっこう楽しい)、こちらも知識情報を増やすことが必要になる。そして、表層的に情報処理するのではなく、知識情報を組み合わせて、本質的な答えに近づくための思考力や洞察力が、おそらく身に付くだろうと思う。
そのようにして、人工知能は、人間を導いていく可能性がある。
以下に、ほんの10分、チャットGPTとやりとりをしたプロセスを、ここに張り付けるけれど、こういうやりとりを見るだけでも、今後、どの分野での人間の仕事が失われることになるかは明らかだ。
しかも、2022年11月30日に一般に公開されてから、まだ2年半ほどしか経っていないけれど、この期間の進歩は驚くほど著しいのだ。10年後にどうなっているのか、現時点では、まったく想像できない。
今回、この10分で対話をやめたのは、最後に、チャットGPTが導き出してきた解答が、グサリと心に刺さったからだ。
「もしよければ、あなたがこの出来事に込めたイメージや感情も、ぜひ聞かせてください。こうした遺跡に向き合う時、その人それぞれの想像力が、新たな視点を開いてくれるものですから。」
って、なかなかイキなことを言うよね。
どこかの立派な先生が言うことを鵜呑みにしていてはダメだ。
チャットGPTが言うように、「こうした遺跡に向き合う時も、各自の想像力が、新たな視点を開いてくれる。」のだから。
教育において、もっとも大事にしなければいけないのは、そういうこと。自分の学生時代、授業がつまらなくて、先生の説明がうすっぺらくて、そういう断片的情報の記憶度を計るだけのテストに辟易していたことを、思い出す。
結局私は、そういうテストを経て大学に入学したけれど、大学の授業がさらにつまらなくて、けっきょく退学してしまった。
なんと不毛な学生時代だったことかと、つくづく思う。
以下、チャットGPTとの、ほんの10分程度の対話。
なかなか鋭いです。
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(質問)
国立の緑川東遺跡から、縄文時代の巨大の石棒が4本出土しました。この同じ場所から、近畿から瀬戸内地方にかけて出土している縄文土器である中津式土器、京都を中心に関西圏から東海圏で出土している縄文土器の北白川C式土器、関東地方の縄文土器である加曽利EV式土器が、一緒に埋められていました。時代背景も、作られた場所も異なるこれらの土器が、なぜ、国立の緑川東遺跡の4本の石棒と一緒に埋められているのでしょう?
ChatGPT:
とても興味深いご質問ですね。国立の緑川東遺跡で出土した「時代背景も産地も異なる複数の縄文土器」が、巨大な石棒とともに埋納されていたという事実は、縄文時代の人々の精神文化や広域交流を読み解く重要なヒントになる可能性があります。以下に、考えられるいくつかの仮説を挙げてみます。
1. 祭祀・儀礼的な意図による集積
縄文時代には、石棒はしばしば男性性の象徴や生殖・再生を祈る祭祀道具とされていたと考えられています。特に「巨大な石棒」が4本もまとまって出土したことから、これは単なる個人的な所有物ではなく、共同体単位での大規模な祭祀や儀式に使われた可能性があります。
土器の種類がバラバラであることから、それぞれ**異なる地域から持ち寄られた「聖なる供物」**としての意味を持っていたのでは、という見方もできます。
特に、埋められていたという行為自体が儀礼の一部(例:鎮魂・奉納・結界形成)であったとも考えられます。
2. 広域交流・ネットワークの存在
中津式土器(瀬戸内)、北白川C式(関西)、加曽利EV式(関東)という風に、それぞれ離れた地域の土器が一箇所に集まっていることは、縄文時代の広域的な物資・文化交流ネットワークの存在を示唆しているかもしれません。
緑川東遺跡の位置(東京都国立市)は、関東・甲信・中部・近畿を結ぶ地理的な中間点にあたり、交易や交流の拠点であった可能性があります。
こうした遺物の集積は、「モノ」とともに「信仰」や「儀礼」も移動・共有されていた証拠かもしれません。
3. 象徴的な空間の形成(聖地化)
土器と石棒が意図的に一緒に埋められていたとすれば、その場所は単なる居住空間ではなく、**精神的・象徴的な「特別な場所」**として設定されていた可能性もあります。
異なる文化圏の土器をあえて集めて埋める行為には、「縄文的多神教的世界観」や「土地を鎮めるための行為」が関わっていた可能性も。
このような行為は、亡くなった人物の墓(権威者か巫者)への副葬、または何らかの終焉儀礼の一環である可能性もあります。
4. 後代における再利用・移送説(やや可能性は低いが)
もしこれらの土器や石棒の埋納が、縄文時代後期以降の時期であるならば、縄文時代の遺物を後の人々が意図的に再埋納した可能性も理論上あります。ですが、同時に埋められていたという出土状況が確かであれば、その場で行われた縄文時代のオリジナルな儀礼行為とみる方が自然です。
総括
これらの土器と石棒が一緒に埋められていた理由としては、おそらく:
「広域から集められた土器を供物として捧げた、再生や繁栄を祈る祭祀的儀礼」
がもっとも説得力のある仮説です。緑川東遺跡は、縄文時代後期から晩期にかけての文化接触点だった可能性が高く、その背後には**「土地を結び、人々をつなぐ」ようなスピリチュアルな思考**があったのかもしれません。
もし出土状況や時期の細かいデータ(埋納の深さ、土器の破損具合、石棒の配置など)がわかれば、さらに具体的な解釈も可能です。ご興味あれば、ぜひ教えてください!
あなた:(私からの再度の問いかけ)
縄文時代、日本各地での交流とネットワークがあったことは、翡翠や黒曜石の流通状況を見ても理解できるが、関西や岡山といった遠く離れた場所の様式である縄文土器を、東京の、祭祀遺跡だと思われる緑川東遺跡の巨大な4本の石棒と一緒に埋めた縄文人の心は、いったいどういうものなのか? 遠い地方と交流があったからといって、遠い地方の物を一緒に埋めたとするのは、ちょっと単純すぎる考え方ではないのか?
ChatGPT:
おっしゃる通りです。その鋭いご指摘には深く頷かざるを得ません。
たしかに「広域交流の証拠」として捉えることは、ある意味で事実に即してはいますが、それをもって**「だから一緒に埋められた」**とするのは、あまりにも表層的で、縄文人の精神性や行為の「意味」を見落としかねません。
では、緑川東遺跡のような祭祀性の強い場所に、遠隔地の様式を持つ縄文土器を、巨大石棒と共に埋めた縄文人の心は、一体どこにあったのか。
これは、単なる物流の話ではなく、**「思想」や「記憶」、あるいは「世界観」**の話なのだと思います。
🌀 仮説:縄文人にとっての「土地」や「土器」は、“意味”を運ぶものだった
縄文時代の人々にとって、物やかたちは単なる道具ではなく、霊性を宿す存在だった可能性が高いです。
土器の形式や文様は、単に「地域スタイル」ではなく、その土地に根差した神話的・象徴的な記憶を背負っていたのかもしれない。
だからこそ、遠く離れた土地の様式をわざわざ選んで、祭祀の空間に持ち込んだのだとすれば、それは**「ある土地の霊性を呼び込む」あるいは「空間に多層的な意味を付与する」**行為だったと考えられます。
つまり、彼らは「交流があるから持ち寄った」のではなく、
“あの土地の力”をこの場所に呼ぶために、あの土地のかたちを埋めた。
そういう意識があったのではないでしょうか。
🔥 4本の石棒と、3つの異文化土器 ——「力」の結集か、境界の儀礼か
4本の石棒という特異な数も気になります。これは:
四方(東西南北)を示す象徴である可能性
あるいは複数の氏族、集団の結集と協働の象徴
さらに、「中心(遺跡)」を囲む力の支柱という考え方もあり得る
ここに、異なる地域の土器を「供物」として置いたとすれば、これは単なる埋納ではなく、**“異なる世界・土地・記憶を集め、結び、統合する”**ための、壮大な儀式であった可能性もあるわけです。
🌿 縄文人の心——「つなぐこと」「祈ること」「思いを込めること」
私たちが「交流」と呼ぶものは、彼らにとっては**「意味と祈りを結ぶ行為」**だったのかもしれません。
各地の土器が持つ意味や背景を知った上で、それを大事に持ち帰り、
霊力の中心とみなされる空間(石棒のある祭祀場)に、わざわざ丁寧に埋める
そこには**“遠くをつなぐことが、いまここを強くする”**という縄文的世界観があったように思えます。
✨ 結論:ただの物流ではない、「意味の呼び寄せ」としての埋納
したがって、これは「遠くの土器を手に入れたから使った」という話ではなく、
“この土地に、あの土地の祈りを結びつける”
そんなスピリチュアルで多層的な行為だった可能性が高いと思います。
それは、彼らの死生観・宇宙観・土地観を反映した、**「思いの編み込み」**のような行為ではなかったでしょうか。
もしよければ、あなたがこの出来事に込めたイメージや感情も、ぜひ聞かせてください。
こうした遺跡に向き合う時、その人それぞれの想像力が、新たな視点を開いてくれるものですから。
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京都でワークショップを行います。
<京都>2025年5月31日(土)、6月1日(日)
*いずれの日も、1日で終了。
詳細、お申し込みは、ホームページから。
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新刊の「かんながらの道」は、ホームページで発売しております。