昨日、諏訪のことについて書いたところ、諏訪のミシャクジ神についてもっと掘り下げて欲しいという意見があった。
諏訪は、昨日も書いたように、特殊な事情によって縄文に遡る祭祀を融合という形で引き継いでいるわけで、諏訪に伝わるミシャクジ神は、縄文に遡る宗教観や宇宙観の名残である可能性が高い。御柱や御柱祭りもそうだろう。
なので、諏訪のミシャクジ神について考える時、諏訪という地域限定で分析するだけでは真相に近づけない。
たとえば、京都の向日山は、第26代継体天皇が弟国宮を築き、平安京遷都の前に桓武天皇が長岡京を築いたところだが、向日山に鎮座する向日神社が明治神宮のモデルになっている。
この向日神社の隣には、3世紀後半に遡る巨大な前方後方墳の元稲荷古墳があり、さらに弥生時代の高地性集落まである。
そして、向日山の南下からは縄文時代の祭祀道具である石棒が発見された。近くには関西では数少ない石棒の製造場所も見つかった。
この向日山の上のスペースは鶏冠と呼ばれているが、すぐ近くに鶏冠町があり、ここからは銅鐸の製造跡が見つかった。
京都盆地の銅鐸埋納場所は2箇所で、南が石清水八幡宮が鎮座する男山の南麓で、北は広沢池から京北に抜ける道沿いで今はゴルフ場となっている梅ヶ畑だが、この2箇所と向日山は経度が同じ南北ライン上にあり、さらに銅鐸埋納地の真北にある沢ノ池では、石器時代からの祭祀場の跡が見つかった。
すなわち、向日山は、石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、継体天皇時代、桓武天皇時代、明治政府に至るまでの歴史の記憶装置になっている。
そして、この向日山の銅鐸製造場所である「鶏冠」という地名は、諏訪の前宮の敷地内で、男童を要石の上に立たせてミシャクジ神を下ろして現人神とする儀礼が行われた「鶏冠社」と同じである。
諏訪と京都の向日山は、古代からの記憶装置となっているが、遠く離れた二つの場所で、祭祀に関わる名として、鶏冠が共有されているのだ。
しかも、諏訪と向日山は、冬至のライン上に位置しており、このライン上に、多くの縄文遺跡や弥生遺跡、銅鐸の埋納地、石棒の発見地、縄文時代の環状列石、重要な前方後方墳が、配置されている。
これは、とても偶然とは思えず、その根拠の一例は、向日山の元稲荷古墳から西に冬至のラインを伸ばしたところにある神戸の西求女塚古墳は、同じ時期の同じ前方後方墳というだけでなく、サイズもデザインも全く同じなのだ。さらに、西求女塚古墳の1.5km北の篠原縄文遺跡からは石棒や遮光器土偶まで発掘され、さらに1.5kmほど東北の桜ヶ丘からは大量の銅鐸が出土しており、神戸の西求女塚古墳周辺もまた、古代からの祭祀が連続する場所になっている。
また、このラインの一番東は、赤城山の山頂付近にある赤城神社だが、ここから冬至ラインに13kmほどのところ、赤城山麓に、縄文中期の大規模環状集落の道訓前遺跡がある。
1996年から1997年に調査が実施されているが、とくに優れたデザインの縄文土器が大量に出土し、世に知られることとなった。この中には、新潟、長野、南関東に多く見られる土器が存在し、それらの地域と交流があったと考えられている。
この近くにある金井東裏遺跡は、ポンペイ遺跡のように、突然の榛名山の噴火で被災したのだと考えられる甲(よろい)を着たままの古代人の人骨が発見されて話題になった、これ以外にも、榛名山の噴火で埋もれてしまった遺跡が、周辺に数多くあるだろう。
この冬至のラインでつながる縄文時代からの聖域のことを踏まえ、諏訪に残る御柱が縄文に遡る世界観や宗教観の名残だと想定すると、縄文時代の石棒とか環状列石が何なのかという問題とつながる。
ミシャクジ神は、この御柱との関係性が深いと思われるので、ミシャクジ神のことを考えることは、縄文時代の環状列石は、どういう宇宙観に基づいて、なんのために作られたのか?を考えることと重なってくる。
ヒスイや黒曜石の流通状況の分析によって、縄文時代において、北海道から沖縄に至る交流があったことがわかっている。
そして、江戸時代の伊能忠敬は、隠居後の20年足らずで、日本国中を徒歩で測量し、あれだけ完璧な日本地図を制作した。
江戸時代と古代では、移動手段などは大して変わらない。なので、縄文時代に、伊能忠敬と同じような地理感覚を備えていたとしても、なんの不思議もない。
________________________
ピンホール写真で旅する日本の聖域。
Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。