第1284回 日本語の柔軟性と、議論の深め方について

昨日、ワールドカップを見ようと思ってamebaテレビをつけたら、「議論」についての議論を行う討論番組があった。

 この番組の中の議論は、それぞれが知っていることをアウトプットする状況説明と状況分析でしかないのだが、一般的に議論が合意形成を目指すものだとして、議論が必要かどうか、この社会で議論というものがが成り立つかどうか、ということへの合意形成をしたところで、それは、けっきょく議論好きのための議論でしかない。

 議論は言葉によって行うものだが、まずは、その言葉というものが、いったいなぜ、どういう歴史的背景の中で存在しているのかという根本的な問いから考える必要があるのではないかと思う。

 そもそも言葉というのは、それが使われる時や場所によって、その役割も、その使われ方も違う。

 議論好きの人たちの中では、議論向きの言葉の使い方をしようとするし、それに長けたものがイニシアチブを握る。しかし、そのイニシアチブが、議論好きでない人にとっての説得力ということにはならない。

 説得力のある人というのは、議論のうまい人ではなく、時と場に応じた言葉の使い方ができる人だ。

 そして、言葉というのは、それが使われている国によって構造が違うのだが、文法構造の違いは思考構造の違いでもあるので、そのことを踏まえずにグローバル化云々を論じても、それは、どれか一つの思考の癖に偏った考え方にすぎない。

 中国語と英語の文法はどちらもSVO。英語と中国語は、主体的な行為を前に押し出す。日本語は、基本的にはSOVで、どうするのかという結論が後になる。

 SやVを前面に打ち出す言語構造は、雑多な民族が混じり合った共同体にとって必然だったと思う。相手は、何考えているかわからない人、というのが前提だから。

 日本語に限らず、世界中で、人の流動性があまりなかった地域の共同体では、SVOではないところが多いが、現在のような価値観が錯綜とする時代に議論とか対話を行う際、SV0言語でなかったり、SV0言語の思考に慣れていない者には困難が伴う。

 しかし、日本語というのは、語順にとらわれない柔軟性があるから、英語的なSV0構造のなかで思考の訓練を受けると、日本人でも、SVO構造で思考したり、話ができたりする。 

 英語や中国語の思考構造の場合、日本語のような柔軟性に欠けて、主体的な行為を前に押し出すことを互いにやり合う。しかし、人間というのは賢いもので、対立が酷くなるとヤバいという危機意識も働くから、ウィットに富む表現や、外交手腕を洗練させる。中国とアメリカのやり合いは、日本人的思考で是非を判断することは難しい。

 日本人(日本語)の場合、対立や軋轢を防ぐための伝統的方法は、SやVをさらに抑制し、Oだけを共有するという暗黙知だった。その結果、日本語の会話は、Oだけで成り立ってしまうところがある。阪神タイガースの岡田監督の「ああ、もうあれや」とか。

 Oだけでも成り立つ日本語は、SVOにもでき、そういう思考のトレーニングをすると、外国人とも対等に議論や対話ができるが、そのトレーニングは、言語の習得だけではない。

 自分の考えを人に伝えて理解してもらわなければならないという場面を多く持つということ。簡単に、いいね!と理解してくれそうな相手への発信ではなく、それが難しそうな相手に対しても大事なことを伝えなければならないという状況を多く踏んでいる人は、思考特性や言語の使い方を、それに向くように変化させることができる。

 スタートアップを行う人は、いろいろな人を説得しなければいけないから、当然、そうした能力が重要になる。学者や政治家や、企業内においても、派閥の論理の中でやっている人と、そうでない人とのあいだに、言語能力や思考能力の差が出る。その差は、シンポジウムなどの発言や、対談などにはっきりと現れる。

(言語力は、単なる語学力や、いわゆる西洋ロジックということでもなく、たとえば経験と思考をうまく重ねて使うなど言葉による説得力だ)

 そうした思考能力や言語能力を総合化する力が、編集力だと思う。

 編集を、雑誌や本の分野や、映画や音楽などのように素材をつなぐ”作業”と限定的に捉えている人が多いが、どんな分野の仕事であれ、今日的な複雑な状況で良い仕事をするためには、この編集力が重要。編集力は、ある目的のために立場や価値観や主張などの異なる者達を束ねる力で、そのための思考と言語の訓練が不可欠だし、さらに、言語に限らない各種の方法を選択し、それらを融合させた力が最大になるように努める。

 サッカーの監督の力も、編集力だ。かつては個々の選手の能力で試合の勝負が決まってしまっていた時代もあっただろうが、個々の能力が均衡してきた現代においては、監督の編集力が問われている。

 そして、編集において最も重要な力は、説得力と調整力だが、実は、活力(前向きの力)こそがエンジンになる。

 活力というのは、この場合、希望を見させる力と、その実現のためのビジョンだ。これが無いと、人は説得を拒否し、保身に走りがちになる。

 企業においても、スポーツにおいても、地域活性においても、希望とビジョンと無縁のリーダーには、誰もついてこない。

 日本の深刻な問題は、国全体として、希望が見えないということ。つまり、この時代に応じた希望とビジョンを作り出せていないということ。希望とビジョンを作り出す努力が、経済発展、所得向上、社会福祉の充実など高度経済成長の時代の上書きでしかないところに問題がある。

 日本人の未来にとって重要なことは、柔軟性に富んだ日本語(および日本的思考)の、状況に合わせた使い方への変化で、それを良い方向へ導けるかどうか。そこに希望とビジョン の作り方が重なってくる。

 議論や対話にしても、けっきょく、どこを目指し、そのためにどうするか、ということが肝心になってくるのであって、それがなければ、どれだけ言葉を駆使しても、知識や情報の見せびらかしにすぎない。

 ちなみに、英語と中国語では、SとVと0に関してはそんなに違いはなくても、時と場所に関しての柔軟性は違う。英語は、Vの前に時や場所を持ってこれないけれど、中国語は、時や場所を、Vよりも前、つまり強調できる。欧米言語の人にとっては、物事を成就させるためには主体と行為が大事だけれど、中国人の場合、時や場所も、かなり重要であるという意識が伝統的に強かったのだろう。

 欧米人にとっての幸福判断は、伝統的に、天国と地獄、最後の審判があるだけで、地上のどこであるかは特に重要でない。つまり、その場に応じた価値観ではなく、普遍的な価値観でなければならない。

 日本人は、明治維新以降、この普遍的な価値観の洗礼を受けてきて、議論の際の幸福観も、そういう欧米的な基準を刷り込まれ、普遍的な数値で計り、年収とか寿命とか偏差値の競い合いになっている。

 雪が降るなか、温泉に入って一杯やるという、時と場所に応じた「極楽」があるにもかかわらず。そして、そういう生理的な感覚は、今も失われていないにもかかわらず、政府の周りにいる有識者の議論や、言葉の使い方が、それに応じていない。仮に、そういう言葉を使ってしまえば、マスコミに、「努力していない」と叩かれる。

 日本語の構造や思考構造は、英語に比べて、中国語と同じく、時と場合によって、「時」や「場所」を重視することができる。

 そして、中国語よりも、Vではなく0を重視できる。

 「目的」に向けてまっしぐらな国民性は、良い目的であれば良い結果となるが、そうでない場合は、悲惨なことになる。

 だから、現在の日本人にとって議論を深める必要があるのは、この時代に、日本人にとって、良い目的とは何なのか? ということではないかと思う。ビジョンについての真剣な議論は、それからのことだ。

 

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