”モノノケ”と”色好み”の哲学

 昨日、京都の下京区にある名勝 渉成園源氏物語に関する催しが行なわれた。素晴らしい庭園を背景に、千年の時空を超えて魂を遊ばせながら、近代社会の様々な問題を乗りこえるための哲学が、最新の社会学や西欧からの輸入思想ではなく、この日本の根元にあるのではないかと感じさせる時間でもあった。

 構成は二部で、前半が、宗教学者山折哲雄さんの講演。そして、後半が、京ことばの女房語りで源氏物語を現代に伝え続ける山下智子さんの公演だ。
 山折さんは、ただの古典趣味、教養の素材としてではなく、現代の様々な問題を解くための鍵を源氏物語の中に見いだそうとする視点で話を展開された。その話の中で、標準語でも原語でもなく敢えて京ことばで源氏物語を読み聞くことの意義を語り、その後、山下智子さんの実演に耳を集中することになった。
 山折さんの講演も、山下さんの朗読も、耳に細かな神経を集中させる身体反応を呼び起こすものであったが、声を聞きながら、渉成園の美しく広大な庭園に眼をやることで、日々の生活で使う意識とは違うところが、心地よく刺激された。話を聞いて理解するという脳の使い方ではなく、音楽の中に漂う感覚を、視覚と聴覚の両方で味わっているかのようだった。
 渉成園が持っている場の力との相乗効果で、日本人がもともと備えている美質を自分の中に発見する回路とまでは一挙にいかないであろうが、微妙な始まりの鼓動のようなものを自分の中に確認する起動装置の役割を果たしたのが、山折さんの見事な講演だった。
 山折さんは、三つのポイントで源氏物語について語った。一つは、成人の日にちなんで、千年前と現在における成人というものの捉え方の違い。
 二つ目が、明治維新以降、近代文学者が中心になって標準語に翻訳してきた源氏物語に対する消化不良の思いと、なぜ京ことばで語ることの意義があるのかという話。
 そして三つ目が、源氏物語を単なるプレイボーイの話、日本版ドンファンの物語として認識してしまっている人が多いけれど、それは大きな誤解であり、もっと大切なものを孕んでいるという指摘。
 一つ目の話で、源氏物語に登場する人物は、10歳をすぎた頃には結婚し、その前に性愛の手ほどきを受けているのに、現代では20歳で成人なので、性の成熟と社会的に一人前とされる年齢のあいだに大きなギャップがあり、思春期のあいだの性の抑圧が様々な歪みを生み出す原因にもなっているかもしれないという問題提起があった。
 思春期において性を当たり前のこととして通過してしまえば、思春期が、性的欲望(その中に潜む暴力的衝動)の激しさと、それとの葛藤を通した人格形成期でなくなる。その結果として、色好みという、相手の隅々まで神経を行き届かせる思いやりという愛が成熟していく。山折さんは、最近では、草食系という言葉で括られる若い男性が多くいるが、性的欲望にとらわれずに相手との関係を求める若者が増えているのではないかと指摘していた。
 現代女性が、そういう愛し方、愛され方に対して、自分をどう整えていくかという問題は残っている。現代社会では性の商品化が進み、お金になる男を相手に性を売ることに躊躇がない女性も増えているし、そういう女性の性を消費することでストレス解消をしようとする年配者も多い。
 そのように直接的に性と関わってくる問題だけでなく、私が思うに、性的欲望とその抑制を通して人格を形成するという現在の思春期の在り方は、善悪や真偽を二者択一でとらえ、その間で引き裂かれて正しいとされる一方を選択しなければいけないという強迫観念によって葛藤する現代人の思考特性にもつながっているように思う。
 現代人は、物事を考えるとか物事を決定するというのは、元々そういうものだと疑いもせずに思いこんでいるが、元々そうなのではなく、教育をはじめとする人格形成期において、そういう考え方が植え付けられているだけで、人格形成期の在り方が異なれば、善悪や真偽の捉え方も違ってくるだろう。
 そして、人格形成期の在り方が異なる時代の出来事を、現代人の我々が、我々の思考の癖によって分析したり判断したりするのは大きな間違いということにもなるだろう。
 そのことは、山折さんが語った、「なぜ標準語ではなく、京ことばで源氏物語を読んで語るのか」ということにつながってくる。
 山折さんは、谷崎潤一郎が訳した源氏物語のことなどを引き合いに出して、文章は美しいけれど、なぜか心に響いてこなかったが、中井和子さんが15年の歳月をかけて訳した京ことばの源氏物語に触れた時に、身体にすっと入ってきたと語った。山折さんは、サンフランシスコ生まれで岩手県で育っていて、京都での生活は10年ほどだ。だから、京ことばが、自分の人格を作り上げた言葉ではない。ましてや、中井さんが訳した京ことばは、現在のものではなく、100年以上前のものだ。
 源氏物語が書かれた当時の原文ではなく、現代の標準語でもなく、100年以上前の京ことばで訳された源氏物語が、身体にすっと入ってくるというのはどういうことか。
 山折さんは、京ことばで源氏物語を翻訳した中井さんの苦労話や、その仕事の偉大さを説くとともに、谷崎潤一郎をはじめ近代文学者たちが、標準語でしか訳していないことの不満を語っていたが、100年以上前の源氏物語が身体にすっと入ってくる理由について多くを語らなかった。その秘密は、それぞれの人達が考えるべきものであり、山折さんは、標準語で訳されている源氏物語には、多くの大切なものが削ぎ落されており、そのことに無自覚のまま源氏物語をわかったつもりになってはいけないと注意を促す程度にとどめたのだ。
 私が思うに、標準語というのは近代社会の産物であり、近代社会が上手にまわるように整えられている。近代社会がどういう構造によって成り立っているかを理解せずに、標準語の特性や、その限界も理解できないだろう。そして、標準語が抱える限界を理解せずに、現代社会が抱える問題を解決していく思考も生み出しにくい。思考は言葉で行なわれるので、自分が使う言葉の限界を知っていなければ、思考の届かないところを意味のないもの、あたかも存在しないもののように処理してしまう。
 近代社会というのは、端的に言えば工業化社会であり、工業化社会というのは、工業製品の製造において、また工業製品の流通、消費、処分廃棄といった全体の行程においても、各部分が、それぞれ専門の役割に切り離されている。
 そして、それぞれの役割の連携を確かなものにするために、目的を明確にし、目的に添って個々の力を集結させるという構造にある。方向性を揃えるために、伝えるべきことを明確に、そして強固に、説得力を増す必要があり、論理力が磨かれる。
 目的を一元化する思考は一面的に陥りやすい。物事には裏表があるということを見て見ぬふりをする。人生においても、幸福と不幸、生と死を対立したものとして捉える思考へと陥る。
 だから、標準語でしか訳されない源氏物語が社会に増え、標準語の捉え方の中でアニメとか映画になって広く社会に浸透すると、源氏物語は、プレイボーイの話という単純でわかりやすい枠の中に閉じ込められてしまう。
 それに異議を唱える形で、源氏物語を専門的に研究する人の中には、日本の古典芸術の中を流れる「もののあはれ」が、源氏物語の中にしっかりと流れていることを力説する。栄華と没落、そして華やかな恋にも終わりがあると。
 諸行無常の感覚は現代人の中にも残っているので、”もののあはれ”は納得しやすい。形あるものが消えて行き、そのことに特別な感情を抱くことは、眼に見える世界の出来事なので、標準語に毒された近代的思考でも理解できるのだ。
 山折さんは、源氏物語について、その程度の認識では物足りないと感じている。山折さんは、”もののあはれ”も確かに重要な鍵であるけれど、源氏物語の中でそれ以上に重要なのは、”モノノケ”であると話した。
 現代人は、”もののあはれ”のことは理解できても、”もののけ”は、理解しにくい。
 理解したつもりになっていても、標準語による思考の限界の範疇を超えられない。だから、幽霊とか、オカルトというくくりになってしまう。
近代的思考は、理解できないものを理解できないまま受けとめることが苦手なのだ。 
 山折さんは、源氏物語において、”もののけ”が重要な鍵を握っていることを具体例をあげて示しながら、”モノノケ”が何であるかと、標準語で解析したりしない。
 その代わりに、三角関係による裏切る者と、裏切られる者の話をした。源氏物語は、最初から最後まで一貫して三角関係の話であること。それ以降、日本文学の中で三角関係にこだわり続け、執拗に丁寧に物語を展開しているのは夏目漱石ぐらいしか思いつかないこと。そして、夏目漱石の小説では裏切った者同士が主人公になって、裏切られた者は物語から消えるが、源氏物語においては裏切られた者の存在感が大きく、時にはモノノケとして現れ、物語の中で重要な役割を持つという話になった。
 山折さんは、詳しく話さなかったが、漱石の文学の主題には近代的自我(エゴ)というものが横たわっており、裏切った者同士の物語を展開することで、そのエゴがジリジリと浮かび上がる構造になっているのではないかと思う。
 それに対して源氏物語は、裏切られた者の心模様が、物語の中で重要な役割を果たす。
 さらに、裏切られた者の救いの在り方が描かれている。
 どのように救われるか。山折さんは、一つは祈祷であり、もう一つは出家であると語る。そして、当時の社会において、天皇を中心とする政治の世界でも、祈祷というものがとても大事で、その仕組みを定着させた空海の偉大さについて言及した。
 たった一時間の講演だから、それ以上、深いところへと話を展開することは無理だった。
 救いの手段が、祈祷とか出家という話になると、標準語による思考に毒された近代人は、ピンとこなくなってしまう。一体どのように理解すればいいのか、理解へのアクセス方法をどうすればいいのか、山折さんは説明してくれなかった。近代人が失ってしまった宗教の力というものがあるのだろうが、近代人、とりわけ知識人は、宗教に頼ることに対して、宗教がらみの戦争を何度も経験してきているので警戒心がある。
 ならば、そこから先は、別の視点でそれぞれが考えるしかない。
 山折さんは、救いの話を打ち切り、10代をすぎた頃より性愛の手ほどきを受け性欲とか物欲を超えたところにある人間の境地と、現代を重ね合わせる話をもう一度行なって講演をしめくくった。
 そこで私は、あらためて”色好み”という境地に思いをめぐらせた。
 相手の隅々まで神経を行き届かせる思いやりという愛のことについて。これは若い男女の恋愛に限らず、高齢社会を生きる我々全般に関わってくる重要な問題だ。
 寿命が伸びたことによって、人間は、性的欲望が枯れた後の人間関係を何十年も続けなければならなくなっており、性的欲望以外のところで、相手の中に魅力を見いだし、同時に、相手の関心を長く引き止めておく必要がある。少し前までなら金銭的な問題で仕方なく一緒に暮らし続けるという夫婦も多かっただろうが、女性の社会進出とともに、次第にそういうことも少なくなり、老年での離婚が急増している。
 仕事一筋で生きて家を省みない男が、ずっと孤独を感じてきた妻に、定年後に愛想をつかされるという話が一般的には多いが、女に限らず男も、人生の晩年にいたって、色々な制約の中で我慢させられてきた人生を振り返り、一度きりの人生をこのまま終わりたくないと、それまでと違う刺激を求める衝動が湧き起ることもあるだろう。
 近代的思考では、そういう風に考える方がわかりやすい。しかし、それ以前の問題として、相手の隅々まで神経を行き届かせる思いやりが薄れるとともに、その思いやりがあることで、相手だけではなく自分自身をも満たすことを知らず、だから日々の暮らしに退屈を感じ、外に刹那を求めてしまうということもあるかもしれない。
 人も物も使い捨ての消費社会を生きる現代人は、色好みということが感覚的にわかりにくくなっている。相手の隅々まで神経を行き届かせ
る思いやりという愛し方を、あまり経験できないようになっている。
 このことは何も男女の間に限らず、友人同士の間でもそうだろうし、物との付き合いにおいても同じことが言える。
 自分を主体として、自分のイメージに添って作ることを、物作りだと思っている人が多いように思う。写真で表現活動を志す場合も同じだ。
 それに対して、自然(素材・対象)に眼をくばり、耳をすませ、相手の隅々まで神経を行き届かせて、相手を生かすにはどうすればいいかを軸にして物を作る態度。たぶん、工業デザインの前の時代は、そういう物作りが当たり前だったのではないか。物を作る時だけでなく、物を使用する場合も、そして料理を作る場合だけでなく、料理を食べる場合もそうだったのではないかと思う。
 その当たり前の感覚が、工業社会を生きる我々にはピンとこなくなっている。その結果、人も物も、自分にとって都合がいいかどうか、自分のイメージ通りかどうかで取捨選択をするようになる。自分を超えるものに敬意を抱き、傍に在るだけで満たされた気持ちになるということがわからないと、人間付き合いも、物作りも、浅いものになってしまう。 
 「環境に優しい」とか、「持続可能社会の実現」というスローガンが掲げられても、人付き合いや物作りにおける深さが伴っていないと、けっきょくそれらのスローガンも、イメージ先行で、都合良く消費されるだけで終わるだろう。 
 近代社会は、凸型が主流であり、人よりでっぱることで目立ち、イニシアブを握り、自分に優位に展開しやすいという特性があった為に、自分を誇張し、地位や名声を重んじ、少しでも凸的な存在であると主張したがる人が多かった。
 しかし、そういう思考特性は、凸部分がなくなることを恐れる。実際に凸部分がなくなって平になると自分が無価値であるかのように感じてしまう人も多い。
 他人を評価する時に凸部分を見て評価付けする人は、自分に対しても同じなのだ。定年後、かつて会社の役職者だった頃の自分を捨てきれないというのはそういうことだろう。
 しかし、実際の人生において重要なポイントは、多くの場合、凸よりも凹である。凹んだ時の心身の保ち方が、人生の豊かさに対する実感を大きく左右する。
 凸ではなく凹の存在として世界を受信する、引き受ける、気づかう。白川静さんが解いた漢字の口(サイ)の意味もそうだが、凹の形が神意を受け取る態度というものだろう。
 山折さんは、たった一時間の講演ゆえにそこまでのことは語らなかったが、モノノケとか色好みは、自分が凹になって世界と向き合わざるを得ないということにおいて共通している。
 自分が凸から凹に切り替わることで、世界の見方、感じ方が変わる。救いというのは、世界の見方、感じ方の転換なのだ。
 出家とか祈祷は、自分を凸から凹に切り替える通過儀礼というか当時の社会的装置であり、空海は、何をどうすればそのスイッチを入れることができるかを心得ていたのだろう。
 山折さんの講演の後に行なわれた山下智子さんの京ことばによる源氏物語の女房語りは、現代社会における、凸と凹を入れ替えるスイッチの一つではないかと思う。
 現代人は、平安貴族と違って、他の誰かに養ってもらうのが前提の社会に生きているのではなく、自分で自分の糧を得るという自己責任社会に生きている。自己責任という言葉が色々と問題視され、助け合いとかセーフティネットのことが議論されるが、それらもまた、絶対的多数の人が自己責任を全うし、社会的になにがしかの余力があることが前提となる理屈だ。
 だから絶対的多数の人が、出家という手段をとれる筈がない。
 多くの人が社会的な責任を果たしつつ、同時に、それがゆえの様々なストレスを抱えながら、凸的な価値観しか見えず行き詰まってしまうのではなく、世界には凹の時間も豊かに流れていることを体験的に感じること。
 源氏物語の女房語りを聞いて、処世のヒントとか問題解決の具体策とか、いったい何の意味があるとか、凸的な価値観をはてはめるのではなく、意味がわからないものに触れることも、意味があるものに触れることと同じくらい大切であるということを、なんとなく察していくこと。
 意味ではなく、紫式部源氏物語の中に編み込んだ気遣いを拾い上げていくこと。その物語の機微を人に伝えようとする女房語りの気遣いも含めて。
 朗読というのは、他の表現方法と同じく、上手に淀みなくまとめればいいというものではない。そういうものが味気ないということは、近代的思考に毒された我々でもわかる。
 どんな物でも、味のあるものは、気遣いがある。
 そして、味がわかるというのは、作り手の気遣いがわかるということ。
 それは、物事の凹凸がわかるということでもあるだろう。
 近代の工業社会の様々な歪みの中で苦しめられても、物事の味がわかるようになれば、きっと、苦しみを反転させることも可能になる。苦みの中にうまみを見いだすように。
 問題は、近代の工業社会、消費社会は、物事の味がわからなくなるように人を導いていることだ。
 味がわからないと、どんなに栄華に包まれようとも、人生は味気ない。
 人の気遣いが隅々まで感じられる生活は、たとえ慎ましくても、平安貴族の出家と同じように、滋味に富んで、何かしら清々しいものがあるに違いない。


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