第1339回 文字と人間の精神文化の関係

人間の精神活動は、少しずつ時間をかけて右肩上がりで成長変化を遂げてきたわけではない。

 人間は、文字を使っていない時と、文字を使うようになってからでは、精神活動に大きな変化が起きる。そして、文字を使い始めた人間の精神活動には、地域差に関係なく、ある一定の法則があるようだ。

 この場合の文字というのは、甲骨文字など一部の神官などが独占していた祭祀のためだけの文字ではなく、地域や文化が異なる者のあいだの情報伝達手段として用いられた文字を指す。

 古代中国の場合、紀元前1500年頃には殷の国で甲骨文字が発明されていたが、この占いなど祭祀用の文字を簡略化して情報伝達手段として活用を始めたのは次の時代の周であり、紀元前1000年頃のことだ。同じ頃、地中海世界では、アルファベットのルーツとなるフェニキア文字が発明された。フェニキア文字は、それ以前のヒッタイト文字やミケーネ文字などと異なるもので、地中海世界全体における商業活動に役立てられた。

 そして、文字を使い始めてからわずか500年ほどで、中国は諸子百家といわれる様々な学派の詭弁家が跋扈する時代となり、その中から老荘思想が生まれた。

 地中海世界でも同じで、アルファベットを使い初めてから500年で、ギリシャにはソフィストと呼ばれる学派、詭弁家が跋扈するようになり、その中から、ソクラテスが出てきた。

 情報伝達用文字を使い始めてから500年で、中国に無の思想が生まれ、古代ギリシャでは、無知の知が説かれた。

 2500年前に現れたこれらの思想哲学は、現代でも通用する力がある。

 中国にしても古代地中海にしても、2500年前に現れた思想哲学を超えるものは、その後、出てこなかった。質的には大して変わらず、量的な変化が起きただけであり、2000年前に、地中海ではローマ、中国では漢が大帝国を築くが、ともに西暦200年頃には衰退し、西暦500年頃には西ローマは滅び、中国では三国志時代から五胡十六国時代となり、混沌の極みとなった。

 それは精神的ピークに達してから、約1000年後のことだった。

 日本もまた似たような軌跡をたどってきた。

 日本の歴史において、訓読み日本語が発明されたのは西暦500年頃とされている。

 それから200年後、万葉集をはじめ、歌が生まれる。古代ギリシャでも、思想文学のはじまりは、文字を使い初めてから200年ほど後のホメロス叙事詩であり、古代中国も、同じ時期に生まれた詩経だった。

 人間の文学的精神活動は、詩や歌から始まるのだ。

 そして、日本人が文字を使い始めて500年後には、紫式部によって源氏物語が書かれた。 

 川端康成は、ノーベル賞受賞のスピーチで、その後の日本には源氏物語を超える文学は出ていないと述べたが、日本もまた500年でピークに達した。

 そして、源氏物語を貫くテーマは、「もののあはれ」だが、これは、古代中国の無の思想や、古代ギリシャ無知の知と通じる思想哲学だ。

 「もののあはれ」は、「形あるものは、やがて消えゆく」という意味だけを秘めたものではない。

 形あるものに意識がとどまってしまう人間の分別もまた虚しということ。自らの知識や自らの正しさに拘泥し、言い争うソフィストや詭弁家たちの「諸学派」も「もののあはれ」だから、ソクラテス老荘思想に通じている。

 つまり、人間は、文字を使い始めて500年ほどで、「無」や「空」や「もののあはれ」という状態に至るという歴史法則が、古代ギリシャや中国や日本に共通して見られる。

 日本文化は、中世になってから幽玄、無、侘寂といった日本特有とされる文化を洗練させていったが、それらは、源氏物語からの派生であり、源氏物語には、その全てが凝縮している。

 ホメロスは、一人ではなく吟遊詩人集団、老子もまた複数の人物を統合させたという説もあり、紫式部もまたそうかもしれない。

 紫式部というのは一人の女性であったとしても、54帖にもなる桁外れの量を誇る源氏物語を書くうえで、彼女の背後に、何らかの集団勢力があった可能性は強い。

 これについては、「小野」が鍵だと私は思っている。

 8世紀の奈良時代は、古事記日本書紀が作られ、文字が広く一般に使われていく時代だが、それまで口承で様々な事柄を伝える役割を担っていた猿女氏が、小野氏に自分たちの仕事を奪われていると朝廷に訴えた記録が残されている。

 小野氏というのは、小野小町など文学者を多く輩出しているが、古事記の中で天皇以外に最も多く登場する和邇氏の末裔である。歌人の柿本人麿の柿本氏もまた、和邇氏の流れだ。

 京都は、平安京の四隅、鬼門(東北)と天門(西北)と風門(南東)が、小野郷であり、紫式部のルーツは、南東の風門にあたる山科の小野郷を拠点としていた豪族の宮道氏だ。

 現在は勧修寺という寺が、宮道氏の館があった場所で、宮道列子の息子の藤原定方の娘が、紫式部の父の母である。

 そして宮道列子の娘の胤子が、宇多天皇に嫁ぎ、醍醐天皇を生む。だから、醍醐天皇の陵は、この小野郷にある。

 源氏物語の冒頭、光源氏の父親の桐壺は、理想的帝王として描かれているが、これは、聖代とされ、小野郷に埋葬された醍醐天皇の時代がモデルとされている。

 紫式部一人の意思で、そういう設定をしたのか、それとも彼女の背後に「小野」が在るのか。

 ちなみに、これも古代京都の謎の一つとなっているが、紫式部の墓は、堀川通にあるが、その隣が小野篁の墓である。二人が生きた時代は約200年の隔たりがあるが、墓が隣同士になっていることについて、現代の週刊誌ネタのようなものも含め様々な見解があるが、紫式部と小野の関わりについて言及しているものは、私が知る限り、見当たらない。

 源氏物語は、第41帖の「幻」で、紫の上を失った光源氏が、抜け殻のようになり、その存在もまた幻のように消えてしまうが、物語は、第54帖まで続く。

 光源氏に代る主人公は、息子の薫である。息子といっても、これまでの人生で数多くの人妻を誘惑してきた光源氏が、妻の女三宮を、柏木という部下に寝取られてしまって生まれた子供という皮肉な設定になっている。しかし、世間はそのことを知らず、光源氏の心の中の秘密であり、薫自身も、ずっと長いあいだ知らなかった。

 この薫という人物は、行動の前に、いろいろな分別や、自分への言い訳、相手の心の深読みなどで身動きとれなくなってしまう人物として描かれ、現代人でも、自分に似たところがあると感じさせられてしまうのだが、この人物を、物語の終盤の大事なところで主役として登場させ、最後の54帖のクライマックスで、彼の愚知なのか自分への言い訳なのか相手への配慮なのかわからない独白で、源氏物語が終わってしまうという締めくくりに、呆気に取られる人は多い。

 これは一体どういうことなのか?

 薫は、時代を超えて誰からも愛されて羨まれる光源氏と、対照的に描かれる。

 その対照性を際立たせるために紫式部が創造した人物が、匂宮という男(光源氏の孫にあたる)で、この人物は、薫がウジウジと止まっている時に、素早い行動で薫の女性を奪ってしまう存在なのだが、ある意味で、光源氏のコピーである。光源氏へのファン心理を排して、ちょっと突き放して客観的に見れば、光源氏も匂宮も同じ、身分も高く、高貴で、お金持ちで、美形で、センスもよく、女性が喜ぶことを知っていて、分別で立ち止まらず、自分の欲求のままに行動してしまうタイプだ。 

 

 そして、薫と匂宮の狭間で苦しみ、追い詰められ、悩んで入水自殺をはかる浮舟は、助けられ、出家して俗世との関わりを拒むのだが、第54帖、物語の最後に籠る場所が、京都の東北の鬼門にあたる小野郷である。ここでも「小野」が関わってくる。

 この浮舟と薫の独白によるラストシーン。

 一昨日、山下智子による京ことば源氏物語において、この最後の帖の公演が東京で行われ、改めて、このラストに触れて、今まで考えたことはなかったけれど、一つ、閃くものがあった。


 19世紀末に、ドストエフスキーが「罪と罰」で、「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という頭でっかちの正義感で自分の罪を正当化するラスコーリニコフと、娼婦という立場ながら、自己犠牲に徹するソーニャという人物像を対比的に描いたのだが、源氏物語のラストの薫と浮舟の対比が、それとよく似ていると思ったのだ。

 ラスコーリニコフは、19世紀に描かれた人物と思えないほど、20世期後半に多く登場した歪んだ正義感の革命家に酷似している。100年後の心理を描くドストエフスキーの小説は、預言的であり、そのため、「近代」のパラダイムが人間をどのように作っていくかということを、自分ごととして感じさせる力がある。

 私個人で言えば、20歳になる前、ドストエフスキーの「地下室の手記」で、自分の自己欺瞞をえぐられ、坂口安吾の「堕落論」で、墜ちるところまで堕ちよという心の状態となり、けっきょく大学を中退して世界放浪に出るということになった。

 ドストエフスキーは、19世紀にラスコーリニコフという新しい人物像を登場させた。その新しい思考を持つ人間の不自然や不完全、自己欺瞞や自己撞着を、ソーニャという女性の新旧関係ない普遍的な良心で浮かび上がらせていた。そして、ソーニャの普遍的良心は、それを失っている人たちの心に訴えるものがあった。

 源氏物語の薫という人物像は、現代を生きる我々にとっては、「こういう奴、けっこういるよな」という感覚で受け止められるが、おそらく、1000年前には、『罪と罰』のラスコーリニコフのような新しさがあったのだと思う。

 薫は、古代と中世のあいだの新しい人物像。薫と対比的に描かれる匂宮は、光源氏を古代の貴族男性の一つの極点とすれば、その一種の形骸化であり、それに対して薫は、後の時代の中世の武士のような義理硬さというか、硬くなさというか意固地というか、分別臭さが前面に出る。そして、二人の男だけでなく、周りにも翻弄される浮舟は、まさに波間を漂う浮舟であり、それが結果として「罪と罰」の中のソーニャのような自己犠牲の象徴になるけれど、最後は、薫が分別くさく大事にしている仏道よりも深いところで世俗を断ち切って真に仏道を行くことを決める。

 これは、当時、男次第、相手次第の傾向が強かった平安女性にとっても新しい、自己の目覚めと言える。

 小説の魅力は、真に新しい人物像が描かれていることであり、紫式部源氏物語もまた同じだ。

 光源氏が主人公のように思われているが、彼は、途中で幻のように消えてしまうわけであり、物語の最後を、薫という屈折した人物によって締めくくるわけだから、紫式部の創作の意図も、ここにあったことだろう。

 光源氏は、薫の「陰」を際立たせる「陽」であるが、陽極まって陰に転ずる時、陰と陽は明確に離れておらず、もっとも近いところにある。

 光源氏にとって薫は、世間的には息子と認知されているが、実は本当の子ではないと知っているのは、光源氏だけ。

 この真逆の性質を持つ二人の近さを、このように際どく設定した紫式部

 2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」は、紫式部を主人公とするようだが、タイトルからして「陽」にしか目が行っていないという風なので、薫の「陰」に目が届くことなど、おそらくないだろう。

 

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