日本の古代を探っていると、何か一つの発見があるたび、そこから新たな謎が生じる。そして、自分は、この国のことをまるでわかっていないと思わされる。
一つひとつのディティールは、それ自体で完結していなくて他の何かと関係をもっている。その関係の糸がどこまでも続いている。その関係の糸をロジックで解きほぐそうとすると、わけがわからなくなる。なぜなら、必然と偶然が重なり合っているからだ。偶然的要素が、思考の連続を絶つ。しかしそれでも、何となくであるが、全体のフレームのようなものは、うっすらと見えてくる。偶然も含めて、なるべくしてなったのではないかという。
「この世界は、ものの形と質が分離してなくて、名前も行為も、形も存在しない。しかし、天地が初めて分かれ、3柱の神(アメノミナカヌシ、タカムスビ、カミムスビ)が造化の端緒となり、陰陽が分かれ、2体の霊(イザナミとイザナギ)が諸物の祖となり、かくして黄泉と現世を出入りするようになる」と。
この古事記の書き出しは、
紀元前4世紀、中国戦国時代の思想家、列子の言葉と少し似ているように思う。
有生の気も有形の状も、全て幻である。
造化より生み出され、陰陽に因りて変化するものを、生といい死という。
「生といい死という」という言い方が面白い。この世界には生と死があるのではなく、生も死も、変化の一つの相にすぎないということだろう。
太安万侶が、「黄泉と現世を出入りするようになる」と書いているのに近い感覚がある。
旧約聖書の中で、エデンの園で禁断の果実を食べたエバが、アダムにも与え、その結果、彼らの無垢は失われ、自分と他人を意識化し、裸を恥ずかしいと感じて局部をイチジクの葉で隠す。これを知った神は、アダムとイブを楽園から追放し、2人は、死すべき定めを負うことになる。つまり、禁断の果実を食べる前は、自分と他者の区別も、死という概念もなく、すべては溶け合うように一体だったのだけれど、禁断の果実を食べてしまったために、死という概念に怯えながら、生に対しても、苦しいとか楽になりたいとか、いちいち分別を持ちながら生きていく定めになるということ。
おそらくエデンの園というのは、古事記で一番最初に書かれている「夫れ混元既に凝りて、気象未だ效れず。名も無く為も無し。」という無分別状態のことだろう。
列子の言葉は、さらに続く。
数を尽くして変を極め、形に因りて移りゆくものを、化といい幻という。
造物なる者はその功は神妙にして深遠、とても知り得て尽すことは出来ぬ。
だが、形に因る者ならばその功は形として顕れて易々と知り得ることができる。
形として存するものは随って起こり随って滅するが故に、永遠持続する存在とはなり得ない。
これ生死であり幻化であり、この双方は一である。
出典・参考・引用 久保天随著「列子新釈」
つまり、「造物なる者はその功は神妙にして深遠、とても知り得て尽すことは出来ない」ものだけれど、何らかの形に落とし込んで理解しようと思えば理解できる。しかし、形あるものは消えゆく定めであり、永遠ではなく、幻にすぎない。人が何らかの形で世界を理解したと思って、それを形で表したところで、そんなものは幻であると。そして、生とか死というのも、世界を何かしらの形に落とし込んで、物事の働きを陰陽で分別するからこと生じる概念であり、これもまた幻である。と。
だとすると、古事記の中で、 三神による造化の端緒も、イザナミとイザナギが諸物の祖となることも、この世界を何らかの形あるものに置き換えようとする人間の分別の働きということになる。そうした分別がなければ、そもそも、現世とか黄泉という概念もない。
太安万侶は、天地創造の秘密を書き下ろそうとしているのではなく、そういった行為は幻にすぎないと知りながら、時代の要請に従って、とりあえず形あるものにしておくというスタンスなのではないか。
もともとは第40代天武天皇の命によって、稗田阿礼が、様々な古い物語を色々な人から耳で聞いて記憶していたけれど、けっきょく長いあいだ、そのまま放置された状態だった。
そして、天武天皇が亡くなり、しばらく経って、女帝の第43代元明天皇(在位707-715)の時、世の中に色々な解釈の歴史記録が出回っているが、これはいかんということになって、古事記という一つの形にすることとなった。
しかしながら、太安万侶は、文字に置き換えることは大変なことで、うまく伝えるためには色々と工夫が必要なんだと、序文の中で、はっきりと書いている。
世界の構造を具体的な形にして説明することなんかできない、またそうした行為は永遠から遠ざける幻にすぎないとわかっていても、人間は、それを辞めることができない。幻にすぎないことを知りながら、幻を追うしかない。
だから、問題となるのは、その幻の追い方だ。
古事記には、真実の歴史が書かれているわけではない。だからといって陰謀論の好きな人が言うように藤原不比等のでっち上げでもない。おそらく古事記は、幻を通して、分別というこれまた幻から逃れられない人間の宿業(ほとんどは悲劇)を様々な角度から描いている。
どんな地上の栄光を書いたとしても、その終わりがあることはわかっている。とすれば、栄光を形として書き表すことじたいも、悲劇を書いているということになる。
『源氏物語』が光源氏の栄光を描いていると思い込んでいる人も多いが、源氏物語全体に流れるのは、哀しみである。主人公の光源氏も、物語の途中からフェードアウトしてしまう。
現在に伝わる日本文学のほとんどが、哀しみをベースにしたものである。なぜなら、形にして表すという行為自体が幻であると理解していない人が形作ったものに、永遠性が備わるはずがなく、だから時代を超えることはないからだ。
幻にすぎないことを知り尽くしながら、それでも幻を追わざるを得ず、幻を形にせざるを得ない日本人がたどり着いた方法が、”もののあはれ”だった。
この場合の日本人の定義は難しい。古代、多くの渡来人がこの島国にやってきて、彼らが持ち込んだ文化などの和合のプロセスを踏んで、日本の形が整えられていった。日本の象徴である天皇じたいに、渡来人の血が流れ込んでいることは、系譜を辿るだけで明らかだ。第50代桓武天皇の母も、第59代宇多天皇の母も、渡来人の血が流れている。
だから、日本人は、血統で定義できず、地震や台風など天災の多い小さな島国において、島の内と島の外からもたらされた様々な文化が和合することによって象られた精神を共有する人たちということになるだろう。
そして、古事記には、もののあはれの源流がある。古事記の中で、天皇以外で一番多く登場するのは和邇氏だが、その和邇氏の多くが悲劇の主人公である。仁徳天皇に皇位を譲るために自ら命を絶った菟道稚郎子(
うじのわきいらつこ=母親が和邇氏)や、第11代垂仁天皇の皇后で、垂仁天皇を深く愛しながら、反逆者となった兄とともに死ぬことを選んだ狭穂姫命(さほひめのみこと=母親が和邇氏の彦座王の娘)のように。
和邇氏の系譜は、のちに柿本氏や小野氏につながるが、その中に柿本人麿や小野小町など文人も多く含まれる。”もののあはれ”文学の水脈に、和邇氏の存在が見え隠れしている。
また、紫式部の父方のルーツを辿れば、山科の小野郷を拠点にしていた豪族、宮道氏に至る。(紫式部の墓は、京都の堀川通に、小野篁の墓と並んで作られている)
古事記において過去の物語を耳で聞いてすべて記憶したとされる稗田阿礼は、猿女君と同族で、猿女君は、巫女などとして朝廷に仕えて祭祀を司っていた。
この猿女君についても、小野氏・和邇部氏が猿女君の養田を横取りし、自分の子女を猿女君として貢進したという記録もあるし、そもそも、猿女君も小野氏も同族であるという説もある。
また、平安時代、小野篁は、地獄の入り口で閻魔大王に仕えて死んだ人間を裁くことの手伝いをしていたという伝説も残っているように、小野氏というのは、生と死の境目で何かを司っていた氏族なのだろうと思う。風水で平安京を鬼や邪霊から守る鬼門や天門などに小野氏の拠点があるのも、偶然ではないだろう。(つづく)
✳︎ピンホールカメラで撮影した日本の古代の聖域の写真を紹介するホームページを一新しました。 https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world