第1444回 源氏物語と、京都と吉野をつなぐ古代の巫の勢力。

(3月30日と31日に京都で行うワークショップのメモ②)

 何度も書いてきたことだけれど、「源氏物語」というのは、11世紀の初頭に突然出てきた創作物ではなく、こういう文学が創造されるまでの歴史的な準備期間があった。

 源氏物語の100年前、10世紀の初頭、紀貫之によって古今和歌集が編纂されたことは、一つの起点であった。

 8世紀に律令制が始まる前、「歌」というのは、人間社会の事情を超えたところにアクセスするための魂の運動だった。しかし、律令制が始まってからは、少しずつ、歌が、身辺雑記風になっていき、自然を愛でる場合も、個人的な感慨にすぎなくなっていく。それは万葉集の前期と後期の変化に表れており、前期の集大成が柿本人麿だった。

 さらに9世紀になると、教養人は歌ではなく漢詩の方に関心を持つようになった。8世紀から始まった律令制は、白村江の戦いに敗れた日本の唐化であり、太平洋戦争の後に急速に進んだ民主主義化と同じで、必ずしも、自らが望んだり勝ち取ったものとは言えない。

 その流れが、10世紀に変わり始めた。背景には、中央集権的体制の矛盾が大きくなっていったことがある。

 中央集権的体制は、今でもそうだが、中央で決めたルールを国の隅々まで徹底していく。そのルールは明確でなければならず、明確であるためには人間世界の事情に限定しておく必要がある。人間世界の事情を超えるという曖昧なものは、当然ながら排除される。そして、そのルールを上手に使いこなすものや、運用するものが社会的に優位に立つ。

 そうした既得権組が、時代の変化を顧みずに、頑なにルールを維持することで自らの立場を維持しようとすれば、矛盾が大きくなり、綻びが目立ち始める。

 9世紀の日本では、中央から地方に派遣されて戸籍を作る役人貴族に対するワイロが横行していた。逃亡農民を囲い込んで自らの荘園を開拓する貴族が大金持ちになった。

 この中央集権的体制が崩れていく時、人間の心の中にも変化が生まれた。和歌の復活である。

 そして、こうした変化が起きた10世紀に、象徴的な出来事として、菅原道真の怨霊騒ぎがあった。

 その火付け役は誰なのか?

 京都の北野天満宮菅原道真の聖域だが、この聖域の構造は、少し不思議なことになっている。

 鳥居をくぐって参道をまっすぐに進んでいくと、道真を祀る本殿は、左側にズレた所にある。参道をまっすぐに行ったところにあるのは、多治比文子を祀る社だ。鳥居のところで敬礼すると、多治比文子に挨拶をしていることになる。

 この多治比文子こそが、菅原道真の霊のことを最初に言い出した巫女である。

 多治比というのは丹比と書く。歴史上、この氏族の代表的人物が、飛鳥後半の白鳳時代左大臣という政権トップだった丹比嶋という人物で、彼が、柿本人麿の支援者だった。

 この丹比氏は、大阪の住吉大社のところが拠点で、住吉神と深く関わっていた。そして、住吉大社の摂社に、式内社の大依羅神社があり、呪的集団の依羅(よさみ)連が、ここを拠点としていたのだが、柿本人麿の妻、依羅娘子が、この出身だった。

 丹比と、柿本人麿は、この線でつながっていた。

 この丹比は、785年の長岡京の変で、大伴氏や佐伯氏とともに処罰される。これは、一般的には藤原氏の他氏排斥陰謀などとされるが、万葉歌人大伴家持などは既に亡くなっていたのに、罪をきせられ官籍からも除名されている。これらの氏族が全滅させられたわけではないので、古代のスピリットを継承する勢力が、中央集権的政治の舞台から遠ざけられたのだろう。

 なぜなら大伴氏は、次の武士の時代を築いた源頼朝を支えた北条時政(母親が大伴氏)を通じて、影響力を復活させ、鶴岡八幡宮の初代神官となり、明治維新までそれが続いたのだ。

 丹比も、長岡京の変の後、潜伏していたが、怨霊となった菅原道真の神託を受けたという設定で、中央集権体制の終焉への動きを作り出した。

 律令制の根幹にある班田収授が完全に終焉したのは、道真の祟りが吹き荒れている朱雀天皇の治世だった。祟りという粛清で、中央集権的体制によってメリットを享受していた貴族や役人たちが、次々と闇に葬られたのだ。

 飛鳥時代の後半、「柿本」が果たしていた役割は、次の時代、「小野」に引き継がれる。どちらも古代和邇氏の後裔であり、文学と関わっている。

 紫式部の墓が、京都の堀川通小野篁と並んで作られていることは、わりと知られているが、その理由をきちんと説明したものは見たことがない。

 小野篁について、全国的には知らない人が多いが、京都ではわりと有名だ。東山の六道珍皇寺をはじめとして、地上世界と冥界をつなぐ役割があったという伝承が残されている。

 紫式部は、個人の才能だけで源氏物語を書いたのではなく、柿本人麿のように、その背後に巫の集団による伝承の蓄積があった。

 紫式部の父、源為時の母は、藤原定方の娘である。

 この藤原定方は、菅原道真の怨霊が吹き荒れるなか、右大臣として、左大臣藤原忠平とともに、菅原道真がやり残した改革を進めた。藤原定方は、紀貫之の後援者となり、古今和歌集編纂の陰の力となった。また、この時、左大臣だった藤原忠平は、菅原道真の友人であり、この忠平の子孫が藤原道長である。この一族は、菅原道真の怨霊に守られる立場にいた。

 紫式部の血統である藤原定方の母は、宮道列子。山科の小野郷の豪族、宮道弥益の娘だ。

 さらに、紫式部の母親は、藤原為信の子だが、その為信の相手の女性が謎。しかし、可能性が高いのが、宮道忠用の娘だとされている。おそらく間違いないだろう。

 なぜなら、紫式部は、父と母の血統につながる宮道弥益のことを意識して、源氏物語を書いているからだ。

 宮道弥益の娘の宮道列子は、藤原高藤と結ばれて胤子が産まれたのだが、この胤子が、源氏の身分だった宇多天皇と結ばれて醍醐天皇を産んだ。

源氏物語」が、なぜ源氏を主人公にしているのか、不思議でもなんでもなくて、源氏物語の書き出しにある桐壺帝(光源氏の父という設定)は理想の帝として描かれているが、このモデルが、宇多天皇の子で源氏の身分で生まれた歴史上唯一の醍醐天皇であり、この天皇は、紫式部にとっても血縁関係にあたるのだ。

 紫式部の祖にあたる宮道弥益の娘、宮道列子の娘が宇多天皇に嫁いで世継ぎを産む構図は、光源氏と結ばれた明石の君が産んだ明石の姫君が皇太子に嫁いで世継ぎを産む構造と同じである。

 つまり、自分の娘が産んだ娘が天皇の世継ぎを産むことが悲願だった明石入道は、紫式部の父と母に血がつながる宮道弥益と重ねられている。

藤原定方の墓)

 そして、この宮道氏が何ものかが謎なのだが、山科の小野郷に残されている藤原定方(宮道列子の子で紀貫之の後援者)の墓が亀の背に乗っていることからも、海人族をしのばせている。そして、実は、山科にある宮道神社は、宮道氏の祖にあたるヤマトタケルを祭神としている。このヤマトタケルというのは真相をぼかすカムフラージュで、大事なのは、ヤマトタケルの母、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)だ。この女性の父が、和邇氏であると記紀に記録されている。

 つまり、宮道氏は、和邇氏の系譜であると、それとはわかりにくい方法で自らを存在証明している。だから、その館(今は宮道神社)は、山科の小野郷にある。小野は和邇氏の後裔だ。

 しかも、この宮道氏の館の場所を真南に行ったところが宇治であり、ここが源氏物語後半の舞台となる。

 宇治で最も古い聖域の宇治上神社は、仁徳天皇皇位を譲って自殺したという美談の残るウジワキイラツヒコで、これは和邇氏の子。そして宇治橋の橋姫は、小野氏が全国に伝えた瀬織津姫の別名。宇治は、古代から和邇(小野)の聖域だった。

 紫式部の背後には、宮道氏を通して、この和邇系勢力がいたのだが、宮道弥益をモデルにしたと思われる明石入道が崇敬していたのが住吉神であり、源氏物語のなかで、光源氏も、住吉神によって救われる。

 上にも述べたように、柿本人麿の後援者であり菅原道真の怨霊の神託を受けたと最初に述べた「丹比」の勢力が、住吉大社と深い関係があった。

 丹比というのは「丹生」のことでもあり、紀ノ川の丹生都比売が、時代背景が変わってことで、住吉神になった。

 どちらも、伝承では、神功皇后新羅遠征の時に支援した神で、戦いの後、吉野の藤代嶺に祀られたということで同じである。

 吉野には丹生川が二つあり、この二つの丹生川のあいだが、藤代嶺だと考えられている。

 そして、興味深いことに、吉野の丹生川の上流部にある丹生川上神社(下社)は、真北に行くと、京都の比叡山麓の小野郷で、このライン上に、宇治と、紫式部のルーツである宮道氏の館がある。さらに、山科には天智天皇、飛鳥には天武天皇の陵がある(ともに八角形)。

 そして、吉野の丹生川をくだって吉野川に合流する場所の近くに吉野三山があり、これは、金と銀と銅の山だけれど、この銀山の頂上に波宝神社が鎮座している。

吉野三山の銀嶺山の頂上の波宝神社

 

 波宝神社の祭神は、天津羽羽神(別名が阿波姫)で、これを祭神とする神社は少ないが、四国の吉野川、和歌山の紀ノ川河口、伊豆の神津島、静岡の南アルプス南端の掛川、房総半島に関わる神で、間違いなく海人族の女神。天津羽羽神は、四国では大宜津比売と同じとされ、水銀との関係がある。

 この波宝神社の真北が、京都の堀川通で、上賀茂神社紫式部の墓、安倍晴明の館、五条通の柿本町が位置している。

 さらに、その北端が、貴船山であり、貴船山の麓の貴船川沿いに貴船神社がある。

貴船神社奥宮

 宇治橋の橋姫は、嫉妬に狂い、鬼と化したという伝承があるが、彼女を鬼にしたのは、貴船大明神である。大明神は「鬼になりたければ、姿を変えて、宇治川に21日間浸かりなさい。」と告げ、その通りにして鬼となったのが橋姫。さらに、この鬼になった橋姫は、一条堀川の戻橋で源綱によって腕を切られるのだが、この戻橋は、安倍晴明の館のそばだから、同じ南北ライン上にある。

 さらに、貴船神社の社家である舌家(ぜっけ)の『黄船社秘書』によると、舌家は貴船大神の降臨に「お伴した」牛鬼の子孫で、牛鬼は、天上の神々の秘密を暴露したために貴船大神に舌を八つ裂きにされ、吉野山に逃げたあと暫くして貴船に戻り、許されるまで鏡岩に隠れていたと書かれている。つまり、貴船と吉野が繋がっている。

 吉野と京都は、近畿の真ん中あたりに広がる縦長の盆地の南北の両端にあたるのだが、吉野の丹生の聖域と、京都では小野と和邇と柿本、そして紫式部関係の聖域が結びついているのだ。

 柿本人麿の時には、丹比嶋という人物を通じて、和邇系と丹生系の二つは結合していた。

 この丹生と和邇系の勢力の特徴は、いずれも古代の巫集団で、王に嫁いだ女性が、その霊力で王を支え、さらに水軍力で王を支えるという構図がある。

 そして、その霊力というのは、時代によって変化していくのだが、文字のなかった時代は、口寄せ巫女だったものが、後に文学という表現になる。文学もまた、和歌がそうだったように、もともとは、人間世界の事情を超えたところにアクセスするための魂の運動だった。

 この文学のルーツが、和邇系の柿本や小野だった。

 そして、丹比は、大嘗会の時に田舞を奏した記録があるので、古舞を管掌する家柄だった。

 これが中世、出雲のお国一座などが始めた女歌舞伎の踊りの面影を色濃く残している綾子舞へとつながる。

 伝統的芸能である綾子舞のルーツは、菅原道真の怨霊の神託を受けたとする丹比文子をルーツとするという説がある。

 中央集権的時代が崩壊した後の中世日本では、文学と芸能が花開いていくのだが、この二つは古代の魂に通じており、人間社会の事情に囚われないための表現だった。

 その表現の方法は、時代によって異なり、源氏物語においては、人間世界で栄華を極めているかのように見える光源氏が、常に空虚な心を抱え、出家願望の強い人物として描かれる。

 そして、源氏物語の締め括りは、二人の男のあいだで板挟みとなる苦悩から自殺を決行したものの失敗に終わった浮舟が、潔く出家をして、二人の男との縁を完全に断ち切るところで終わる。

 この時代ならではの人間社会の事情という狭い世界の超え方が、源氏物語のラストでは示されている。

 中央集権的体制が強まると、こうした表現物も、人間社会の事情に囚われたものや、その風潮に迎合するものが増える。体制の秩序安定のためには、その方が良いからだ。

 今日的に言えば、その体制を疑うことがないからこそ、趣味的なものにいそしんで、その範疇で、どちらが優れているか価値評価したり、感想を言い合ったりする。結果として、そういう人々の価値観に媚びたり寄り添ったものが多くなり、その中での人気投票が行われる。

 しかし、その体制が信じるに値しないものになっていった時、再び、古代的な、人間社会の事情という狭い世界を超えたものを、人々が指向するようになる。それらは、表からは見えにくくなっているが、消えてなくなってしまったわけではなく、深層で、再び発見されることを待っている。

 その深層は、社会の深層でもあり、一人ひとりの意識の深層でもある。

 歴史は、そのように繰り返されている。

 

ここに書いたことを、3月31日と31日に京都で行うワークショップで、掘り下げます。

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 3月30日(土)、31日(日)に、京都で開催するワークショップセミナーの詳細と、お申し込みは、ホームページにてご案内しております。

 また新刊の「始原のコスモロジー」は、ホームページで、お申し込みを受け付けています。

  https://www.kazetabi.jp/

 

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