第1450回 縄文時代に遡る巫女神が、時代を超えて伝えていること。

御前崎。(静岡県御前崎市)。

南海・東海大地震が起きた場合、もっともダメージが懸念される原子力発電所である浜岡原発は、太平洋に突き出た静岡県御前崎にある。

 この場所は、四国から近畿にかけての中央構造線を東に伸ばして、伊豆下田の伊古奈比咩命神社(白濱神社)、そして大島の波布比咩命神社を結ぶライン上にある。

 不思議なことに、このライン上には、古代の巫だと思われる女神の聖域が、数多く並んでいる。

 最も西が瀬戸内海の姫島で、比売語曽(ヒメコソ)神社が鎮座しており、阿加流比売(アカルヒメ)神を祀っている。この女神は、古事記では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっているが、親の国へ帰ると言って日本の難波にやってきた。つまり、古い時代の日本の女神である。

 そして、赤い玉と関係しているこの神の「赤」は「朱」であろうと思われ、辰砂=硫化水銀(丹生)に通じている。

 四国から近畿にかけて、この中央構造線のラインは水銀の産地であった。

 平安時代の歴史書である『続日本紀 』によれば、「698年 、伊予の国より朱砂が献上された。」という記録が残っているように、愛媛県松山市に丹生神社、愛媛県三条市には壬生川地域(かつては丹生川と記録されている)がある。

 このライン上における近畿の吉野地域では、丹生津比売が最初に降臨したとされる吉野川流域の丹生酒殿神社、その東に丹生川上神社、そして、伊勢神宮の西の多気町の丹生大師や丹生神社など、「丹生」の聖域が続いている。

 また、この中央構造線の東西ライン上に、日本の他の地域ではほとんど見られない天津羽羽神の聖域が幾つか見られる。

 徳島を流れる吉野川において、日本最大の川中島である善入寺島、和歌山の紀ノ川河口の朝椋神社、吉野三山の波宝神社などだ。

 また、天津羽羽神は別名が 阿波咩命で、伊豆諸島の神津島や、静岡の御前崎の北、掛川の粟ケ岳山頂の阿波波神社などに祀られている。

 この 阿波咩命 というのは、『続日本後紀』によると、三島大明神大山祇神)の正后とされている。

 そして、三島明神大山祇神)の後后が、伊古奈比咩命であり、この女神は、丹生の聖域を結ぶ東西ライン上、御前崎の東、伊豆の下田の伊古奈比咩命神社に祀られている。

伊古奈比咩命神社

 さらに、このラインの東の端にあたる大島は、波布比咩命の聖域であり、伊豆諸島の創世神話三島大明神縁起』(『三宅記』)によると、この女神もまた三島大明神大山祇神)の正后とされている。

 続日本後紀では、阿波咩命(天津羽羽神)が三島明神の正后である。

 斎部広成が807年に編纂した『古語拾遺』の中で、「古語に大蛇(おろち)を羽々(はは)と謂ふ。」とあり、さらに神話の中でスサノオが八岐大蛇を斬った剣は、「天羽々斬剣(あめのははきりのつるぎ)」とも記されているので、天津羽羽神は、大蛇(おろち)神である可能性が高い。

 そして、大島の波布比咩命の「はぶ」もまた、同名の蛇(波布=ハブ)が南西諸島に生息している。

「ハ」は、葉や歯や鼻や端や橋や箸など、先端や尖ったものを指す言葉で、ヘビの形もそれに通じるので、三島大明神大山祇神)の正后とされる二女神、「ハブ」の波布比咩命と、「ハハ」の天津羽羽神は、ともに大蛇と関わる女神ということになる。

 縄文土器には、この蛇のモチーフが多く見られる。

 古代地中海世界において、蛇を象徴する神はメドゥーサであるが、これはギリシア先住民族の女神で豊穣の神でもあった。しかし、新時代のギリシャ文明を象徴し都市の守護女神であるアテーナーの支援を受けたペルセウスによって、怪物として殺害されてしまう。

 天津羽羽神は、四国では別名が大宜津比売(オオゲツヒメ)だが、古事記において、この女神は五穀の起源である。しかし、高天原を追放されたスサノオに食物を求められた大気都比売神は、鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理している光景をスサノオに見られ、そんな汚い物を食べさせていたのかと殺されてしまう。

 古代ギリシャと同じく、古代日本でも蛇神は先住民族の豊穣の女神だったが、価値観の異なる新しい文明世界において、汚らわしいものとして扱われた可能性がある。

 三島大明神大山祇神)の娘でありながら、ニニギに選ばれたコノハナサクヤヒメと違って、醜いからと忌避されたイワナガヒメの物語もまた、そのことを別の角度から伝えている。(一般的に思われているように不美人だから選ばれなかったということではないだろう)。 

 いずれにしろ、この東西のライン上には、四国、吉野、伊豆と、三島大明神および、その后の聖域が多い。

 三島大明神大山祇神)の后として記録されている女神たちは、名前は異なっていても、基本的には同じで、先住民(縄文)の世界観を象徴する女神であり、阿加流比売(アカルヒメ)や丹生津姫も、そこに含まれると考えられる。

 この丹生関連の東西ライン上にある静岡の御前崎にある白羽神社の祭神は、太古より白羽大明神と伝えられているが、白羽大明神がどういう神なのかはわからない。

 しかし、ここは、延喜式内社の服織田神社と考証されており、服織田というのは服部と同じく、古代日本において機織りの技能を持つ集団である。

 古代、織物は、神や先祖霊に捧げる最高の供えものであった。布を織る者は、禊をして身を清め、布を織る場所も水辺であった。ニニギの天孫降臨の時、最初に出会ったコノハナサクヤヒメやイワナガヒメも水辺で機織りをしていたように、古代の巫女との関連が深い。

 そして、白羽神社は、延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ、往古は馬をお祀りしていた。これは竜蛇信仰とつながっている。水辺で馬を育てると、水神・海神の竜蛇が馬を孕ませ、竜馬、すなわち素晴らしい良馬が産まれるという伝承が、各地に残っているのだ。

 また、白羽神社の近くには、竜神伝説が残る桜ケ池を御神体とする池宮神社(祭神は瀬織津姫)が鎮座しており、これらを合わせると、御前崎もまた竜蛇信仰の土地ということになる。 

 天孫降臨のニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメは、大山祇神の娘とされているので、母親は、三島明神の后、つまり先住民の女神だということになるが、コノハナサクヤヒメは、別名が神吾田津比売で、南九州を拠点とする海人族と関わりが深い。

 瀬戸内海の大山祇神社は、三島大明神大山祇神)の代表的聖域であり、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・国の重要文化財の指定をうけた日本の武具類の約4割がこの神社に集まっており、甲冑の保存は全国一である。

 だからかどうか、ここは、日本総鎮守とも称される。

 御前崎の白羽神社も、武門武将の崇敬が篤かった。

 大山祇神が、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めたのは、神の力にすがったというより、この神を祀る集団勢力の力を頼ったということだろう。

 天孫降臨というニニギが、大山祇神の娘のコノハナサクヤヒメと結ばれたという神話も、外からやってきたニニギが、この国を治めていくうえで、以前からこの国に存在した大山祇神に象徴される勢力の力が必要だったということを伝えている。

 縄文に遡る古代の世界観は、コノハナサクヤヒメという女系と三島大明神大山祇神)に象徴される海人勢力によって、後世へと伝えられていくのだ。

 そして、その海人勢力というのは、日本列島の東西に伸びる中央構造線に沿った水銀の鉱脈に関わる「丹生」の海人勢力であると思われる。

 大山祇神三島明神)の影響力の範囲が、四国から伊豆にかけての丹生の東西ラインと重なっていることが、そのことを裏付けている。

 丹生=辰砂=硫化水銀は、防腐と防水の効果があり、船の建造において有用だった。

 そして、この海人勢力は、表の政治にはあまり顔を出していないが、婚姻関係を結ぶ巫の女性と、水上交通を通じて、政治を裏側から支えていた。

 島国の日本では、人や物資の移動に海人のネットワーク力が欠かせなかった。この海人のネットワーク力は、縄文時代糸魚川のヒスイや、八ヶ岳神津島や姫島や隠岐などの黒曜石が沖縄や北海道を含め全国各地に流通していた事実からもわかる。

 縄文時代から受け継がれた先住民の文化は、蛇神である大宜津比売がスサノオに殺されたように、律令制の新しい文明世界においては、表世界からは排除されているように見えるが、実は、水面下で脈々と受け継がれていた。

 その文化の担い手は、アメノウズメに象徴される人たちであった。

 アメノウズメは、天岩戸の神話において、岩戸の前で力強くエロティックな動作で踊って八百万の神々を笑わせ、アマテラス大神を外に出すために活躍した女神だ。

 谷川健一は、笑いを、「人間の原始的情念」が噴出したものとして捉え、天の岩戸におけるアメノウズメの行為は、古代の巫が行った神託の祭事にその原形を見ることができると指摘している。

 同時に、アメノウズメは、猿女君・稗田氏の祖とされるが、この中には、古事記編纂において、様々な口承を記憶し、その内容を太安万侶に伝えて記述させた稗田阿礼がいる。猿女君は、口承伝承を担っていたのだ。

 古代の巫に通じるこの勢力の影響力は、律令制が崩れつつあった10世紀頃から、再び大きくなっていく。

 女流文学が花開く国風文化、そして、芸能の発達の背後に、この勢力がいた。  

 現代では、夏の風物詩になっている盆踊りは、お盆の時期に先祖を供養する行事でもあるが、その起源は、10世紀、空也によって始められた踊り念仏だとする説がある。

 空也は、生存中から醍醐天皇落胤(正妻以外の身分の低い女に生ませた子)という噂があり、醍醐天皇というのは、源氏の身分で生まれながら天皇に即位した歴史上唯一の存在であり、源氏に臣籍降下していた宇多天皇と、藤原胤子という京都山科の小野郷の宮道列子の娘の血を引いている。

 紫式部は、父母とも、その母方が宮道氏の血統であり、源氏物語の明石入道は、自分の娘が産んだ娘が天皇に嫁いで世継ぎを産むということで、宮道列子の父、宮道弥益と重ねられている。

 この宮道氏が何ものなのか明確な記録はないが、宮道神社の祭神が、宮道氏の祖神であるヤマトタケルであり、ヤマトタケルの母、播磨稲日大郎姫は、播磨国風土記では、父が和邇氏とされる。

 和邇氏は、後に、柿本氏や小野氏となり、多くの文学者を輩出しているが、宮道氏が、その系譜であるとすれば、京都市堀川通にある紫式部の墓が小野篁と隣り合わせである理由にもつながるし、宮道列子の子の藤原定方が、右大臣となりながらも歌人であり、さらに紀貫之の後援者として「古今和歌集」の編纂の陰の立役者であったことにつながってくる。

 踊り念仏の祖である空也が、醍醐天皇の子であるとすれば、宮道列子の曽孫ということになり、同じ系譜の中に存在している可能性がある。

 この踊り念仏を全国に広めたのは鎌倉時代の一遍だが、一遍の系譜は明確で、彼は、愛媛の海人勢力である河野氏の次男だった。河野氏は、大山祇神を奉斎してきた越智氏の後裔である。

 踊り念仏は、念仏を唱えながら、集団で”とんだり、跳ねたり”するもので、こうした行動によって、参加者に恍惚感と自己開放をもたらすものだった。

 やがて、念仏を唱えるかわりに歌を唄う「念仏踊り」となり、それが盆踊りになっていったと考えられる。

 10世紀、菅原道真の怨霊騒ぎの頃に登場した空也と、13世紀の一遍のあいだの12世紀に、”大勢で一緒になって念仏を唱える”という融通念仏という宗教運動が起きた。これが、集団での踊りという形になっていくが、1300年、京都の壬生寺において、融通念仏を行っていた円覚上人によって、壬生大念仏狂言が始まる。

 人々が念仏を唱えているなかで行なわれていたこの狂言は、台詞を発するのではなく、大きな身振り手振りで、念仏の教えを表現するもので、現在まで脈々と伝えられている。

 「壬生」というのは、もともとは「丹生」である。

 また、丹生と関連の深い丹比氏の丹比文子は、菅原道真の怨霊の神託を最初に受けたとされる巫女であるが、中世の風流踊や、出雲の阿国の初期歌舞伎の様相を今に伝えているとされる綾子舞は、彼女がルーツだという説がある。

 丹比氏の代表的人物が、飛鳥後半の白鳳時代左大臣という政権トップだった丹比嶋という人物で、彼が、柿本人麿の支援者だった。柿本氏は和邇氏の後裔であり、この柿本氏と、綾部氏という語り部集団の娘のあいだに生まれたのが柿本人麿だった。

 この丹比氏は、大阪の住吉大社のところが拠点で、住吉神と深く関わっていた。そして、住吉大社の摂社に、式内社の大依羅神社があり、呪的集団の依羅(よさみ)連が、ここを拠点としていたのだが、柿本人麿の妻、依羅娘子が、この出身だった。

 丹比と、柿本人麿は、この線でつながっていたのだが、柿本人麿は、母と妻を通じて、古代の魂を継承していた。

 そして、丹比氏は、大嘗会の時に田舞を奏した記録があるので、古舞を管掌する家柄だったようだ。

 アメノウズメが象徴しているように、「踊り」それじたいに、古代の巫の行為が反映されているが、それが丹比氏という「丹生」関連勢力に受け継がれ、律令制開始期に活躍した柿本人麿を後援(丹比嶋)し、律令制崩壊の10世紀に、菅原道真の怨霊の神託を受けた最初の人物(丹比文子)となった。

(丹比文子は、菅原道真の乳母だったという説がある。)

 また、海からやってくる神を迎える踊りで、海人族と関係していると思われる鹿島踊りが、三島大明神と関わりの深い伊豆半島周辺に集中的に伝わっているが、綾子舞と鹿島踊りの共通点は、一般の日本舞踊に見られる「当てぶり」=(歌詞の意味を動作に置き換えること)が存在しないことだ。

 綾子舞と鹿島踊りは、きわめて抽象的で内発的な動きが多く、それは物語の内容に従属する動きではなく、トランスに入るための鍵、つまり神に近づく、もしくは神と一体化する動きだと考えられる。

 現在、巷に溢れるアートは、近代西欧文明の根幹にある「万物の尺度を人間に置く」の価値観の産物であるので、自己が解釈する世界の表現、自己のコンセプトに従属させた表現、すなわち、自己を映す鏡と言える。

 それに対して、日本の古来の芸術表現は、縄文時代に遡る八百万の神々の信仰に、神道の思想と多様な仏教思想が重なり合って、複雑に変遷を繰り返してきたが、その深層においては、一貫したものが流れている。

 それは、アメノウズメの踊りに象徴されるように、「人間の原始的情念」につながるもので、自己の分別を超えて神懸かる状態で行われる。

 古代の巫は、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって、人々に豊穣をもたらし、人々を災難から守護する存在だった。数日前にタイムラインで書いた石牟礼道子さんの「悶えて加勢する」という言葉が、これに該当する。

 その表現は、現代アートによくある類の自己を映すものではなく、アマテラス大神を岩戸の外に導き出したように、神を映し出す鏡であると言える。

 そして、丹生の女神が、そのことに深く関わっている理由は、辰砂(丹生)の朱色が血のように深い赤色で、生命の力が照り映えるような色であるからだろう。

 さらに言うならば、4つのプレートの上という微妙なバランスで保たれている島国の日本において、中央構造線は、南北に分断する裂け目である。

 南海・東海トラフ大地震など周期的に日本を襲う大災害に対して、中央構造線上に祀られた巫の女神が鎮めの祈りを担っていた可能性もある。

 9世紀、貞観の大地震と富士山の大噴火の後、三島大明神大山祇神)の娘のコノハナサクヤヒメが、富士山の噴火を鎮めるために浅間神社に祀られたことが、そのことを裏付けている。

 

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