第1155回 オオヤマツミの嘆き

四国巡礼の際、友人でありピンホール写真の師匠でもある鈴鹿芳廉さんを訪ね、数日間、毎日温泉に入ったりしながら、しばらく一緒に時間を過ごした。

 今回の四国巡礼の目的は、徳島と高知がメインで、愛媛は息抜きのつもりだったけれど、予想以上に濃厚な体験と出会いがあり、その強烈な手応えから、ここに呼ばれたのは何かあるぞ、とは思っていた。

 そして、鈴鹿さんと愛犬の散歩をしている時、写真を撮った。このあたりは、古墳が多く、高速道路の建設中に大規模古墳群が出てきて、現在、工事を止めて発掘調査などをしていたりする。

 この写真を撮ったところも、今は丘の上に墓が立ち並んでいるけれど、かつては古墳だったんじゃないの、とか言いながら歩いていた。

 この写真の向こうの台形の山についても、あれは間違いなく神奈備だよね、ここからの眺望がとってもいいし、とか言いながら写真を撮った。

 そんなことを言いながら撮った写真に、どうにもオーラとしか思えないものが写っている。

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鈴鹿さんは、すでにこの写真を公開済み)

 鈴鹿さんそのものが、常にオーラを放ちながら生きている人だから、特に強調するようなことでもないが、人は誰でもオーラを身にまとっていて、その色が見える人には見えるらしいので、鈴鹿さんがオーラを放っていることじたいよりも、大事なことがありそうな気がした。このようにオーラが写るというのは、この瞬間に、何かいろいろなエネルギーが組み合わさった結果で、そこに立ち会っている自分や、その場所とも、つながりがある現象なのではと、ちょっとだけ気になっていた。それで、この後方の山のあたりはどういう所なのか確認した。 

 そこには三島神社があり、越智氏と関係が深い。そもそも、この今治には、越智さんが非常に多い。この写真の場所の近くにあったお墓に刻まれた名前も、越智さんがとても多かった。

 越智氏というのは、物部氏なのだが、日本史において極めて異例の氏族で、日本史に大きな影響を与えていながら、ヤマト王権とは常に距離を置き続けてきた氏族だ。

 この今治と、広島の尾道のあいだに、しまなみ海道があるが、このあたりから東の海には無数の島が点在する。

 古代、大陸とヤマトの往来は、「瀬戸内海を通って」と教科書で習うが、瀬戸内海の航海は、そんなに簡単なものではない。最近も船の衝突事故があったが、無数の島にぶつかる潮が複雑な流れになり、エンジンのない時代、風と潮の流れを読んで航海するのは至難の技であり、何も知らぬ渡来人がやってきて無事に渡れるようなところではない。

 エンジンを故障した北朝鮮の漁船が福井や新潟に流れ着いたりするが、日本海を流れる対馬海流に乗った方が、近畿には簡単にたどり着けるのだ。

 そして、古代、しまなみ海道のところで活動していた人々が、越智氏だった。

 中世においても、源平の合戦や、豊臣秀吉と毛利家の戦いにおいても、この瀬戸内海の無数の島々のあいだの潮の流れに通じる人たちを味方にできなければ勝ち目はなかった。源義経も、豊臣秀吉も、その努力をすることで勝利を収めた。

 越智氏は、いくら実力者であっても、中央政府の偉いお役人になることには興味をもたない氏族だった。自分たちの強みは、この今治の地にいることで発揮できるのだから。そして、ここは、古代から様々な物や人が、越智氏を通じて運ばれ、つなげられるところだった。瀬戸内海を通るとは限らない。今治に上陸して、吉野川を通じて徳島に抜けるルートもある。

 その越智氏が奉斎する神が、オオヤマツミノミコトであり、この神は、山の神として知られているけれど、それだけでなく、渡しの神でもある。というより、渡しがメインであり、そのための船を作るうえで木材が必要で、その供給源である山が、信仰の対象となる。

 渡しの神として、オオヤマツミノカミは、越智氏とともに、日本の歴史を、はるか縄文の時代から見続けてきたのだ。その聖域の中心が、しまなみ海道に浮かぶ大三島大山祇神社だ。

 (思えば、今回の四国巡礼、最初の予定では岡山から香川に上陸するつもりだったが、岡山に入った時、突如、どうしても大山祇神社を訪れたくなって、そのまま尾道まで向かい、大山祇神社を参拝した後に四国に入った。)

 私の京都の家は、桂川のほとりだけれど、近くにオオヤマツミノミコトを祀る梅宮大社が鎮座している。松尾大社も近くに鎮座して、こちらの方が有名だが、どうにも松尾大社は威圧感のようなものを感じてしまい足が遠のく。ジョギングする時は、梅宮大社を訪れることが多い。この場所は、とても落ち着くのだ。なんでだろうな、と漠然とは思っていた。

 この場所に梅宮大社を築いた嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子や、橘嘉智子が、その意思を受け継いでいる犬養三千代(藤原不比等の後妻で、不比等が出世したのはこの女性のお陰。古事記日本書紀の真相も、不比等よりも、犬養三千代が鍵を握っている)を、ずっと意識して追いかけていた。

 そして、犬養三千代や橘嘉智子オオヤマツミノミコトを大事にしていた。オオヤマツミノミコトは、渡しの神として、すべてを見てきているからだ。

 そのオオヤマツミノミコトは、コノハナサクヤヒメとイワナガヒメをニニギに与えようとしたが、ニニギは、イワナガヒメは醜いから必要ないと送り返した。そのことをオオヤマツミノミコトは嘆いた。

 その真相について、今朝、早く目覚めてしまい、布団の中でぼんやりしていたら、次のような言葉が降りてきた。

 「そして、事代主と同じく渡しの神として、過去からの変遷を見てきたオオヤマツミノミコトは、新しくやってきたニニギに、縄文時代からの磐境(いわさか)の女神であるイワナガヒメと、弥生時代からの神籬(ひもろぎ)の女神であるコノハナサクヤヒメを、和合のために差し出すのである。

 磐境は、人間の願いとは関係なく神が憑いている依り代であり、神籬は、豊穣祈願や祈雨など人間の願いに応じて神を招く依り代である。つまり、コノハナサクヤヒメは、人間のこの世の現実に幸をもたらすために存在する巫女であり、イワナガヒメは、神そのものを畏れ、神に対して奉仕する巫女である。

 そして、神に願うことよりも、神を畏れることが、永遠の命につながることをオオヤマツミノミコトは知っていた。神に願うだけで神を畏れぬものは、願いの成就によって束の間の喜びを得るかもしれないが、また新たなる願望にとらわれ、それが結果的に苦の原因や争いのもとになるからである。

 ニニギが、コノハナサクヤヒメだけを選んだことを嘆くオオヤマツミノの真意は、そこにあった。」

 4月には完成させようと思って、年が明けてからひたすら没頭していたSacred world2。

 3月下旬に、突如、大山行男さんのインドの写真集を作ることになり、これも何かの思し召しだと思って流れにのって、その後、四国巡礼の旅にでかけたことで、3月末時点の構想から、最後の部分、「この国の祈りのかたち」が、どんどんと膨れ上がってしまい、収拾がつかなくなってしまった。

 でも、この言葉が降りてきて、いける!と思った。これが、 Sacred world2の最後の締めの言葉になる。ここに至るまでに、かなり日本の古層をめぐりめぐってきたが、これでなんとか VOL.2を収束させることができそうだ。

 

 実は、昨日の夜、この前兆となる古い新聞記事を発見していた。これは、まさしく自分が追いかけていた内容そのものだった。

 

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 大阪の茨木にある東奈良遺跡という銅鐸工房で発見された初期銅鐸に、縄文時代の文様が描かれており、銅鐸祭祀は、縄文文化弥生文化が出会って生まれた祭祀の道具だっという説。

 東奈良遺跡のすぐ傍、淀川沿いに三島鴨神社があり、オオヤマツミノミコトを祀っている。伊予の大山祇神とともに、全国の三島と名がつく神社の総本山。

 三島というのは、渡しの神なので、事代主も含まれる。

 古代、日本中をつなぐとともに、旧いものと新しいものをつなぐ役割を担っていたのが、渡しの神。だから、事代主は、奈良の大神神社の系譜では、猿田彦ともなっている。

 銅鐸というのは、縄文と弥生をつなぎ、さらに渡しの神を奉斎する氏族によって、各地をつないでいった。しかし、日本式の銅鐸の分布は、日本全国ではなく、静岡の掛川と、土佐のあいだに限られる。(九州の吉野ヶ里遺跡などでも出土するが、朝鮮半島から伝わって間もないもので、日本独自に発展していった後のものではない)。

 この銅鐸分布が、出雲という地名や、出雲の神々の聖域と重なっているので、一ヶ月前、その西の端である土佐を訪れた。そして、銅鐸祭祀の中心ではないかとあたりをつけた阿波を訪れた。  東の端の静岡の掛川は、昨年の年末、訪れていた。正しく言うと、この掛川訪問が、銅鐸祭祀と出雲の関係に気づかせてくれた。

 しかし、その日の朝まで掛川に行くつもりはなく、本当は、京都から中央高速を通って東京に移動する予定だったのだけれど、雪が心配で、しかたなく東海道を通ることに変えた結果だった。どうせ東海道を通るならば、その一ヶ月前、北海道で一緒に旅をした水越武さんの出身の三河あたりをじっくり探求しようと思い、途中で宿泊して、聖山の本宮山に登山したりしているうちに、とても大事なことを発見したのだった。

 そして、それらの発見を反映させるためにsacred world2をまとめはじめた。途中まで、巫女のことをずっと書いていたが、銅鐸祭祀と巫女の関係を深掘りしているうちに、整理できなくなった。出口の明かりは仄かに見えていたのだが、川の支流がいくつもできるように広がるばかりだった。

 しかし、この新聞記事で、すべてが一つに収束した。

  この東奈良遺跡周辺の茨木の端から端まで、去年の10月ごろか、朝から晩まで歩き続けた。

  きっかけは、友人が東京から茨木に引っ越したことだった。

  彼と会って、彼の家の近くの阿武山に一緒に登った後、茨木が、ものすごく気になり、後日、一人で憑かれたように歩き回ったのだ。そのあたりのことは、ブログでも書いていた。

https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2020/12/05/144202

 今見てみると、その頃は、連日、ものすごい勢いでブログ記事を書いている。よくもまあこれだけ、毎日のように書き続けたものだ。 

 それはともかく、茨木に引っ越した友人は、茨木に引っ越す前、今、私がこれを書いている東京郊外の近くに住んでいて、私が、このあたりで拠点を探していたので、去年の夏、このあたりを一緒に散歩した。

 どうにも、いろいろと偶然と必然がスパイラルしながら重なっており、どこまでが自分の意思なのか、時々、わからなくなる