第1156回 大坂なおみ選手の矜持と勇気について

 大坂なおみ選手の会見拒否のことが話題になっている。

 私は、風の旅人の中でも、色々な人のインタビュー記事を何度も掲載した。

 インタビューで話を聞いても、相手の真意をきちんと捉えきれているとは限らないので、原稿にした後、必ず、相手に読んでもらい、きちんと真意が伝わっているかどうか確認することは怠らなかった。というか、それは当たり前のことで、インタビューというのは相手が発する言葉をそのまま原稿にすればいいというものではなく、相手が発する言葉の背後にあるものを汲み取ることが大事だ。文脈を読み誤ると、正しいインタビューとは言えないし、いいインタビュー記事とは言えない。

 私は、その方法で、石牟礼道子さんをはじめ作家の方や、映画監督、哲学者、染色家といった異なる表現分野の人のインタビューのほか、オリンパスの社長をはじめ、いろいろな企業トップ、そして介護現場で働いている人たちなどをインタビューしてきた。 

 インタビューは相手の話を聞くことではなく、対話だと私は思っている。対話は、言葉の表面上のキャッチボールではなく、相手の言葉の背後に思いを巡らせて、その思いを汲み取ること。

 なので、きちんとしたインタビューをできたという手応えは、相手がその原稿を見て、「うまく言えなかったけれど、まさに、こういうことを言いたかったのだ」と言ってもらえるような対話ができた時だ。

 「あの時は、そういうつもりで言ったのではないのに」などと言われてしまうようでは、インタビューは失敗だ。それに対して、「いえ、あなたは、確かにこう言いましたよ、テープにとってますから」などと反論する者は、愚かで悲しい。人間でなくロボットか機械でも、そういう作業ならできる。

 そして、私は自分が新聞社にインタビューされることもあった。その時、驚いたことに、インタビューの後、かなりの分量の記事なのに、なんの確認もされずに掲載された。記事内容への満足度以前のこととして、新聞というのは、そういうスタンスなのだと知って驚いたのだ。たぶん、相手に確認して修正などが入ると、客観的事実ではなくなると思っているのだろう。つまり、記者側の受け取り方が、重要なんだと。うまく伝わらなかったら、それは伝える側が悪いんだ。こっちは、あなたを紙面で紹介してあげているんだからさ、というくらいの感覚なのかもしれない。

 まあ、確かに政治家などへのインタビューで、政治家に朱書きを入れさせたら、政治家の自己宣伝にすぎなくなる、ということがあるからかもしれない。

 つまりインタビュー記事の内容の書き下ろしを相手に確認させないのは、相手に、言い訳や釈明の余地を与えないためか。

 そうしたメディアのスタンスは、自分たちは公平、公正な立場にいると思っているだろうが、自分の側を万物の尺度としており、かなり、独善的であり、自己都合的だ。

 まあ、政治家や官僚など体制側が独善的で、その独善性に対抗する手段が社会の中に他に存在しなかった時は、そうしたメディアの必要性もあったのかもしれない。

 しかし、インターネットの時代となり、もはや多くの人は、メディアに対して、そうした役割を期待しなくなっているのだが、メディア自身がそのことに自覚的でない。

 気づいたところで、対話の方法を身につけていない。文脈を読む訓練もできていないかもしれない。

 そうした変化が社会に起きていることは明らかであるが、スポーツ選手や、自称アーティストの人たちも、相変わらずメディアにすり寄っており、そのため、メディアは、まだなんとか社会的権威を保ち続けている。

 スポーツ選手や、自称アーティストがメディアにすり寄るのは、彼らの価値基準のなかに、相変わらず「知名度」というのがあり、知名度は、虚栄心を満たすだけでなく、お金につながるからだ。そして、メディアの暴力が恐ろしく、敵にまわしたくないからだろう。

 大坂なおみ選手は、勇気ある行動をとった。勇気を発揮する以前に、繊細な彼女の心が限界に達していたということもある。

 そして、テニスというスポーツを愛していても、それを虚栄を満たす道具、お金を稼ぐ道具に結びつけたくないという矜持があり、それらと引き換えにするくらいなら、その世界から潔く足を洗っても自分としては悔いがないという諦観もあるかもしれない。

 お金をたくさん稼ぐことや、有名であり続けることに、まったく興味が持っていないというのが彼女の本音で、だからそれらを失っても後悔はしない。むしろ、それらの葛藤を引きずりながら生き続けることの方が、惨めで不幸なこと。そういう心境にあるから、本音を言える。

 仕事でも人間関係でも、本音で付き合えるかどうかが、人間の幸福感を決定する大きなポイントになる。

 いくらお金や地位に恵まれていても、偽り続けることほど、苦しいものはない。

 不本意ながら不祥事に巻き込まれて、偽りの仕事をさせられてしまった官僚が自殺する。それほど、偽りというのは、感覚の鈍麻していない人間にとって辛いことなのだ。

 メディアは、偽りを暴くことが仕事だと思っている。しかし、自分たちが、人々の偽りに対する感覚を鈍麻させる事をやり続けていると、想像できていないかもしれない。

 メディア自身が、想像力を減退させているからだ。

 想像力を減退させた者が、いいインタビューをできるはずがない。

 いずれにしろ、メディアがどうあれ、大坂選手のように、しっかりとした矜持(虚栄的なプライドとはまったく正反対の自分自身の誇り)を持ち、それを価値基準に行動できる人が出てきたということは、メディアと消費(必要がなくなったら捨てる)が一体化した大量生産と大量消費(物だけではなく人においても)、及び、なんでもかんでも無聊の慰め(気晴らし、憂さ晴らし)にしてしまう時代が崩壊しつつあり、新しい時代の扉が少しずつ開かれてきているのかもしれない。

 

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