世代の問題というよりは

 現在、作られている雑誌は、読者を「年代別」「男女別」「趣味別」に分けているものが多い。しかし私は、そうしたカテゴリーで読者を分けたくないと思う。

 「就職氷河期」とか「団塊」とか、世代で一括りにする発想にも私は馴染めない。時代背景によって人間が影響を受けるのは間違いないが、だからといって同じ世代の人間を同じものとして括るのは間違っている。「環境」は、そこにいる人間から切り離されて存在しているのではなく、双方の関わり合いを通して存在している。関わり合い方が異なれば、当然ながら、「環境」も異なる。

 敢えて人間を、何かしらの区分で分けたいのであれば、所属している場で分けるのではなく、その限られた場のなかで、どういう思考特性や行動特性を示しているかで分けた方がいいのではないか。

 世代や職種の違いに関係なく、「自分の状況をどうにかするために自ら動く人」と、「自ら動かず、周りに期待する人」がいる。 

 「自分が知らない世界に飛び込む人」と、「自分が知らない世界を避ける人」がいる。 「自分を変えていこうとする人」と「自分を変えず、周りが変わることを要求する人」がいる。

 もしも二人の人間が対話の機会をもって、話しが噛み合わないとすれば、それは世代や立場や生活レベルが違うからではなく、思考特性や行動特性が異なるゆえのことではないかと思う。

 そういう言い方をすると、その思考特性や行動特性の違いを「世代」や「立場」や「生活レベル」が決定したのだと反論する人がいるかもしれない。

 「世代」や「生活レベル」の違いではなく、時間の流れのなかのモノゴトとの関わり合い方によって、その人の行動特性と思考特性が、「自分を変える」か、「周りが変わることを期待する」の二つに分かれるのではないかと私は思う。コップの中の水が、「もう半分しかない」と思うか、「まだ半分ある」と思うかも、人それぞれの思考特性の違いだ。

 ならばそうした思考特性や行動特性を決定していった要因はどこにあるのか。

 一番大きな要因は、「自分が変われば、世界の見え方が変わる(=世界が変わる)」ということを身をもって知っているかどうかではないだろうか。

 自分の意志とは別に、自分が変わってしまうことが、人生のなかに度々ある。

 それはたとえば恋愛をした時、大事な人に先立たれた時、また大きな嵐のような困難に巻き込まれた時、子供が産まれた時、旅に出た時・・・・。

 自分が変わることで、それまで普通だった世界が、突然、暗澹たるものに感じられたり、輝きに満ちたものに変わることもある。

 その変わり方が、おそろしく辛いものであったならば、世界が変わることに対して、また自分が変わることに対して、必要以上に慎重になるかもしれない。しかし不思議なことに、辛い状況に追い込まれて魂に負荷がかかればかかるほど、世界の何でもない美しさに気付くことが多い。失恋のどん底にある時、月がどんより雲って見えるかというとそうではなく、美しく冴えて見えるし、道ばたの小さな花に慰められることも多い。

 恋しい人にふられて”孤独”を感じる時、なぜか人間は、自らが単独の存在ではなく、もっと大きな何ものかの一部であるかのように感じることがある。苦しい葛藤に晒されるほど、世界との呼応力が増すのだ。なぜそうなるのかはわからないが、人間はそのようにして”生きる苦しみ”を、”美”によって中和するように作られている。

 この感覚は、世代とか生活レベルとは関係なく、共通体験があればわかるし、無ければ、わかりずらい。

 今この一瞬だけを見ると、共通体験が無い場合は、対話が難しいように思える。しかし、死ぬまでの長い一生を考えると、どこかで自分が変わることで世界の見え方が変わる瞬間がやってくる。死の直前ということもあるかもしれないが、必ず、その一瞬は来ると思う。

 「人と人がわかり合う」なんてものは、今この一瞬に実現しなければならないことではなく、人生という時間の流れの中のどこかの一瞬に、それが起これば充分なことではないか。

 とはいえ、そういう長い時間とは別に、誰しも、当面の生活を凌ぐということが先決になる。

 現在の日本社会は、格差社会とか言われていても、世界の水準から見れば、まだ豊かな方に属している。にも関わらず、息苦しさが蔓延している。それは、単に生活が貧しいか豊かであるかという金銭や物質レベルのことだけが原因でないのだろうと思う。

 世界がつまらなく感じるのは、自分がつまらない状況に陥っているからであり、それを抜け出すためには、世界が変わることより、まず自分を変えるしかない。でも、なかなかそうはできない。疲れ切っていて余裕がないとか、そういうこと以前に、「自分が変わる可能性を信じて努力すること」という人間的能力を蝕んでいく圧力とメカニズムが、社会全体(それを構成する一人一人の思考特性と行動特性)を覆い尽くしていることも、一つの要因ではないかと思うことがある。

 自分の努力が足りなかったのか、相手が悪かったのか、見方によってどちらにもなるような場所に立ち止まって、怯むことなく「相手が悪い」と言い放った方が優位になるような構造が現代社会にはある。

 近隣トラブルのことだけでなく、企業と消費者、家庭と学校、有権者やメディアと政府などの間においても、そうした主張がまかり通っている。

 その時は、自分の「我」を主張する満足が生じるのかもしれないが、そうしたことを無頓着に繰り返しているうちに、自分が変わる可能性すら信じられなくなってしまうことが、人間として一番の痛手なことなのかもしれない。

 守りに入ると、自分が変わるチャンスを見逃したり、その可能性をみすみす放棄するようなことを私も時々やってしまう。

 守っているつもりで、実際には、自分の生を次第に澱ませて蝕んでいくことになる。そうならないように、モノゴトを選択する際は、自分にとって「楽」でない方を、敢えて選んでいくということも大事なのだろうと、自戒をこめて思う。


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