再び赤木さんへ

 コメントに対する返答、長くなるのでこちらに書きます。

 赤木さんは、「私が書いていることはそんなにわかりやすいことでしょうか」と私に問いかけていますが、私の文章は、どこにも、「赤木さんが書いていることはわかりやすい」などと書いていません。

 私が「わかりやすい」と書いているのは、赤木さんの文章や、赤木さんの置かれている状況に対するものではありません。

 私は、メディアが、「社会を論じる時にわかりやすい対立構造をつくって取り上げたがる」ことを問題視しているのです。

 あの「論座」にしても、「希望は戦争!!」というキャッチフレーズで読者を煽り、「赤木さんを今のような状態に追い込んだ政治は悪い、だから赤木さんの気持ちはわかる、でも、戦争は悪いことだ」という論調で染められています。

 こういう取り上げ方が、「わかりやすい構造」であると私は言っています。

 先日のエントリーでも、赤木さんは、「立場の弱い貧困層の人間を、社会変化のための先兵にするべきではないのです。」と私に問いただしているけれど、私は、どこにもそんなことは書いていない。

 赤木さんは「どうしてkazetabiさんは私の話を理解してくれないんだろう」と書くけれど、それ以前の問題として、赤木さん自身が、私の書いた文章のなかの「わかりやすい構図」とか、「多彩な生き方」など単語だけを抽出して、私の文脈とは関係なく、その単語に対する赤木さん自身のイメージだけで返答されているように思います。

 赤木さんは、「多彩な生き方というのは、生きている本人が、自分の思う生き方を選択すること、そのものであって、他人が、不本意ながら他人と違う生き方をしなければならないときに「それは多彩な生き方だからすばらしいのだ」と、一方的に生き方を押しつける方便ではないはずです。」と書きますが、私は、赤木さんの生き方を多彩だなどと、どこにも書いていない。私は、赤木さんという人の「生き方」を知らない。

 私が知っているのは、就職氷河期を生きた人でも、先日、取材をした介護会社の人のように、自分の思う生き方を選択して生きている人もいるということです。そういうケースはいっぱい知っているので、就職氷河期を一括りにできないだろうと思っているわけです。

 私は、自分で会って取材したりした若者のことは知っています。だから、その人たちのことについては、「風の旅人」などで紹介してもいる。会って話したこともない人たちを集合化して、数字的データーだけを根拠に、「就職氷河期」と一括りにして論じる論じ方がおかしいのではないかと、私は言いたいのです。そして、実は、そうした一括りの方法をとっている人は、既得権側の人に多いことに注意しなければなりません。

 そのように一括りにすれば、その一括りの集団を自分の思うように「操作」できるのです。一括りにした集団のなかの問題点を最大公約数的に抽出し、それに対する「答え」を示す。その「答え」は、既得権側が恣意的に探しだしてくる「答え」です。それを、いかにも説得力のある論拠で示す。テレビ番組の「あるある大辞典」の捏造と構造はよく似ています。あれは、予算のない下請けプロダクションの苦し紛れの演出という側面ばかり強調されますが、その背景には「視聴率」があり、なぜ、そうした演出の方が視聴率が稼げるかというを、もう少し考えなければならないと私は思います。

 この問題の抽出の仕方と、答えの差し出し方が、「わかりやすい構造」になっていて、この「わかりやすい構造」に巻き込まれやすい心理が、私たちのなかに植え付けられています。

 この「わかりやすい構造」で示される世界は、微妙な「機微」や「奥行き」や「時間の流れのなかの変化」が殺ぎ落とされていきますから、どんどんのっぺりとした感じになっていく。勝ち負けも、その一瞬の単純な勝負のような気がしてきて、修復や復元による挽回の可能性もないような気がしてくる。その人ならではの修復による微妙な味わい(粘り腰)より、規格品の新品(仕切直し)の方がいいような錯覚をしてしまう。

 「多彩な生き方」に関する定義は、人それぞれでしょう。赤木さんは、「生きている本人が、自分の思う生き方を選択すること、そのものである」と述べられる。そのうえで、「他人が、不本意ながら他人と違う生き方をしなければならないときに、それは多彩な生き方だからすばらしいのだと、一方的に生き方を押しつける方便ではない」と付け加える。

 私は、「多彩」というのは、どの職業を選ぶかなど、モノゴトを選択したその瞬間に決まることではないと思っていますし、当然ながら、他人に押しつけられるものでもないと思います。

 同じ寿司職人さんの道を選んでも、誰もが同じになるわけではなく、生き方として多彩になる。その「多彩さ」は、職業の選択の後、時間の流れのなかでモノゴトに対応していくプロセスを踏んで、滲み出てくることだと思います。失敗があった時の自分なりの修復の仕方や、失敗に懲りてそうならないような工夫の積み重ねや、寿司を出した時の人の表情などを読み取りながら自分を変化させていくからこそ、寿司屋さんは、多彩になるのでしょう。カテゴリーで「寿司屋」と括り、寿司屋さんの「一人当たりの収入」とかをデータ化し、寿司屋をわかったように語る語り口は、寿司屋の多彩な味を生身の舌で味わったことがない人の論法でしょう。「就職氷河期」という言葉だって同じであり、大企業への就職が困難だけど福祉の世界には求人があるから、とりあえずそこに就職し、その後、現場の経験を積み重ねながら、就職前にはわからなかった仕事の喜びを知り、味のある生き方をしている人がいるということを、私は、自分の舌で味わっているから、自分のブログとか雑誌でそれを報告する。そう書いたからといって、それを全員に押しつけようとしているわけではない。全員に押しつけているように感じる感じ方じたいが、「モノゴトを一括りにする性分」に根を持っているのだと思います。

 自分の舌で味わったものを、一人称で、それぞれが報告をすればいいでしょう。人の味わい方は、それぞれでしょうから、その報告自体が多彩になる。その多彩の積み重ねでしか、「均一化・規格化・標準化」を進行させることで自分への一極集中を維持しようとする既得権組の陰謀に勝てないと思います。世界が多彩になることで損をするのは、既得権組です。テレビも多チャンネルになって、人それぞれの視点で多彩な番組を選ぶようになると、今の構造は崩れます。同一の企画商品を大量生産し、その商品のイメージを大量の広告で植え付けて大量販売するという手法で、大企業は運営されています。テレビと大企業は、経年変化による微妙な味わいなどといった多彩さを排除し、対象を「一括り」にする構造のなかでメリットを引き出しているのです。

 私はそれに対抗するため、一つ一つだと「一括りの単純化」の前で希薄化してしまう「一人称」ならではの言うに言われぬ微妙な綾を濃縮させる方法をとりたいと思います。

 「風の旅人」はそういう雑誌です。だから、掲載者の肩書きや経歴や著書など記号化されたものは一切載せていません。

 そして、赤木さん自身のなかにもある「一括りの単純化」の論法に違和感があったからこそ、3/2のエントリーを立ち上げたのです。

 「三十一歳のフリーターの人は、「極めて単純な話、日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する。若者は、それを望んでいる」と言いきっているらしいが、「若者は、それを望んでいる」などと、彼が暗に批判する左傾勢力特有の「国民は、それを望んでいる」と同じ言い方をしている。なぜ、「私は、それを望んでいる」と言わないのだろうか。

 新聞もまた、一般的読者を代表するような顔でモノゴトを論じ、「私」の姿を見せない。そして、その卑怯さに自覚的でない。」

  

 また、その時の文章をよく読んでいただければわかりますが、赤木さんに対して、私は、「旅にでろ」なんて書いていません。

「 一部の頭でっかちのインテリ(及び、その真似事をしたい人)が言うように、現代社会は本当に”フロンティア”がなく、硬直しているのだろうか。そう思う人は、自分の頭が硬直して、フロンティアがない状態になっているだけではないだろうか。現状を壊したい対象は、社会ではなく、本当は硬直して身動きがとれなくなっている自分自身なのではないだろうか。

 そういう人は、狭い穴から自分の目に入る現象だけ眺めて社会を定義するのではなく、一度、きれいさっぱり世事を忘れて、2,3年、気ままに諸国を放浪すればいいのにと思う。」

 現代社会に本当にフロンティアがないと思い込んでいる人、硬直して身動きがとえなくなっている人に対して、世事をきれいさっぱり忘れて、放浪し、自分のなかに凝り固まった定義で世界を解釈するのではなく、自分の生身の皮膚感覚で世界と付き合えばいいのに、と書いたわけです。