自分の軸を定めたい

 昔は、一部の特権的例外を除き、多くの人が平等に貧しかった。その多くの人は、がむしゃらに働き、その貧しさから脱しようとした。そして、昔に比べて、ある程度の豊かさを実現した。

 昔は、貧しいか豊かであるかというのは、お金持ちの家に生まれるかどうかという運によるところが多かったけれど、その後の日本社会は、努力次第で家柄に関係なく誰もが豊かになれる可能性があるということが前提になった。

 確率として100%ということではないが、可能性があるということは間違いないし、実際にそれを実現している人間も多い。

 それを実現している人間が昔に比べて多くなったからこそ、そうでない人間の苦境に対して、あまり同情的でない空気になっているのだろうとも思う。

 昔の人間の性質が同情的であったという単純なことではなく、同じ境遇に多くの人が属していたから分かり合えたということだろう。

 だから差別問題など、自分とは異なる境遇の人に対する偏見や攻撃は、今よりも激しいところがあった。

 また、ドロップアウトなど大勢と異なる価値観や行動などに対する偏見は、間違いなく昔の方が強かった。

 同情心も強いけれど排他心も強かったのではないかと思う。今は、人の多様性を尊重するという意識が育っており、人それぞれという感覚になっている。だから、昔に比べて、自己責任という感覚も強い。

 今は、圧倒的多数の人が中流意識を持っていて、お金持ちではないけれど貧しくもないと思っている。昔も今も、同じ境遇の者同士だから分かり合えるということは同じで、正社員として会社に勤めている者は、家のローンや子供の教育費のことで悩み、その悩みを共有できる者達と仲間意識を持つ。そして、その層にすり寄ることでメリットを引きだそうとする勢力も多い。それは何も政治的なものに限らない。「会社人間としての処世」や、「大企業を称揚し、その一員になるための幼少時からのステップ」を説く書物など経済的メリットを得ようとする寄生組も膨大に存在している。

 そして最近では、増大する「フリーター」にすり寄り、味方のふりをしながら実際には食い物にしている言論も多い。

 格差社会を深刻に論じる有識者で、自分は裕福な層にいるというケースは無数にある。

 裕福でなくても、実際の行動は何もなく、言葉だけで物わかりの良い大人のふりをしたがる人も多い。

 最近、「弱者保護」の論調で語る方が人間的に質が高いような空気があって、そうする人が多いけれど、実際にその人たちが、その「語り」以外のところで、どれだけ自分ごととして胸を痛めているのかと疑問に思うことが多い。

 「弱者」とか「強者」という分別はどうでもいいと私は思っている。

 どちらであっても、自分の人生に対して自分で責任を負わなければならないことに変わりはない。誰もその責を免除してくれないし、肩代わりになってもくれやしない。

 どこに属していようが、他人にはわからない悩みがあるし、自分で自分の問題は解決していかざるを得ないと覚悟を決めなければならない瞬間は無数にある。

 恨み辛みを吐こうが、悪態をつこうが、直接、その矛先になる者は、感情を害したり、心を痛めたりするかもしれないが、そうでない者は、面白おかしく観戦するだけなのだ。「こんなに刺激的な論戦はない」など遠巻きに眺めながら。

 自分が置かれた状況がどうであれ、自分の軸がぶれないように心がけなければならないと思う。

 たとえ勝ち組みだと錯覚されている「大企業」のなかにいても同じだろう。人の顔色ばかりうかがっているうちに、自分の軸を無くして生きていると、いったい何のために働いて生きているのかもわからなくなるし、誰に対しても疑心暗鬼になったり、不祥事やモノゴトの機微を識別できない鈍磨した感覚になってしまうかもしれない。

 人の顔色ばかりうかがっているのは、「大企業組」にかぎらない。弱者保護の論調で語る者のその語りは、人の顔色をうかがっているからこそ発せられるという類のものもある。

 人間だから人の顔色が気になることは自然なことかもしれないが、自分の軸が、それによって簡単にブレてしまうと、及び腰で事に当たるしかなくなる。

 及び腰でモノゴトを動かせるとは、私には到底思えない。

 自分の軸が定まっている人は、隙がないし、物腰が安定している。少々のことで揺らがない。経済的に恵まれていようがそうでなかろうが、そういう人こそが本当に強いのだろう。そうなるために、自分の立ち位置にじっと留まっているばかりでなく、敢えて相手側に踏み込むことも時には必要なのだろうと思う。相手側というのは、自分には実感としてわからない世界である。そこに踏み込むというのは、放浪することでもあるし、他者と真剣に向き合うことでもある。学習もまた、その本質は、知識自慢をしたり他者を「無知」とバカにするためのものではなく、自分の立ち位置から相手側に踏み込みながら自分の軸を定めていく行為なのだろうと思う。


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