日本がおかしくなっている理由の一つ

 今、世間を騒がせている細胞のことに限らず、科学の研究分野で、研究を続けるためには予算が必要だから、とうぜん、その予算の取り合いが起こる。しかし、その予算を配分してくれる立場にいる人間が、本質的に何が大事かをわかっていないお役所の人であるというのが、今の日本社会の色々なところで問題を起こしている。
 その配分者は、自分の中に軸がないものだから、物事を判断する尺度がない。それゆえ、「メディアへの露出」=「世間で注目されている」といった安易すぎる基準で物事を決定したりする。
 私の印象では、小泉政権の頃から、その傾向が強まっているように感じる。
 それは、科学の分野だけではない。芸術表現の分野でも顕著だ。とくに東京の公的な美術館などでは、既に評価付けや権威付けがされている有名画家の名前だけで人を呼び込むという手法が当たり前になっている。つまらないことに、有名画家の作品はたった一点で、「フェルメールと、同時代の画家達」といった、客寄せパンダと、その他はどうでもいいものばかり、というものが、非常に増えている。
 キュレーターと自分のことを呼ぶ人達も(欧米のキュレーターと、日本の学芸員は、まったく異なるのだけど、こういう横文字のタイトルをつけたがる見栄っ張りが業界人には多い)、目利きがいるわけではなく、失敗のない催しをするための仕事が重視されている。人が集まるかどうか、選んだアーティストがどういう賞をとっていて評価されているかといった平凡な考えででしか、仕事ができていないのだ。それはけっきょく、お役所からおりてくるお金もしくは企業スポンサーに頼るしかない、人が集まらなければ能無しと判断される、という現状があるからだろう。
 日本は、国民から集めたお金をいったんはお役所に集めて、そこで配分するという構造になっている。お役所は、色々な理由をつけて、その権限を手放さない。予算の配分権さえ持っていれば、自分が平凡な能力しかなくても、予算を配分してもらいたい色々な人が頭を下げに来てくれるからだ。それで、「わかりました、検討しましょう」などと言って、なんか偉くなったような気分になれる。その人の魅力で人が集まった来ているわけではないのに、勘違いしてしまうんだろうな。
 たとえばアメリカの美術館などでは、お役所からのお金ではなく、いかにしてエンジェルを獲得するかの方が重要だという話を聞いたことがある。エンジェルというのは、作品を寄贈してくれるお金持ちのこと。美術館に寄贈すると、節税になる。お役所の予算配分よりも、エンジェルの支援の方が大きい。だから、美術館の館長は、たくさんのエンジェルを連れて美術品を探す(買う)ためのツアーを企画したりするらしい。その場合は、有名か無名か、賞をとっているかどうかといった抽象的なことよりも、エンジェルという実態のある個人が、実際に作品を見て素晴らしいと思ってくれるかどうかの方が大事になる。

 日本の芸術表現の分野では、この、実際に作品を見て素晴らしいと本当に思うかどうか、が、どんどんあやしくなっている。本当は何も感じていないのに、わかるふりをしなければならないと考えるインテリが多いからだ。国際的な賞をとっているなどと箔がついていたら、なおさら。裸の王様のような状況で、作家と評論家や学芸員とのあいだも、”わかったふり”をすることで、相互に立場を確保しあう馴れ合い状態になる。
 そういう馴れ合いが通用するのは、お役所の予算配分をあてにできるから(最近、それも難しくなったと愚痴るだけの人も多いが)、最初から予算をあてにできず、自分の実力でお金を集めることが当たり前の国の美術館の館長やキュレーターは、直接、エンジェルに働きかけていくことが大事で、それだけの行動力、説得力が必要だし、まだ注目されておらずリーズナブルに買える将来有望な作家を探すために、日頃から自分の眼を鍛えて学習しておかなければならない。
 ”失敗がない”ように、既に評価付けのなされた高い買い物ばかりしているのは、日本くらいのものだろう。
 これと同じことが、伝統的な祭りの現場でも起きていると聞いたことがある。
 県からの補助金の額が、来場者数とか、メディアへの露出度で変わってくるというのだ。
 だから、祭りを主催する側は、メディアに取り上げてもらおうと一生懸命になる。本来は、聖なる儀式でカメラを入れなかったような場面でも、NHKの下請けのカメラマンが、堂々と、大きなカメラで間近にはりついて、その儀式を見ている私たちは、撮影しているカメラマンの尻ばかり見せられ続けるということになる。(実際にそういうことは何度かあった)。
 さらに悪いことに、その下請けのカメラマンに仕事を発注する予算を握っている大きなテレビ局のディレクターとかが、何が大事かをよくわかっていないので、具体的な指示を出していない。実際に使うのは1、2分であっても、「とりあえず、全部、撮っといて」という感じで、カメラマンはずっとカメラをまわし続ける。カメラマンも、後になってディレクターのきまぐれで、「あのシーンは無いの?」などと言われたくないから、とりあえず、全部撮っとこうという感じになる。
 自分の中の軸に従って仕事をする人は、本当に必要な部分を自分で判断して、そのシーンだけ撮る。
 お役所が予算配分権を握る構造のなかの仕事というのは、誰も、自分の中の軸に従って仕事ができなくなる。自分がいいと判断しても、それをジャッジする予算配分者の論理は、別のところにあるからだ。その論理が、本質的にすぐれていて、ブレのないものならば、まだいいのだが、実際は違う。予算配分者も、常に世間の顔色をうかがっていて、自分の中に軸はなく、「世間の反応はどうかなあ」と、平凡な感覚しか持ち合わせていないので、常にブレている。
 裁量権を持っているところにブレがあるから、その管理下にあるものは、誰も、明確な判断などできなくなっているし、自分の中に軸が育っていかない。ダメになっている企業も、だいたいそんな感じのところが多い。

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