海外に流出した日本の傑作とアイデンティティ

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 東京国立博物館140年周年 特別展「ボストン美術館 日本美術の至宝」が、3月20日から始まる。

http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1416

 まだ展覧会に足を運んでいないけれど、ホームページに紹介されている作品を見るだけで、なんだかととても気になってしかたがない。
 ボストン美術館は、100年以上かけて日本美術を10万点以上収集しており、その中には、海を渡った”まぼろしの国宝”と言われるものも多く含まれていて、それらが一堂に里帰りするらしい。
 日本人が、西欧にかぶれて自国にある至高の表現物に価値を見いだせず、それらを二束三文で海外に流出させてしまったことを、多くの日本人は、情報としては知っている。しかし、そのことによる痛手を、私達は、真底わかっていない。なぜなら、流出した作品の多くを、私達は実際に見ていないのだから。
 現在の日本には、外国人が持ち出さなかった作品が残っている。なかには傑作もあるが、凡庸なものも多い。無数の凡庸なものを含めて、私たちは、日本の伝統的文化だと認識している。その認識の範疇で、好きとか嫌いとか言っている可能性がある。
 傑作というものは、それが生まれた時代環境に関係なく、凄みを備えており、時を超えて人々に強く訴えてくるものがある。傑作は、東洋とか西洋とか、過去とか現在とか、好きとか嫌いという分別を超えた訴求力がある。そして、その訴求力というのは、昨今、一部の評論家が口にするような「作品を鑑賞するための知識」などと無縁だ。赤裸々の目で見れば、誰でも感じ取ることのできる凄み。その凄みを、カタログ的に整理整頓してしまって薄めてしまう見せ方があまりにも多いのが残念。
 近年、大きな美術館の企画展で、フェルメールなど高名な画家を看板にして、実際には、その画家と同時代の凡庸な作品を数多く陳列して形を整える展覧会が増えている。そして、評論家による、いかにも意味ありげな解説によって、それらの凡庸な作品にも意味づけや価値付けが行われ、鑑賞者の目を曇らせてしまう。その背景に予算の問題が大きく絡んでいるのだろうが、図書館の貸し出し数による評価と同じで、昨今の公共施設は来場者数を多くしなければならないというプレッシャーがある。それゆえ、客寄せパンダのような企画が多くなってしまうのだろうが、美術に限らず、現在の日本社会の様々なところに、そういう数集めの企画の仕掛け屋がはびこっている。
 それはともかく、数多くの傑作が海外に持ち出されてしまった日本の不幸を、もう少し深く認識しておく必要があるかもしれない。骨董的な財宝が失われたという程度のことではなく、私達が物事を判断していくうえで根っこに備えておかなければならない世界観、精神のコスモスが、見当たらなくなってしまった遠因がここにあるような気がしてならない。
 アイデンティティの喪失といった言葉が安易に流布しているが、西欧的な生活スタイルに覆われてしまったこと以上に、文化の根底に横たわっていた精神を具現化していた無数の作品が、日本から海外に持ち出されたことは、私達が意識している以上に痛手になっているのではないかという気がする。
 10万点以上の作品。しかも、傑作と思われるものが厳選されて持っていかれたのだ。イタリアから、バチカン美術館やウフィッツィ美術館の作品が、根こそぎもっていかれたとしたら、どうだろう。幸いにもそうならず、身近なところで、ルネッサンスの巨匠の作品を見続けている彼らは、自分達の精神の軸を、簡単に見失うことがないのではないか。
ボストン美術館 日本美術の至宝」を告知するホームページに並んでいる作品写真を見るだけで、私は、只ならぬものを感じる。これらの作品を持ち出した人々は、日本的な特徴とか、異国情緒といった分別や興味関心ではなく、作品そのものの力に圧倒され、感動し、その魅力に心動かされて、海外に持っていったのではないだろうか。
 これらの作品からは、世俗に媚びる感情が一切感じられない。潔く、超越的。一時の世相の選り好みを離れて、有史以来、人間が探求してきた世界の根本原理に鋭く迫るところがあり、だからこそ時代を超えて人々の心を打つ。どんなに社会環境が変わろうとも、人間が生きている世界は、人間の手の届かないもので満ち溢れている。手に触れていると思っていることや、わかっていると思っていることの多くは、記号や概念ばかりであり、心の現象だと自分では思っている感情の動きであれ、実際には、ステレオタイプの記号処理にすぎない場合がほとんどだ。
 たとえば、「いかにも悲しそうなこと、楽しいこと」の提示に対して、「悲しい」とか「楽しい」と感情をアウトプットするのは、慣例に従うことの安心や無難と、どこかで結びついており、だから、この種の感情は洗脳に利用しやすい。もちろん、世知辛い世の中で、エネルギーを効率良く使いながら生きていくことも大切なことなので、ステレオタイプも一つの手段だ。しかし、巷の夾雑物にかき乱されなら堂々めぐりをしているうちに濁っていく感傷や感情の、ステレオタイプの囲いを一挙に打ち砕いて一瞬にして解放し、純化してくれる衝撃的な表現に出逢いたいという願望も心の深いところにある。

 畏れ多くて、どこか近寄りがたくて、卑小な分別に囚われている自分が恥ずかしくなったり情けなく感じたり。でも同時に、そんな分別すらすっかり打ち消されてしまい、世俗の矮小なことはどうでもよくなる。とまれこうまれ、清々しく、崇めたくなるような気持ちで、美しく感じる。
 
  欧米人は、街の真ん中にある教会に行くだけでも、そうした清々しさを感じることはできるだろう。そこには、無数の聖画や彫刻がある。傑作と言われるものも、ごく普通に目にすることができる。日本人もまた、神社や、自然の中に入れば、それなりの雰囲気を感じることはできる。しかし、雰囲気ではなく、人間の具体的な造形物が、世俗の価値分別や評論家の観念的な意味付けを超えて鋭く心に迫ってくるような機会は、今の日本社会にはめったにない。
 世俗の分別や安易な意味付けを超えているがゆえに、自分の心で受け止めざるをえず、自分の頭で考えざるをえないものに触れる機会があるかどうかで、人の思考や感性の深まりは、大きく違ってくるだろう。思考や感性の深まりがないと、メディアやPR会社や広告代理店をはじめ洗脳者の仕掛けに簡単に乗せられてしまうから要注意だ。
 社会には、「広告」、「プロパガンダ」が蔓延し、それと意識しないうちに洗脳されていることも多い。教育現場、企業の職場などもそう。環境問題、エコ活動、地域再生といった美しい言葉のなかにも、便乗ビジネスや、利権をめぐる争いが根を張っている。
 美徳や美意識というものが、根を持たない浅はかなものになってしまうことで、そこにつけ込まれ、情操を操作され、何の疑いもなく動かされる。
 考えに考え抜くためにも、美徳や美意識そのものを、鍛え直す必要があるかもしれない。
 朝昼晩とバラエティー番組を垂れ流しにして視聴者を思考停止状態に釘付けにしたうえで、深刻ぶって差し挟むニュースは、情操に巧みに働きかけながら洗脳する有効な手段だ。
 そうした呪縛から離れるためには、それらの情報を斜めから見るスタンスが必要だが、それができるためには、自分の中にもう一つ別の視点を持たなければならない。もう一つ別の視点は、世相とは関係のない根源的な問いに通じるものであり、そこに自分をつなげてくれるものこそが、傑作と言われる作品なのだ。
 テレビ等で安易に作られた番組を見ている毎日から、かつて日本にあったような傑作を、毎日のように眺めることができれば、もう一つ別の視点が自ずから育まれていく可能性がある。その視点を持たずして、「洗脳に気をつけろ」と掛け声をかけたところで、洗脳の巧妙な手口に、それと気づかないところで、まんまとやられてしまう。
 本当に凄い作品というのは、それに触れ続けると、自分が感じている感じ方や、自分が考えている考え方を、もう一つの視点で見渡すことができるようになる。酔わせて盲目にさせるのではなく、覚醒させる力がある。洗脳の壷を心得ているものは、ステレオタイプに従属する気楽さや迷いのなさを歓びとか平安だと錯覚させ、酔わせ、意識や思考を眠らせる。
 覚醒し続けることは、惑い続けることであり、心に負荷がかかり続けることであるが、そうすることでしか、自分の感じ方や考え方で物事を選べるようにならない。その辛苦に耐える力を与えてくれる表現は、傍にあるだけで心強い。その多くが海外に流失してしまい、限られた機会になっているかもしれないけれど、まったくないわけではないので、できるだけ見逃さないようにしたい。