第1061回 権力による陰湿な”みせしめ”か?

 「あいちトリエンナーレ2019」が、複雑なことになっている。 文化庁は愛知県に対し、あいちトリエンナーレ全体に対する補助金を交付しないと発表した。
 問題となっている「表現の不自由展」は、全体予算、展示面積でもごく一部しか使っていないのだけれど、ここの部分が原因で、交付金7800万円全体を不交付にするというのは、もはや完全な国家による恫喝としか思えない。 つまり、”みせしめ”ということであり、日本という国の陰湿な権力行使の方法だ。 そして、日本の税制は、こうした権力行使を、目立たなく実行するための陰湿な装置でもある。
 とにもかくにも、日本という国は、税金を中央政府のもとに集めて、それを中央政府の裁量によって分配するという方法によって、中央政府の命令に従順な僕を作るという構造になっている。教育も、表現活動も、地方行政もしかりだ。 この構造の維持が秩序維持の正しい方法だと、中央政府の官僚や政治家は考えている。
 彼らにとっての秩序維持というのは、彼らがイニシアチブを握り続けられる秩序ということになる。 ただ、ややこしいのが、そのイニシアチブが、彼らの強欲に基づくものであるとは限らないということだ。
 国民から集めたお金だから、国民が納得いくように使うという大義も、実は、しっかりと認識されてはいる。
 そうすると、たとえば美術館の運営などにおいても、入場者数とか、大衆メディアなどで広く取り上げられて評判になっているかどうか、というのが成功か否かの大切な基準になる。 だから、結果的に、公的資金を得て行う企画というのは、どこも似たようなものになってしまう。誰も責任をとらなくていい二番煎じが多い。
 芸術先進国!? のように、美術館や美術展の運営者や主催者が、その趣旨を深く理解してくれる資産家や企業を説得して寄付をもらい、その寄付で運営できるようになり、寄付した人や企業も十分な節税メリットとなるという構造であれば、運営者や主催者は、必死になって、自分たちのやろうとしていることの賛同者を探し、腹を割って話し合って説得し、寄付を得ようとする。 だから、美術館や美術展も、その説得者の志を反映した個性的なものになる。 欧米のキュレーターというのは、そうした志と説得力と人脈と行動力でお金を作れる実力もある人のことで、日本のように監督官庁の管理下に置かれた公務員の立場の学芸員さんが、キュレーターを名乗るのは、ちょっと恥ずかしい。
  しかし、寄付を募って運営する構造は、中央でお金を握って、そのお金によって威張れるポジションにある人たちの権力を縮減するものだから、体制側は、寄付が促進されるような税制への転換を認めようとしない。 そのため、体制側の補助金を得ようとする芸術祭などの主催者たちは、芸術の説明してもよくわからないだろう官僚さんに、官僚さんの納得しやすいデータ(入場者数とか有名度とか)を示して説得するしかない。そういうことが得意な広告代理店にまかせた方が話は早いということになる。
 今回、こうした美術展の運営に素人であるジャーナリストの津田氏を芸術監督に器用するという案が受け入れられたのも、S NSメディアが集客マシーンになる可能性があるとか、目新しさが評判になって盛り上がるだろうというぐらいの計算だったのではないか。 それが、結果的に、大きな騒動になったということで、責任を芸術監督に押し付け、補助金を全てカットというのは、なんともはや、としか言いようがない。文化庁には、羞恥心というものがないのだろう。日本の文化度の低さが透けて見えてしまう措置を、文化という名を冠したお役所が行っている。
 政府の補助金や、企業スポンサーに頼るというのは、どれだけ彼らの横暴に異議を唱え続けたところで、こういう事態を完全に避けることができないという悲しい構造が、この国にはある。
「あいちトリエンナーレ2019」のテーマは、 「いま人類が直面している問題の原因は『情』にあるが、それを打ち破ることができるのもまた『情』なのだ。われわれは、情によって情を飼いならす(tameする)技(art)を身につけなければならない。それこそが本来の『アート』ではなかったか」というものであるが、政府がお金によって表現者を飼いならそうとする構造のなかで、「情」によって「情」を飼いならず技というのは、いったいなんのことだったのか。
  これを機に、情は秩序破壊の可能性のある危険なものであると体制側が再認識し、さらに管理を強めて、お金の力によって、さらに表現を飼いならす方向へとなってしまうのか。
 アートという言葉はあまり好きではないので使いたくないが、アートの本質は、情によって情を飼いならす技ではなくて、どんなものにも飼いならされない矜持ではないかと思う。 それは、アートに限らず、どんな仕事においても、大事なこと。
 この矜持がないと、人は、ギリギリの局面において卑屈になり、長いものに巻かれろとか、寄らば大樹の陰となり、間違った方向へと向かっていることに気付きながら、自分を修正できなくなる。 表現者の矜持のことも心配だけれど、表現者よりも色々な権限をもっている官僚さんにこの矜持がないと、この国はもっと悲惨なことになる。