第1521回 アンドリューワイエスの魂が呼び起こすもの

 大山崎山荘美術館で開催中のアンドリューワイエス展に行った。 久しぶりにワイエスの絵画世界に触れて、若い頃のことを思いだした。
 写真家のことをよく知らなかった20代の頃、その精神世界に憧れていた表現者は、作家の日野啓三さん、画家のアンドリューワイエス、映画監督の小栗康平さんだった。
 この3名に共通しているのは、静かな孤高の境地。
 20世紀は、現代小説とか現代美術といった「現代性あふれる」と評論家が褒める作品が注目を浴びやすかった時代だが、その「現代」さえも通りすぎる一過性のものにすぎないという諦観を帯びた静かな眼差しで、物事の細部に宿る回路を通して、もっと遠くの大きな全体を見つめているという印象が、この3名にはあった。

 ある時、日野さんに対して、恐る恐る長い手紙を書いた。それまで日野さんが書いた小説やエッセイの、ほぼ全ての40冊近く、神保町の古本屋を歩きまわって探し出して読んでいた。
 当時の私は、自分が憧れる扉の向こう側に一歩でも踏みこんでいくには、日野さんに対して、憧れるだけでなく近づくことが重要だと、祈りのような思いを抱いていた。
 日野さんは、下北沢から少し歩いたところの新代田の井の頭線の目の前の家に住んでいた。
 人と会うのに、あれほど緊張したことはなかったが、家に入ってすぐ、「手紙を読んだよ。きみは、僕と同じ人間だ」と日野さんが仰ってくださり、それだけで大きの望みがかなえられたような気がした。
 そして、しばらく話し込んだ後、帰り際に、これを持って帰りなさいと、リブロポート社発行の「カーナー牧場」というアンドリューワイエスの、大きく高価な画集をくださった。

 ワイエスの絵は、1995年に渋谷のBunkamuraで初めてまとめて観ることができていて、好きな画家の一人だったので、嬉しかった。
 20世紀のアメリカ美術は、アンディ・ウォーホルジャクソン・ポロックなどの抽象表現がよく知られているが、個人の自我に軸を置いた「時代性」の表現は、当時の私にはどうにも馴染めず、そんななか、アメリカの田舎から街に出ることなく、ひたすら、他者や世界を、静かに注意深く見つめながら絵を描き続けたワイエスがとても新鮮だったし、その視点の方が、時代の先を見通しているような気がした。
 そのワイエスの大判の画集を日野さんから進呈していただいたことは、日野さんやワイエスの魂との回路がより強くつながったようで、この回路こそが、後の自分のニューロンネットワークを整える力になっていったことは間違いない。
 ワイエスの絵は、現代私が取り組んでいる針穴写真の画像のように細部まで細かく描写されているわけではないのだが、その場に満ちている気配と、そこに在る人や物の息遣いが、絵を見ている自分もその場にいるかのような現実感を伝えてくる。
 ワイエスは、風のように目に見えないものの捉え方が非常に優れており、絵を見ていると、画面から風が流れ出してくるように感じるのは、私だけでないだろう。
 土、樹、水、風、そして空間に秘められた声が、微かに響いてくる絵画世界。そういうことが人間の技によって可能になるんだと、いつ観ても感動するし、それは、人為に対する、わずかな希望にもなる。

 そうした人為を可能にする精神的境地が、間違いなくある。だったら、人間は、そこを目指す必要がある。日野さんの作品、たとえば「リビングゼロ」などもそうだが、若い時、私は、そういう境地に近づきたいと切実に願った。
 日野さんの「リビングゼロ」が書かれたのは、1987年なのだが、その中の一章、『夢の奥に向かって目覚めよ』などでは、現代のインターネット世界の先の人間の意識の在り様を啓示しているように思える。
 現代小説や現代美術は、あまりにも現代性に寄り添いすぎていて、わざわざ表現化しなくても、人々の認識済みか予測可能の範疇のものが多く、そこに「未知」はない。だからこそ、多くの人にも興味を持ってもらえるのだが、本当に人々の心を惹きつけているのか疑問だ。彼らの名前や作品を口にしているだけで、時代をわかっているつもりになれるだけのことではないか? とくに、評論家に、そうした人が多い。
 未来性について話される時も、現代の思考特性や意識の在り方にテクノロジーの可能性を重ねただけのものが多く、テクノロジーそのものが、人間の思考特性や意識の在り方を大きく変えていく可能性のことが、あまり考慮されていないことが多い。
 2011年の東北大震災が起きた後、私は、社会が大きく変わっていくのではないかと思ったが、その兆しは1年ほどしか続かず、アベノミクスとやらが始まって、また、それ以前の風潮が蔓延していった。
 それ以前の風潮にどっぷりと浸って、その風潮の中で生きる方法を身につけていたら、たとえ大惨事があったしても、直接的にではなく情報として知っただけのことだから、いつのまにか自分本位に情報整理をして、自分が身につけていた生き方を続ける選択をすることになる。
 しかし、最近、30歳前後の人と会って話をしていると、もちろん全員ではないだろうが、彼らは、東北大震災の時点では生き方が決まっていなかった人たちであって、そこから新しい意識が、生まれ始めているのではないかと、漠然とながら感じることがある。
 日野さんが啓示しているのは、人間を「自我」ではなく、「細胞」のネットワークとして捉える視点だった。
 そしてワイエスは、世界を「物」の集積として捉えるのではなく、時空のつながりとして捉えていた。
 人間の歴史と向き合う時は、その時々の個々の事物に意識を囚われてしまうのではなく、過去から現在に至るまでの大きな波として、捉える視点は大事になるだろう。
 波というのは、連続し、リズムがあり、かつ多様に変容するが、それは波そのものの力としてそうなっているのではなく、因と縁の関係で、風や気圧や月の力などによる働きかけによって、姿を変えていく。
 私は、ひたすら波だけを30年以上撮り続けた森永純さんの写真集「WAVE〜All things change〜」を作った時、「すべては発動し、すべては循環する。」という言葉を添えた。
 人の世界も、まったく同じだと思う。
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 新刊の「かんながらの道」は、書店での販売は行わず、オンラインだけでの販売となります。
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 また、新刊の内容に合わせて、京都と東京でワークショップを行います。
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<東京>日時:2024年12月14日(土)、12月15日(日) 午後12時半〜午後6時  
場所:かぜたび舎(東京) 東京都日野市高幡不動(最寄駅:京王線 高幡不動駅
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<京都>日時:2024年1月12日(日)、1月13日(月) 午後12時半〜午後6時
場所:かぜたび舎(京都) 京都市西京区嵐山森ノ前町(最寄駅:阪急 松尾大社駅