第1361回 完成への問い。未完による成就。

 

このたび、写真家の奥山淳志君が自分の手で作り上げて、自分の手で販売していこうとしているこの写真集は、画期的なもので、この世に写真表現というものが在って本当によかったと思える本になっている。

 彼は自費出版でこの本を作って、自分で作った販売サイトで、コツコツとそれを売っていこうと考えている。その販売のためのサイトが完成した。

http://benzoinoue.atsushi-okuyama.com

 彼は、クラウドファンディグでお金を集めることをせずに、コツコツと本を作り、コツコツと売っていこうと心に決めているのだが、その心は、まさに、この本の主人公である弁造さんに25年にわたって誠実に寄り添い続けてきた延長にある行為でもある。 

 彼は、弁造さんと向き合い続けてきたが、彼にとってそれは、とても私的なことで、だからこそ、簡単には言い表せない様々な気持ちがこめられており、その気持ちを、他者に対して押し付けがましくシェアしてもらうという感覚になれない。コツコツと作り、コツコツと売っていくことが、表現の対象となった弁造さんへの弔いという意識もあるのだろう。本来、表現者の誠実というのは、そういうところにあると私は思う

 この新しい本のテーマを一言で言うなら、「完成への問い」であり、「未完による成就」だ。

 写真家は被写体に向き合って撮影するのだが、被写体を自分の表現のために利用するだけで、その被写体のことをわかろうともしていなかったり、わかったつもりになって処理しているものは掃いて捨てるほど世の中に溢れかえっている。

 自分と対象との距離を感じ、その距離を埋めたいと切実に願っていて、どれだけ誠実に、その行為を続けるのか。

 奥山くんは、25年もの歳月をかけて北海道に通い、弁道さんに向き合い続けた。それは、無名の弁道さんの中に、奥山くんの心を引きつける何ものかがあったからで、その何ものかを追いかけ続けるという誠実さが、奥山くんにはあった。そのお陰で、弁道さんという人の魂が、このたびの本という形に昇華した。すごいことだ。

 今回の奥山君の本は、写真集でもあるのだが、非常に特殊な弁造さんの画集でもある。

 しかし、その絵のほとんど全てが未完成なので、当然ながら、作品集という形で世間には出ないし、画家自身にも、そのつもりはなかった。

 にもかかわらず、奥山君が拾い集めたそれらの未完が、あまりにも素晴らしいのだ。

 完成品を並べたものより、未完のものがこうして展開する方が、深い何かがある。この未完は、物事に向き合う時の、誠実さの証。

 しかし、絵を描いている当人にとっては、あくまでも未完だから、世間にむけて発表するつもりはない。奥山くんがいたからこそ、その未完に秘められた誠実さが、世の中に伝えられる。

 私は、セザンヌの絵でも晩年のものが好きで、次の一筆を入れると、また最初から全て描き直さなければいけないんじゃないかという、完成と未完成のあいだで、長い時間をかけて立ち止まっていたような緊張感が画面に漂っているからだ。

 アンドリューワイエスもまた、精密なテンペラ画が高く評価されて、20世期を代表する画家ではあるけれど、描いているかどうかすらはっきりわからない鉛筆のエスキースが素晴らしい。私にとって恩師でもある作家の日野啓三さんと初めて会った時、アンドリューワイエスの分厚い作品集をいただいて今も大切にしているが、テンペラ画よりもモノクロの素描が大好きで、何度も見返している。完成とは、いったい何なのだろう。 

 セザンヌワイエスという、絵画好きでなくても知っている存在と、北海道の片隅で、誰にも知られることなく野を耕しながら絵を描き続けていた弁造さんの絵が、どちらが優れているかという分別など寄せ付けないほど、均衡しているという印象を私は持った。

 未完の絵を並べた図録など世の中に存在しないけれど、完成されたと決めつけている絵を並べた図録って、ほんと、つまらない。これは、写真集にしても同じ。何一つ深い問いが浮かび上がってこないような表現は、ページを開く意義すら感じない。とくに最近は、写りすぎるカメラで撮った写真で、写真展でも大きく引き伸ばしているけれど、そういうアウトプットで、写っているものの背後に秘められた何かに想像力が届くのだろうか。

 以前、写真家の古屋誠一と会って話をした時、名刺くらいのサイズにして写真展を開きたいと言っていたけれど、表現と向き合う姿勢、被写体に向き合う姿勢、アウトプットの仕方について、多くの表現者は今のままで本当にいいと思っているのだろうか?

 私がピンホールカメラを選んでいるのも、そのあたりに心境があるのだけれど、対象に向き合いながらも、対象の本当のところまで届かない。その「あはひ」の心の動きが、弁造さんの絵にはあり、その弁造さんと真摯に向き合う奥山くんの表現にも、同じ「あはひ」があり、今回の本には、それがよく滲み出ている。そういう意味で、この本は、革命的で、相手に対する愛に満ちていて、世の中の先端だと思う。

 今回の彼の本は、私にとっても、いろいろなヒントが詰まっている。

 「完成への問い」と、一言で言ってしまうと不正確になってしまうのだが、画家の仕事は、当然ながら、「視る」ことから始まる。写真家もそうだ。

 しかし、この「視る」ということが、単に目に映っている、という程度の認識しかない写真家や画家は、大した仕事ができないだろう。

 でもこれは、写真家や画家だけに限らず、言葉で物事を説明しようとする学者(評論家)だって同じだし、経営者だってそうだ。

 私は、風の旅人という雑誌を作っていた時、人間の観る力(視るという字よりも観るがふさわしい)を養い、鍛えることの重要性を特に意識していた。だから、当然ながら、写真は、そういう力を持っている写真でなければならなかった。しかし、人間の観る力を養い、鍛えるものは、ビジュアルだけではない。言葉にも、その力がある。言葉によって洞察力を深めることも、観る力を養い、鍛えることになる。

 それは、物事の背後や、流れの前後を見通す力。優れた剣術家が、相手の太刀筋を読むということも「観る」に含まれる。

 相手が手にしている剣に目が固定してしまう者は、簡単に相手に斬られてしまうだろう。

 そういう固定的な目に誘導してしまうような写真を、私は、風の旅人の中に入れなかったし、文章もそうだ。

 人間の観る力を養い、鍛えるどころか、衰弱させてしまうような表現を、敢えて世の中に送り出す必要はない。

 そう思って本を作り続けてきた私なのだけれど、今回の奥山君が成し遂げた、「未完」の連続体を通して物事の真髄を浮かび上がらせるということは、できなかった。

 現在、私が行っている「始原のコスモロジー」というプロジェクトにしても、当然ながら、「これが解答です」という完成形など、ありはしない。

 解答を示すのではなくて、何を浮かび上がらせるのか? 

 今回、私は、奥山君に、改めて未完が秘める力を教えられた。でも、面白いことに、彼自身がアウトプットするものに宿る未完の力については、彼よりも私の方が先に気づいた。 

 2008年4月に発行した風の旅人の31号で、奥山君の写真を掲載しようと考えた時、彼は、自分が住み続けている岩手県の雫石周辺の風土と人間の世界を掲載したいと言った。このプロジェクトは、自分の中である程度完成しているからと。その時、私は、参考資料として見せてもらった弁造さんの写真を見て、直観で、こちらの方がいいと言ったのだが、彼は、これはまだ未完のもので世間に出すほどのものではないと躊躇った。

 しかし、私は、その未完の中に、表現において、奥深い何かがあると感じた。なので私は、彼に、これらの写真を組写真で掲載するので文章も書くように言った。すると、彼は、今の段階では弁造さんに対する言葉は自分の中に無いから書けない、無理だと言った。なので、私は、文章という形になっていなくてもいいから、絞り出すように、切れ切れに、浮かび上がる言葉を出すように促し、なんとか出てきた言葉を、詩のようにして掲載した。

 面白いもので、4年ほど前になるが、彼は、この弁造さんとの時間を丹念に言葉でつむぎ、文章を主体にして、「庭とエスキース」(みすず書房)という形で発表した。

 あの時の、きれぎれの言葉が、10年の時を経て、豊かに広がっていったのは、魂の広がりのように感じられた。

 そういう意味で、風の旅人の31号で掲載している奥山君の弁造さんの世界は、「未完」でありながら、未来の暗示を濃密に含んでいるものになっている。

 そして、奥山君自身は「未完」と言ってはいたものの、あの時点においても、表現としての力は、かなり強く深いものがあり、人間の観る力を養い、鍛える何かがあった。

 今回、奥山君が作り上げた稀有で画期的な本は、弁造さんという無名人の未完の絵画が、多くの人の中に潜在している大切な何かを浮かび上がらせ、より「観える」ものにするだろうという予感がある。残念なことは、それが限定500部ということ。しかし、絵画であっても、500人に真摯に向き合ってもらえる絵画は、幸福だと言える。(美術館で行列を作って観てもらっても、セザンヌは、まったく喜んでいないはず)

 奥山君がいなければ、これらの弁造さんの絵は、きっと誰の目にも触れなかったのだが、弁造さんの暮らしや人生の姿勢が捉えられた写真とともに、それらの未完の絵を観ることで、実に深い人間像が伝わってくる。

 こういう本の作り方は、簡単に真似ができるものではないが、弁造さんという人間が、唯一無二の存在として立ち現れていて、弁造さん自身、自分の人生が、こういう形で残されるなんて夢にも思っていなかったはず。まさに、天国にいる弁造さんにとっても、最高の贈り物であり、人と人との縁が美しい宝石のように結晶化したものが、この本だと私は思う。

http://benzoinoue.atsushi-okuyama.com

 

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