反転する世界の豊饒さ

 昨日、「表現」についてあのようなことを書いたばかりなのだけど、今日、田口ランディさんが送ってくれた名嘉睦稔さんの版画集を見て、すごく驚いた。

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 午前中、この東京のチマチマと必要以上に用心深く矮小で官僚的な世界との折衝で、この世界とは付き合ってられないなあとヤケになりそうだったところで、こういう力のある”表現”に触れると、そういうモヤモヤが吹き消される。
 今日の社会のように肥大した大脳のセコイ計算によって窒息しそうな状況のなかで、”表現”の力こそが、自分のなかの根元的な生を活性化してくれる。こうした感覚は、野生動物や野生植物を見るのとはまた別のものだ。やはり、表現は、人間にとって恩寵なのだと再認識する。
 今日の気分も反映されたのかもしれないけれど、名嘉さんの版画作品は、そのような根元的な、動物や植物とは異なる人間としての”野生の力”に満ちている。
 敢えて、動物や植物とは異なる人間としての”野生”という言い方をするのは、人間には、動物や植物にはない”野生”があるからだと彼の表現を見て再認識したからだ。
 その人間としての”野生”というのは、事物を創造する力だ。チマチマと小手先で作るのではなく、爆発的に創造が行われる。こうした力は、動物や植物の”野生”とは別のものであって、その創造こそに人間にとっての”野生”の力が反映されるのだと、名嘉さんの版画は感じさせる。 

 彼の作品を見た時、ゴッホや、田中一村に通じるものを感じた。二人とも私の大好きな表現者だ。しかし、その二人に通じるものがあるにはあるが、名嘉さんの作品からは、”不幸”とか”不吉”がいっさい漂ってこない。といって、脳天気なまでの楽天的というわけではない(販売用なのかもしれないが、そういう作品もある・・)。この違いはいったい何なんだろうと考えてしまう。
 もちろん、名嘉さんにゴッホ田中一村ほどのストイックさが無いということでもあるのだけど、ゴッホ田中一村のストイックさだけでこの複雑怪奇な社会を乗り越えていくのは難しく、それに変わる力も必要なのだと、現実の荒波にもまれている(自分で言うのもなんだけど・・)私は思う。といって、世渡りの上手さだけで、現実は乗り越えられるわけでもなく、ただ流されるだけだろう。
 そうではなく、もっと根元的にタフな力こそが必要なのだ。
 名嘉さんは沖縄の人だけど、おそらく風土に根ざした力というのは、世渡りというセコいテクニックではなく、インテリ特有の狭隘な善悪の観念でもなく、もっとしたたかに現実を生き抜く底深い智慧と通じているのではないか。
 たとえば、名嘉さんの作品に、ゴッホのような黄色いひまわりの作品がある。そして、同時に黒いひまわりがある、その黒い作品は、萌(きざし)と名付けられている。黄色いひまわりも鮮烈に昇華する美しさに満ちているが、萌(きざし)と題された黒いひまわりは、まさに暗く漂う気配のなかの朽ちた花びらが、光のように、萌(きざし)のように揺らめく凄みと迫力と美しさがある。暗闇や朽ちることは、終点ではなく、この人にとって出発点なのだろう。
 そういう目で改めて他の作品を眺めていると、夜の作品が多い。また、人間の知覚現象として暗部とされているところが、鮮烈なまでの濃密さで描かれている。影の部分が豊饒に美しいし、海でも、海の底の方の暗い部分が豊かに描かれている。
 「陽に詩う」と題された作品は、青空のなかで見事に”散りゆく桜”だ。そして、「闇に詩う」と題された作品は、闇夜を背景に堂々とした”色鮮やかで満開の桜”だ。この”逆転”というか”交差”の目眩くような感覚が、私にはとてもよくわかる。
 西欧の価値観が支配する世界においては、明るい世界にこそ健全で美しい未来が孕まれており、暗い世界には不吉でおぞましい終焉があるということになる。しかし、本当に私たちの世界はそう作られているのか!?
 そのように信じこまされているだけで、実際は違う。 
 そうした固定観念に対して、理屈論理で対抗しても、理屈論理の闘いになるだけで、根元的なところに通じることは難しい。
 名嘉さんの作品には、「真南風の向日葵畠」という、とてつもないものがある。これは、ゴッホの有名な「カラスのいる麦畑http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Vincent_van_Gogh_%281853-1890%29_-_Wheat_Field_with_Crows_%281890%29.jpg」と類似したものだが、そこに描かれている世界はまったく異なる。
 ゴッホの絵では、カラスが不吉だが、名嘉さんの作品でカラスは、脳天気な雰囲気だ。そして、麦の変わりに描かれた生命力溢れる向日葵の埋め尽くす大地が、凄まじい。向日葵が燃えさかり、そのなかに無数の生き物が隠れている。その全体が野生の激しい律動となっている。
 「生命の本質」ということを、いちいち名嘉さんが考えながら手を動かしているとは思えない。名嘉さんは、まったく下絵無しに巨大な板を彫り込んで、版画を作っていくそうだ。版画だから、実際にできあがるものは反転したものになるのだが、そういう分別も何も無くして、ただ一心に彫り刻んでいくと、結果的に反転したものが、素晴らしく生き生きとした世界になるということだ。
 ”反転”するということに、何か創造の重大な秘密が隠されている。これらの作品は、”反転”という回路を通じて、完成に至る。結果として、闇が豊かで濃密な事物そのものになり、白く明るい部分は、光の充溢、そしてエネルギーの流れそのものになる。
 名嘉さんの作品には、幾つかの白と黒だけで表現された版画があるが、白も黒も、世界のなかではまったく等価であり、その呼応こそが、世界そのものだということが叫びのように伝わってくる。
 白か黒、どちらか一方に重きを置いてしまうと、世界はたちまち息苦しく固定して、リズムと動きを失ってしまうだろう。
 現在社会は、めまぐるしく動いているように見えるけれど、固定して、閉塞して、停滞している。どんなに動いているように見せても、白か黒か、暗いか明るいかなどと矮小に分別して一方向になればなるほど、世界からは根元的な動き、すなわち生命の動きはなくなってしまうのだ。
 ”動き”というのは、生命の本質から見れば”揺らぎ”なのだ。”揺らぎ”のない一方向への移行は、”動き”のように錯覚するが、実は、”現象の異なるパターン”にすぎない。
 このように私が理屈でいろいろ述べることよりも、作品そのものが多くを語っている。それだけでなく、その作品の力が、濁った気分を一新してくれる。表現の凄さ、表現者の凄さというのは、そういうものだろう。
 ゴッホ田中一村は当然凄いのだけれど、版画という反転の世界でこのように生命溢れる世界を立ち上げてしまう人の頭のなかと手は、いったいどのように反転しているのだろうと不思議でならない。