このたび制作した大山行男さんの作品集「The Creation 生命の曼荼羅」の中に、以下の文章がある。
「かつて、南アルプスの蝙蝠岳の山中でテントを張り、撮影する日々に明け暮れていた時があった。
陽が傾くと、無音の時が流れ、あたりから光は消え、さらに深い闇が迫ってくる。
そして、星が三つ四つとまばたき出す。そんな時は、自分を見つめる自分がいる。
ある日のこと、遠い宇宙から妙に明るい光が近づいてきた。最初は流れ星かと思いつつ、その光を見つめていたのだが、光はさらに明るくなり、私をめがけてどんどん近づいてきた。
そして、「あっ!!」と思うほどの眩しさに包まれて、光は、「ズドン」と胸の奥深くに突き刺さったのだ。その瞬間、わけもわからず私はその場に倒れ込んだ。瞼からは大粒の涙がぼろぼろ ぼろぼろこぼれ、もうたまらず大声を出して、わんわん泣いている自分がそこにいた。
どのくらい時間が経過したのかわからないが、気がつくと、小さな小さな自分がいた。
それは、塵にも満たない自己の存在であった。
地球でさえ、果てしない宇宙から見れば、塵のような星だ。
この時の体験がきっかけなのかもしれないが、私は、草も木も石ころも、この世にあるすべてのものが、今という時を平等に生きている仲間だと自然に感じるようになった。
そして今、富士山麓の草原に立ち、名もなき草花や虫たちと向かいあっている。
どこまでも高原が広がり、富士山が天高く聳える世界。その雄大な景色を見ている自分の足元にも、無数の生命は、万華鏡のように輝いている。」
この大山さんの体験は、聖書の中の預言者の体験に通じるものがあるが、大山さんと長年付き合っていると、こういう神的な体験が本当にあるのかもしれないと思う。
大山さんは、世間知らずで、古代の山岳修験者のようなところがあり、自分の体験を誇張するような人ではない。
また、こういう体験をしたからといって、スピリチュアル分野を仕事にするということもなく、ひたすら毎日、写真を撮り続けているだけだ。
写真家の中でも、私の知っているかぎり、毎日、写真を撮っている人はそんなにはいないが、大山さんという人は、酒もタバコもやらず、夜10時前には寝て、3時とか4時に起きて、早朝から午前中にかけて写真を撮るというシンプルな暮らしを、ひたすら続けている。
スピリチュアルな体験をしてスピリチュアル分野に行ってしまう人は、話がどんどん抽象的、観念的なものになってしまう。
しかし、写真というのは、常に目の前にある現実と向き合わなければならない。
目の前にある事物を無視した観念的アート写真と違って、大山さんの写真は、徹底的なリアリズムだ。しかし、そのリアリズムは、物事の表面をなぞるようなものにならず、事物の向こう側にアクセスする力がある。
本人は意識していないが、おそらく、何かそういう力を持っているからだろう。そして、そういう力は、先天的なものというより、日々の暮らしの積み重ねが大事なんだろうと思う。
人は誰でも先天的に、事物の向こう側にアクセスする力があるが、日々の雑音や情報操作や妄念が、その感度を鈍らせていく。
それらのものから離れて、自然の中で、自然のサイクルにそって生きていると、人間の中にも潜む野生の感覚が、鋭くなっていくのだろう。
大山さんは、野生人である。本当にスピリチュアルな人は、抽象的観念に流れない。具体的なことをやりながら、そのアウトプットが現実離れしている。
The Creation 生命の曼荼羅の詳しい内容は、こちらのwebsiteで確認できます。