”そつがないもの”ではなく。

昨夜、アンデスから戻って来た写真家の野町和嘉さんと、本業の旅行業の若い女性スタッフ達と飲んだ。野町さんは、雨季のウユニ塩湖の取材から帰ってきたところだった。彼女達にとっても、ふだんの生活では周辺にあまりみかけない野町さんのような野性の生命を維持している人間から、生き様などにおいても触発されるものは多いだろう。現代社会の中で生きていると、意識をゆるめるとすぐ頭でっかちに陥り、身体のセンサーを鈍くしてしまう。そして、何かしら揺さぶられるような出会いや出来事がなければ、そのことに気づけず、ますます鈍麻してしまい、いたずらに年齢を重ねるだけになってしまう。

ボリビア中央西部にあるウユニ塩湖は、標高約3,700m。南北約100km、東西約250kmにわたる広大な塩の湖で、真っ白な世界がどこまでも広がっているが、雨季には塩の溶けた部分に透明な湖面が現れ、深さが50センチほどしかないこともあって巨大な鏡をなして空を写す。野町さんが撮ってきたその光景を、少し見せてもらった。

野町さんは、数年前、病になったことをきっかけに毎朝スポーツクラブ通いをしているので、ひと頃に比べてかなり精悍になった。もともと、人生の大半を世界の秘境の奥深くに入り込んで過ごしてきた人なので、身も心も精悍極まりないが、それでも数年前は、年齢とともに身体が緩んできているように感じられたが、再び、かつての状態を取り戻したみたいだ。

こういう人達を見ていると、年齢で人を判断することなどまったくできないと改めて思う。

50歳を過ぎて老けこんでいる人もいるし、70歳になっても、50歳代にしか見えない人もいる。日本人の平均寿命は延びたが、単なる数字の大きさよりも、その人の内面の若さこそが肝要だ。

 全てを受け入れる境地になっている好々爺も魅力的だが、全てを受け入れるポーズをとりながら、実際には世界から目を逸らしているだけの偽物もいる。野町さんのように、現代の世界に対して激しく問題意識を持ち続け、かつ身を持って何かを示し続けようとする人の気迫を傍に感じると、自分自身に対して、この年齢で戦闘意欲を減退している場合ではないぞ、という気になる。

 野町さんのような一流写真家の眼は、世界を一瞬のうちに見てしまう鋭さがあると、いつも感じる。私には、それがない。私は、いつも少しズレて了解する。その少しのズレは、野生と人間の差だと思うことがある。彼らは、野生のハンターであり、私は羊飼いになれるかどうか。そこには、世界そのものに対する瞬間の肉薄度の歴然たる差がある。

 野生のハンターとしての資質を持っていながら、かつ人間的な意識を持っているからこそ、彼らは表現活動に深くコミットしていく。直感的に世界の何かを掴んでいるのだから、それで覚ったような顔をして安穏としてもいいのだが、彼等はそうはならない。一瞬にして掴んだ世界を、自分のなかで再構築して、その掴み方が間違いでないかどうか確かめたいという強い衝動があるのだろうと思う。

 その衝動を満たすためなら、人間であり野生のハンターでもある彼等は、どこにでも行く。書斎にこもって調べるだけで満足するということにはならない。実際に自分の眼でそれを見て確かめることが何よりも大事なのだ。

 「自分の目で見て確かめることが大事だ」という台詞は、学校の先生でも言いそうなことだが、何を確かめるかが問題だ。すなわち、世間の多くの人がお茶の間のテレビを見るだけでもわかるような珍しくもなんともない認識を、ただなぞるように確かめるだけなのか、野生のハンターの鋭敏さを持って始めて感じ取れるものを、実際に確認するために行動するのか、違いは大きい。

 認識にしても、行動にしても、類型をなぞるだけのものは、どうしても生ぬるくなるのだが、そうした生ぬるさに対して無自覚の“表現”が世界に溢れかえり、それによって世界は、生ぬるさがスタンダードになり、その中で区別化競争を繰り返すだけとなる。野生のハンターの鋭敏な眼は、異能として特別視されるものの、自分とは関係ないものとして多くの人の意識から切り捨てられる。

 大衆消費社会においては、数の多い方が勝ちだ。数を収容するためには、全天候型の施設の方が計算できる。すなわち、計算できるテーマがはびこり、計算できる人が重宝される。メディアなどにおいて露出の多さを決定するのは、そういう計算力だ。露出だけならまだよいが、最近では、各種の賞もまた、大衆消費社会に付随したものになっているので、計算力が大きな力を持つようになってきた。

 計算力は、類型のなかの駆け引きには有効だが、現状を突破する力ではない。時代を牽引する表現には、計算力によって多数の心を掴むものではなく、たとえ最初は少数の支持しか得られなくとも、物事の起点となるような突破力を期待したいものだ。

 野町さんとの話は、自身も選考委員として関係し、甚だしい違和感を感じながら数の論理で押し切られた今年度の土門拳賞の選考のことから、日本の写真を取巻く環境、そして、現在の世界で急激に起こりつつある変容と表現との接点、今ほんとうに表現者がすべきことと、それをすることが、より困難な方向へと流れていく社会の風潮へと至った。このギャップに引き裂かれ悶々としながら、悶々とするだけでなく何かしらの手段を見つけて困難を突破し、表現していく表現者の力こそが、最初は小さな支流かもしれないけれど、数年、数十年のうちに少しずつ集まり、大きな流れとなっていくことは、歴史を振り返れば間違いないと思う。後の時代に残るものは、類型のなかの区別化競争に勝った“そつがないもの”ではなく、後の時代の人をも唸らせるほどの規格外れの“パッション”が漲るものだと信じたい。