野町和嘉さんの、タッシリナジェール古代壁画を見て

 現在、新宿のコニカミノルタプラザで野町和嘉さんの写真展が開かれている。
 http://konicaminolta.jp/plaza/schedule/2010april/sahara/index.html

http://www.kazetabi.com/bn/04.html ←風の旅人 第4号でも紹介しました。

アルジェリアサハラ砂漠の奥地、タッシリナジェールの岩窟壁画を撮ったものだ。ここに書かれている壁画は、8000年にもわたって描き続けられたものだが、動物や人間の描写が素晴らしい。一見、抽象的な摩訶不思議な絵に見えるものもあるが、細部の描写などは実に丁寧だ。しかも、平らな紙の上ではなく、ごつごつした岩の上に描いたとは思えないほど、線が繊細で美しく、驚かされる。これらの岩絵を見ていると、技術、観察力など、人間の表現力は、古代から現代にいたるまで、さほど進化していないことがわかる。
 といって、人類の文明の全てを安易に否定しても、前には進めない。
 一つ言えることは、こうした数千年前の古代壁画のリアリティを日常生活の中で感じることができる環境が整えられていることは、過去にはなかったことだ。
 野町和嘉という一人の冒険的な写真家が、サハラ砂漠の奥地まで出ていき、そこで写真を撮って、私たちに見せてくれる。
 私たちは、わざわざそこに行かなくても、それらを見ることができる。
 しかし、そのように楽に見れてしまうことによって、見る人は、日常を飾る装飾の一要素をして、それらを安易に処理してしまうという問題も発生する。
 すなわち、自分達が生きているこの世界の偏狭な価値感で、それらを良いとか悪いとか、好きとか嫌いとか、決めつけてしまうことも起こり得るのだ。
 現在の人間は、自分に見えるものしか信じないし、自分の物の見え方は他の人と共有されていると信じているから、自分に見えないものが描かれていたり、自分が見ているように描かれていないと、「間違っている」とか「おかしい」とか、判断してしまう傾向にある。しかし、物の見え方というのは、日頃、どれだけモノゴトを丁寧に観察するかによって全く違ってくる。
 人は、自分が思っているほど、世界を正確に見てはいない。
 だから、複数の写真家が同じ物を撮っていても、写真は、写真家によって、まるで異なったものになる。
 野町さんは、国際的に評価されている写真家だから、改めて彼の写真の素晴らしさをここで論じてもしかたがないのだが、彼に対する評価は、例えば、メッカとかチベットの奥地とか、他の人が簡単に踏み込めない領域に踏み込んでいることに焦点があてられることが多分にある。
 それもまた一理あるが、だったら彼の他にそのチャンスに恵まれた人がいたら、同じような写真になるかといえば、まったくそうはならない。
 メッカに関しては、野町さん以外に、撮影のチャンスを獲得する人は、今後もそう現れないだろうが、例えばチベットなどは、最近、多くの人が撮影を行っている。しかし、残念ながら、野町さんのチベットの写真に太刀打ちできる人はいないと私は思う。
 今回の展覧会で見ることのできるタッシリナジェールの壁画は、壁画の前に立って、絵を撮影すればいいわけだから、そこまで辿り着きさえすれば、誰でも同じような写真が撮れると思うかもしれない。しかし、実際は、工夫の余地がないように思われる被写体がゆえに、撮影者の実力がはっきりと浮き上がるのだ。
 写真家の固有性という話をする際、固有の被写体や場所やテーマを選ぶことが、作家の固有性だと思っている人がいるが、そうではないだろう。同じ場所で、同じものを撮ったとしても、他の人とはまるで異なるものになってしまうことがある。しかも、わざとぼかすなど、人と差別化するために細工をするのではなく、具体的に明確に写真表現を行いながら、他者と違うものになる目線を持っている人がいる。石元泰博さんの桂離宮伊勢神宮細江英公さんのロダンやガウディなどもそうだ。
 その違いがいったい何に起因するものなのかを考えることが、写真表現を見るうえで、とても大事なことではないかと思う。
 写真家の固有性や実力は、他の人と同じような被写体を選んだ時にこそ、明確に現れる。
 対象のことを、まるでわかっていない状態で、フィーリングという自分の都合で対象を切り取ってしまったものと、対象のことを自分ごととして引き寄せて、対象と自分の意識の深層が呼応した一瞬を、その呼応感覚を損なうことなくフィルムに定着したものの違い。
 野町さんの写真は、間違いなく後者であるが、そういう写真であるからこそ、それを見終わった時に、好きとか嫌いとかではなく、自分の中に、得たいの知れない課題のようなものがモヤモヤと残る。
 自分が、知らず知らずどこかに置き去りにしてきたもの、かつて間違いなく自分の中にあった筈なのに、それを不要物のように切り捨ててきてしまったもの。
 記憶の底に、そうしたものの余韻が残っていることは確かであり、それを取り戻していくための回路が、素晴らしい写真に触れることで、少しずつではあるけれど、開かれていく。
 しかし、同じ壁画を写した写真でも、自分の記憶の深いところと遮断されて、自分とは関係ない物珍しいものとしてしか伝わってこない類のものがある。
 そういうものをいくら見ても、自分の中を耕されることがなく、知識の断片を一つ増やしたくらいで終わってしまう。そして、その種の知識は、自分と世界とのあいだをつなぐどころか、自分に関係ないという感覚になる物を高く積み上げた壁になってしまう。
 素晴らしい写真と、そうでない写真は、同じ写真でも、見る人に与える影響は、まるで逆のものになってしまう。
 素晴らしい写真は、自分の中に築かれている偏狭な価値観の壁を壊して、いのちをみずみずしく再生する方向に導き、そうでない写真は、自分の中の偏狭な価値観を強化して、皮膚に張り着いて厚く硬まった古い角質層のように、いのちの新陳代謝を損なう方向に作用するのではないかと思う。