第1360回 スサノオの活躍と狼藉について。二律背反的な状況を乗り越えるために(1)

八雲山の須佐男の磐座=須賀神社の奥宮(島根県雲南市

神話の中のスサノオは、人間に恩恵を与える神であると同時に、野蛮な振る舞いで周りに迷惑をかける神として描かれているが、これは、たとえば技術の発展が善と悪、禍と福という両極な状況を作り出す二律背反的な事態を、神話で象徴しているのだと思われる。

 誰でも知っている「スサノオの八岐大蛇退治」の物語について、これが何を意味しているのか、江戸時代の国学者も含めて様々な解釈を試みているが、正解だと明確に言いきれる解答はどこにも見当たらない。

 この物語は、島根県の『出雲国風土記』には記述されていないので、8世紀、律令制が整えられていく段階で、過去の出来事を抽象的に神話化した可能性が高い。

 この神話が、日本の歴史の中で重要な位置を占めているのは、スサノオが退治した八岐大蛇の体内にあった剣(後に草薙剣とされる)が、三種の神器になったことだ。

 この剣は、スサノオからアマテラスに献上され、天孫降臨に際してニニギに託され、ヤマトタケルが東征において火攻めにあった時、この剣で草を刈り掃った。

 その後、この剣は尾張氏によって熱田神宮で祀り続けられ、宮中で三種の神器として扱われたのは、崇神天皇の時に作られた形代であり、その形代は、源平の戦いの時、壇ノ浦に沈んだ。

 神話が、何かしらの史実の抽象化であるとして、なぜ、スサノオに退治された八岐大蛇の体内にあった剣のうち、真剣の方を尾張氏が祀り続けることとなり、その形代が、正統たる帝の証しであるとされてきたのか?

 普通に考えても、これは奇妙なことである。

 さらに、この草彅の剣は、八岐大蛇の体内でスサノオの十握剣とぶつかった時、十握剣が欠けてしまったという描写があり、二つの金属器の材質に違いが暗示されている。

 この二つの剣のエピソードは、一般的には青銅器と鉄器の違いと説明されることが多いが、冷静に考えてみれば、八岐大蛇の後からやってきたスサノオが、鉄剣よりも弱い青銅器の剣を持っていたとは考えにくい。

 スサノオの十握剣が欠けてしまったというエピソードが何を語っているかというと、おそらく十握剣は鋳鉄技術で作られたもので、八岐大蛇の尾の中にあった草彅剣は、鍛鉄で作られたものではないかと思われる。

須賀神社島根県雲南市)神話の中で、八岐大蛇退治の後、須佐男が宮を築いたとされる場所。

 鋳鉄というのはドロドロに溶かした鉄を型に流し込んで鉄製品を作る技法で、それに対して鍛鉄は、刀鍛冶が行うように熱した鉄材を叩いて製造する鉄器技術だ。

 歴史的には鍛鉄の方が古く、紀元前1000年以上前に遡る鉄の先進地帯では、鍛鉄が行われていた。

 しかし、紀元前500年頃から鉄の時代に入ったとされる中国は、それまでの精密な青銅器作りの技術を応用して、鍛鉄ではなく鋳鉄の技術を発展させた。しかし、鋳鉄は、鉄をドロドロに溶かすので、高品質な鉄製品を作るためには高温に耐えうる窯を作る技術が必要になる。

 それでも、鋳鉄の剣は、鍛鉄で作られた日本刀のように粘りのある剣に比べると脆いために、二つの剣がぶつかると欠けてしまう可能性がある。しかし、一つひとつ鉄板を叩いて作り込む鍛鉄に比べて、鋳型に流し込む鋳鉄は武器や農具などの大量生産には向いており、社会構造を劇的に変える力となり得る。

 そして、数多くの鉄製品を作るためには、高温に耐え得る窯を作る技術とともに、大量の砂鉄が自前で必要になる。

 律令制が整えられていく段階でスサノオの聖域となった出雲の熊野大社(熊野山の山頂)から、冬至の日に太陽が沈む方向155kmのところ、日本海に面して須佐の高山がそびえている。須佐の地名は、スサノオが、出雲の国と朝鮮半島とのあいだの航路を定めるために、この高山の上に立ったからだと伝えられる。

 そして、標高532mの高山の頂上には、方位磁石を狂わせるほどの天然磁石の岩石がある。磁鉄鉱の場所に雷が落ちると、天然の磁石ができるのだ。

 磁石があれば砂鉄を集めることができるが、この場所がスサノオの聖地となっているのは、そのことと関係しているのではないかと思われる。

 出雲の製鉄においては、砂鉄を得るための鉄穴流し(かんなながし)という方法が知られているが、山を切り崩して土砂を水で洗い流すこの方法は、鉄の消費量が増大した中世から始まった技術だ。

 火山国の日本においては、海岸や川沿い等に砂鉄が堆積している場所は数多くあり、古代、磁石さえあれば、用意に砂鉄を得ることができただろう。

 島根県出雲市古志町の古志本郷遺跡は、弥生時代の遺構が数多く出土している集落遺跡だが、この場所から、羽口(製鉄炉にフイゴから風を送るための送風菅を熱から守るもの)が出土した。時代区分は不明確だが、日本最古級とされている。

 『出雲国風土記』には、「古志の国から人が来て堤を築いた。だから古志と地名が付いた」という記述がある。そして、スサノオが退治した八岐大蛇は、「年に一度、高志からやってきて、娘を食べてしまう」と、コシとの関係が強調されている。

 コシというのは、一般的には、新潟や北陸地方を指すが、古四王(越王)神社が、新潟だけでなく山形や秋田など日本海側に多く分布している。古四王は、越王、巨四王、胡四王、高志王、腰王、小四王などと表記され、古志族(越族)は満州方面から渡来した人々だという説がある。古代、朝鮮半島の北部に国を築いた高句麗渤海などもこれに該当する。

 そして、古四王神社が分布する東北、北陸の海沿いには、秋田のナマハゲや、福井のアッポッシャなど、特徴的な「訪問者行事」が伝えられてきた。これらの行事の起源は漂着者で、子どもをさらうという究極の恐怖が重ねられているという。

 実際に、飛鳥時代の記録でも、それらの地域での漂着者による人さらいのことが残っている。

 『出雲国風土記』には記載されておらず、記紀にだけ描かれている「高志の八岐大蛇が、娘を食べてしまうというストーリー」は、 これらの歴史的事実から着想を得て創作されたのではないかと思う。

 古代、高句麗が位置する満洲地方でも製鉄や鍛冶は行われており、その技術は、中国が発展させた鋳鉄ではなく鍛鉄であり、その技術が日本にもたらされていた可能性があり、「古志の国から人が来た」という伝承が残る出雲市の古志本郷遺跡から、日本最古級のフイゴ部品が出土しているのは、そのことを裏付けている。

 そして、古志本郷遺跡の東4kmほどのところに、西谷墳墓群が築かれているが、ここには四隅突出型墳丘墓が6基存在し、そのうち、2号、3号、4号、9号の4基の大きさは、全国的にも最大規模だ。

 八岐大蛇は、頭が8つ、尾が8つなので、西谷墳墓群にある4基の大型四隅突出型墳丘墓の16のヒトデ型の突出部の形状が重なってくる。

西谷墳墓群の四隅突出型墳丘墓。

 四隅突出型墳丘墓の分布は、山陰や北陸など「高志」の地域に限られており、四隅突出型墳丘墓を、高句麗の積石塚にその源流を求める説もある。

 大型の四隅突出型墳丘墓が4基ある西谷墳墓群のそばを流れる斐伊川を上流部に13kmほど遡ったところに斐伊神社が鎮座し、この神域の八本杉のところは、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した場所と伝承されている。

 古事記におけるスサノオの物語でよく知られているのが、アマテラス大神が天岩戸に隠れて世界が闇に包まれてしまう原因となった行動だ。

 スサノオが機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は、梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。ここで天照大御神はついに怒り、天岩戸に引き篭った。

 状況としては残虐に思われるが、これは、太陽に犠牲馬を捧げる祭祀を神話化したものであり、古代ペルシャ古代ギリシャでも同じようなことが行われていた。

 日本においても、九州の日向地方や、長野の伊那盆地の地下式横穴墓などにおいて、馬の犠牲祭儀もしくは殉葬の跡が発見されている。

 どうやら、スサノオの荒ぶる神としての行動は、実用性のある鉄や馬の普及と関わりがあるように思われる。

 これは、古代日本に起きた一種の産業革命である。

 実用的な鉄を大量生産できることは、生産性を飛躍的に高め、地域を豊かにするが、同時に殺傷力のある武器が大量に作り出されることを意味するし、鉄作りのためには、大量の木材が必要で、自然破壊が進む。馬は、運搬、流通、情報伝達における有用性が高いだけでなく、戦闘力も向上させる。鉄と馬は、暮らしを豊かにするが、秩序の破壊と混乱をもたらすという二律背反的な状況を、急激に押し進めることになる。

 こうした二律背反的な状況を象徴するスサノオの行動によって、天岩戸に籠るアマテラスの物語が象徴しているのは、太陽神の死と復活である。

 イザナギイザナミという陰陽の二神が揃っていた時に生まれた最初の太陽神は、大日孁貴(おおひるめのむち)だった。

 そして、カグツチという鉄生産に関わる強力な火の神が生まれた時、イザナミは死に、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが禊をした後に生まれる太陽神が、アマテラス大神である。

 これが、岩戸に籠もった太陽神を、新たな祭祀の組み合わせで顕現化させたアマテラス大神=遍く照らす神だということになる。

 世界が闇に包まれる前、スサノオの行為で死んでしまった天の服織女というのは巫女を象徴しており、古代の産業革命後、もはや古来の祭祀では通用しない状況になったということを示している。

 黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは、禊祓(はらえ)を行った。

 二律背反的な状況を作り出してしまった人間は、我欲による破壊的な行動を起こさないために、まずは自らの穢れを落とすことが大事になる。

 神話というのは、同じ状況のことを、違う角度から何度も説明をする。

 第10代崇神天皇の物語のなかでは、「朕の世になり災害が多い。その所以を亀卜にて見極めよう。」と詔して、神浅茅原に幸して八百万の神を集めて占った。すると倭迹迹日百襲姫命大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣した。神の教えのままに祭祀を行ったが霊験がなかった。そこで天皇は沐浴斎戒して、「願わくば夢に教えて、神恩を示してほしい」と祈った。するとその夜の夢に一人の貴人が現れ自ら大物主神と称して「もし我が子の大田田根子を以って我を祭ればたちどころに平安となる。」と告げたと書かれている。

 巫女の祭祀ではうまくいかなかったため、天皇が自ら禊祓をして得た答えが、大田田根子(鴨氏の祖)という須恵器に関係する祭祀者に祀らせるということだった。

 これは一体何を象徴しているのか?

 須恵器は、高温に耐えうる窯で作られる薄く硬い陶器であり、水が洩れない。この陶器を作る技術は、鋳鉄技術による鉄の大量生産ともつながっており、5世紀以降に渡来人によってもたらされたものだ。

 つまり、この技術もまた二律背反的な状況を作り出すことに関わっている。

 そして、この須恵器は、水が洩れないというメリットを生かして、死者が黄泉の旅をする際の酒や食べ物を盛り、古墳の石室に供えられた。

 かつて、死んだ王は、天に上って神となった。そのため、古墳の一番高いところに縦穴式石室が作られ、そこに埋葬された。その石室は、2度と開けられないことが前提だった。

 その頃の祭祀の中心は、口寄せを行う巫女だった。

 しかし、こうした社会構造において、実力者が大量の鉄や馬を所有することは、敵を破壊する力も強大化するということであり、これが、強いものが全てを独占するという「うしはく」の世界だった。

 国譲りの神話の中で、タケミカヅチは、オオクニヌシに対して、「うしはく」の状況を終焉させて、アマテラス大神を軸とした「しらす」の状況に移行することを説得した。

 「しらす」の世界では、王は、死んでも神にならない。だから、横穴式石室で、王の棺は、他の者の棺と一緒に並ぶのである。

 大王の古墳において、この変化が起きたのは、第26代継体天皇の時だった。 

 大田田根子の登場は、鉄や馬などによって強まった二律背反的な状況を緩和させるために、祭祀の在り方を変える必要が生まれたことを伝えており、アマテラス大神を天岩戸の外へ導き出すために神たちが行った様々な儀式の組み合わせも同じである。

 技術の発展は、世の中に、禍と福、善と悪の二律背反的な状況を作り出す。
 これに対して、それ以前の思想やコスモロジーで対応しようとしても通用しない、新しい局面には新しいやり方で事態を整える必要があるということを神話は伝えている。

 

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