第1336回 ヤマタノオロチとは何か?(2)

出雲大社の隣に鎮座する命主社(いのちのぬしのやしろ)。出雲大社が築かれる前の聖域だったと考えられる。古代の磐座だと思われる巨岩の前に建てられているが、この巨岩を石材として切り出した時、下から銅戈(どうか)と硬玉製勾玉が発見された。ともに古代の祭祀道具だが、銅戈は北部九州産、勾玉は新潟県糸魚川産の可能性が高く、この時代に北部九州、北陸と交流があったことを物語っている。社の前には、推定樹齢1000年といわれるムク(椋)の巨木がある。

 

八岐大蛇について(2)

 スサノオの八岐大蛇退治のことを説明するにあたって、前回のエントリーで、スサノオを祭神とする埼玉の氷川神社が、縄文時代から海人交通の要であり、日本の各地域とつながっていたことを紹介した。そして、弥生時代から古墳時代前期、関東に、玉造の工房が地理的に規則的に配置されていたことも明らかにした。

 埼玉の氷川神社周辺の次なる歴史的段階として、鉄づくりの場が多く見られるようになってくる。

 日本各地の弥生時代から古墳時代にかけての遺跡から膨大な鉄製品が出土しているが、これまでの学説では、奈良時代以前の古代日本に製鉄技術はなく、鉄素材を大陸から輸入して鍛冶によって鉄製品を作っていたと考えられていた。

 しかし、製鉄作業のために使われる窯は、鉄を取り出すたびに壊されてしまうので残らない。製鉄の際に生じる屑なども酸性土壌で湿気の多い日本の風土では残らない。そのため、実証主義に基づくと、日本における製鉄の開始は、かなり遅い段階とされてしまうが、日本各地から出土している膨大な鉄製品の鉄素材を全て大陸からの輸入に依存していたとは考えにくく、異論も多い。そして、近年の新しい技術を使った調査などによって、まだ学会は正式に認めていないものの、弥生時代に日本で製鉄が行われていたとする見解を述べる学者も増えてきた。

 前回、紹介した千葉県の萱田遺跡群のなかの沖塚遺跡からも製鉄遺跡が見つかっており、これに関して、3世紀という日本最古級のものだという見解がある。

 また、氷川女體神社から真北に30kmの利根川のほとりに古墳時代から平安時代にかけての川戸台遺跡(茨城県古河市)があり、この場所は、製鉄や鍛冶を行っていた遺跡であることがわかった。

 氷川女體神社から北東33kmの尾崎前山遺跡は鬼怒川の砂鉄を利用して製鉄を行っていた場所だと考えられ、氷川神社の総本社から真北に8kmのところの大山遺跡は旧石器時代平安時代の複合遺跡だが、ここからもまた製鉄炉など製鉄関係の出土物が相次いだ。また、大山遺跡から北西6kmほどの宮ノ脇遺跡(桶川市)もまた、砂鉄の溶解から製鋼、そして製品を作る鍛冶と一貫した工程をもった製鉄遺跡であることがわかった。

 そして、これらの製鉄関連遺跡と、氷川神社3社の位置関係が興味深い。

氷川女體神社から真北に30km、製鉄遺跡の川戸台遺跡(茨城県古河市)。 氷川女體神社から北東33km、製鉄遺跡の尾崎前山遺跡(茨城県結城郡八千代町)。 氷川神社の総本社から真北に8kmのところの大山遺跡(製鉄炉など製鉄関係の出土物) 大山遺跡から北西6kmほどの宮ノ脇遺跡(桶川市)もまた、砂鉄の溶解から製鋼、そして製品を作る鍛冶と一貫した工程をもった製鉄遺跡。 氷川女體神社から北西33kmが埼玉古墳群。 氷川神社の三社と、日本最古級の製鉄跡が出土した萱田遺跡群(千葉県八千代市)と、埼玉県東松山市の祭祀遺跡で玉造工房のある反町遺跡は、冬至のライン上。 

 氷川女體神社と尾崎前山遺跡と、全国有数の大型古墳群である埼玉古墳群が、一辺が33kmの二等辺三角形の配置となり、川戸台遺跡は、氷川女體神社の真北30kmである。

 埼玉古墳群は、現在、大型の前方後円墳8基と大型の円墳1基が残っているが、5世紀末から7世紀にかけて築かれたと考えられている。

稲荷山古墳。

  この大古墳群で一番古く、唯一の竪穴式石室を持つ稲荷山古墳の後円部に立つと、前方部の軸方向に富士山が見えて、真北には日光の男体山、東には筑波山、西には八ヶ岳が見える。

 この稲荷山古墳からは、世紀の大発見と騒がれた、金象嵌で115字の漢字が刻まれた鉄剣が出土した。

 この文字が刻まれたのは、「辛亥の年」とあり、531年説もあるが、竪穴式石室なので、471年の可能性が高い。そして、被葬者は、オホヒコを祖とするヲワケという人物であると記され、「杖刀人」という軍事部門の長として、奈良県磯城郡に宮があった時、ワカタケル王に仕えたとある。

 杖刀人は、後の「杖部」=「丈部(はせつかべ)」であるとされる。

 丈部氏は、出雲が一番多いが、それ以外は、東国・北陸に名が見られる軍事氏族と考えられている。

 そして、「丈部」という名が墨書で記された土器が多数見つかったのが、上に述べた、氷川神社から冬至のラインで東に行ったところで、日本最古級の製鉄跡が見つかった千葉県八千代市萱田遺跡群だった。

 稲荷山の鉄剣には、杖部のヲワケが、「此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」と記録されているので、鉄の武器を備えて王に仕えていた人物ではないかと思われる。

 767年、丈部直不破麻呂という人物が、「武蔵」の宿禰を賜って武蔵国造に任ぜられた記録があり、同時に氷川神社を奉斎することになった。

 その時点で氷川神社の祭神が、スサノオだったかどうかはわからない。

 出雲地方におけるスサノオの八岐大蛇退治の物語で、スサノオが八岐大蛇を十握剣で切った時に、十握剣が欠けてしまったという描写があり、二つの金属器の材質に違いが暗示されている。

 この二つの剣のエピソードは、一般的には、青銅器と鉄器の違いとされているが、冷静に考えてみれば、八岐大蛇の後からやってきたスサノオが、鉄剣よりも弱い青銅器の剣を持っていたとは考えにくい。

 スサノオの十握剣が欠けてしまったというエピソードが何を語っているかというと、おそらくスサノオが持っていた剣は、鋳鉄技術で作られたもので、八岐大蛇の尾の中にあった草彅剣は、鍛鉄で作られたものではないかと思われる。

 鋳鉄というのはドロドロに溶かした鉄を型に流し込んで鉄製品を作る技法で、それに対して鍛鉄は、刀鍛冶が行うように熱した鉄材を叩いて製造する鉄器技術だ。

 歴史的には鍛鉄の方が古く、紀元前1000年以上前に遡る鉄の先進地帯では、鍛鉄が行われていた。

 しかし、紀元前500年頃から鉄の時代に入ったとされる中国は、鍛鉄ではなく鋳鉄の技術を発展させた。鋳鉄は、鉄をドロドロに溶かすので、高品質な鋳鉄製品を作るためには高温に耐えうる窯を作る技術が必要になる。

 それでも、鋳鉄の剣は、鍛鉄で作られた日本刀のように粘りのある剣に比べると脆いために、二つの剣がぶつかると欠けてしまう可能性がある。しかし、一つひとつ鉄板を叩いて作り込む鍛鉄に比べて、鋳型に流し込む鋳鉄は武器や農具などの大量生産には向いている。

 スサノオの十握剣に象徴されるものは、この鋳鉄技術だろう。

 そして、数多くの鉄製品を作るためには、輸入に頼るのではなく、高温に耐え得る窯を作る技術とともに、大量の砂鉄が自前で必要になる。

 律令制が整えられていく段階で、スサノオの聖域となった出雲の熊野大社(熊野山の山頂の元宮)から、冬至の日に太陽が沈む方向155kmのところ、日本海に面して須佐の高山がそびえる。須佐の地名は、スサノオが、出雲の国と朝鮮半島とのあいだの航路を定めるために、この高山の上に立ったからだと伝えられる。

 そして、532mの高山の頂上に、方位磁石を狂わせるほどの天然磁石の岩石がある。

 磁石があれば、鋳鉄のための砂鉄を集めることができる。この場所がスサノオの聖地となっているのは、そのことと関係していると思われる。

 磁鉄鉱の場所に雷が落ちると、天然の磁石ができる。

 出雲の製鉄においては、砂鉄を得るための鉄穴流し(かんなながし)という方法が知られているが、山を切り崩して土砂を水で洗い流すこの方法は、鉄の消費量が増大した中世から始まった技術だ。

 火山国の日本においては、海岸や川沿い等に砂鉄が堆積している場所は数多くあり、古代、磁石さえあれば、用意に砂鉄を得ることができただろう。

​ 島根県出雲市古志町の古志本郷遺跡は、弥生時代の遺構が数多く出土している集落遺跡だが、この場所から、羽口(製鉄炉にフイゴから風を送るための送風菅を熱から守るもの)が出土した。時代区分は不明確だが、日本最古級とされている。

 『出雲国風土記』には、「古志の国から人が来て堤を築いた。だから古志と地名が付いた」という記述があり、古志本郷遺跡は、古志の国から来た人々によって築かれた場所である可能性が高い。

 そして、スサノオが退治した八岐大蛇は、「年に一度、高志からやってきて、娘を食べてしまう」と、コシとの関係が強調されている。

 コシというのは、一般的には、新潟や北陸地方を指すが、古四王(越王)神社が、新潟だけでなく山形や秋田など日本海側に多く分布している。古四王は、越王、巨四王、胡四王、高志王、腰王、小四王などと表記され、古志族(越族)は、満州方面から渡来した人々だという説がある。朝鮮半島の北部に国を築いた高句麗渤海などもこれに該当する。

 そして、古四王神社が分布する東北、北陸の海沿いには、秋田のナマハゲや、福井のアッポッシャなど、特徴的な「訪問者行事」が伝えられてきた。これらの行事の起源は漂着者で、子どもをさらうという究極の恐怖が重ねられているという。

 実際に、飛鳥時代の記録でも、漂着者の人さらいのことが残っている。

 古事記日本書紀の中の「高志の八岐大蛇が、娘を食べてしまうというストーリー」は、 これらの歴史的事実から着想を得ているのではないかと思う。

 古代、高句麗が位置する満洲地方でも製鉄や鍛冶は行われており、その技術は、中国が発展させた鋳鉄ではなく鍛鉄だった。コシを通じて、日本にいち早く鍛鉄技術がもたらされた可能性があり、古志の国から人が来たという伝承の残る出雲市の古志本郷遺跡から、日本最古級のフイゴ部品が出土しているのは、そのことを裏付けている。

 そして、古志本郷遺跡の東4kmほどのところが、出雲の王家の谷と呼ばれる西谷墳墓群で、ここには四隅突出型墳丘墓が6基存在し、そのうち、2号、3号、4号、9号の4基の大きさは、全国的にも最大規模だ。

古代の製鉄跡の見つかった古志本郷遺跡の東4kmほどのところが、出雲の王家の谷と呼ばれる西谷墳墓群。ここには、4基の大型の四隅突出型墳丘墓がある。

  八岐大蛇は、頭が8つ、尾が8つなので、西谷墳墓群にある4基の大型四隅突出型墳丘墓の16のヒトデ型の突出部の形状が重なってくる。

 四隅突出型墳丘墓の分布は、山陰や北陸など「高志」の地域に限られており、四隅突出型墳丘墓を、高句麗の積石塚にその源流を求める説もある。

 高志の八岐大蛇の物語は、出雲の古志という場所で古くから製鉄が行われていたという歴史的事実と、日本海側で、古志から来た漂着者が人さらいをしていたという恐ろしい記憶と、出雲の古志遺跡の近くや、越国の北陸にだけ見られる四隅突出型墳丘墓という特異な埋葬施設のイメージが折り重なって創造されたのではないだろうか。

 大型の四隅突出型墳丘墓が4基ある西谷墳墓群のそばを流れる斐伊川を上流部に13kmほど遡ったところに斐伊神社が鎮座し、この神域の八本杉のところは、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した場所と伝承されている。

 斐伊神社の古史伝によると、埼玉の氷川神社は、ここから分祀されたものとされている。氷川神社側では、斐伊川の川上の杵築大社(出雲大社)から分祀したとしているが、斐伊川の川上ということになると、出雲大社ではなく、斐伊神社の方が正しいし、何よりも、出雲大社の祭神はオオクニヌシであり、斐伊神社の祭神は、氷川神社と同じくスサノオだ。

青い点は、スサノオを祀る熊野大社(熊野山の山頂の元宮)と、そこから冬至の日に太陽が沈む方向155kmのところ、日本海に面して須佐の高山。この山はスサノオの聖域だが、頂上に天然の磁石がある。熊野大社の近くの青い点が斐伊神社。スサノオが八岐大蛇を退治した場所という伝承でスサノオが祭神。ここから、埼玉の氷川神社分祀された。東西の一直線のラインの赤点は、東から、大山、オオクニヌシの死と蘇りの場所の赤猪岩神社、八重山スサノオの磐座、日本で最多数の銅鐸が見つかった加茂岩倉遺跡、大型の四隅突出型古墳が4基ある西谷墳墓群。西谷墳墓群のすぐ西が出雲の古志であり、古志本郷遺跡から製鉄道具である日本最古級のフイゴ部品が出土した。「コシの八岐大蛇」との関連が考えられる。 穴道湖の近くの赤い点は、玉造温泉だが、律令制が始まった後、日本全国で玉造が行われたのは、この場所だけだった。

 そして、埼玉古墳群の稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた被葬者の祖にあたる「オオヒコ」というのは、神話の中で、第10代崇神天皇の時に各地を平定した四道将軍の一人とされているが、その派遣先は、コシだった。

 大彦命は、阿部氏や、武蔵国造となった丈部の祖に位置付けられる。

 そして、史実としては、阿部氏が、コシを討伐した。

日本書紀』によれば、欽明天皇の544年12月、佐渡島に渡来する粛慎(みしはせ=高句麗からの漂着者)のことが朝廷に報告され、その後も、越の海岸への漂着が相次いだことから、589年、阿倍臣が派遣されて、調査を行った。

 斉明天皇の658年から660年にかけて、阿倍比羅夫が、水軍180隻を率いて、蝦夷および粛慎の討伐を何度か行い、朝廷への捕虜の献上した。

 丈部氏は、阿部氏と同族もしくは、その部隊に組み込まれた軍事氏族だと考えられているが、この氏族もコシの討伐に深く関わっていた可能性が高い。

 推古天皇時代の7世紀前半、埼玉古墳群の近くに八幡山古墳が築かれた。

埼玉古墳群の近くにある八幡山古墳。

 この古墳は、盛土は失われているが、全長16mの巨大な石室が残っており、これは、同じ時期に飛鳥地方に築かれた石舞台古墳と同じ規模である。その石材は、秩父地方から運ばれた巨大な緑泥片岩と安山岩であり、その時代の最高位の貴人の棺である漆塗木棺の破片や、豪華な遺物が発見されている。

 この古墳の被葬者が誰であるかは確定できていないが、同じ時代の飛鳥の最高権力者と変わらない実力者が埋葬されているということが興味深い。

 当時の武蔵国が、国全体をまとめ上げるうえで、重要な役割を果たしていたということだ。

 また、奈良時代東大寺盧舎那仏の造立の際、金の不足にも悩まされていたところ、陸奥国で黄金が発見され、貢進された。

続日本紀」には、「獲金人上総国人丈部大麻呂並従五位下」とあり、金の発見者は、千葉県の丈部大麻呂と記録されている。

 764年、藤原仲麻呂の乱で功績のあった丈部不破麻呂は、武蔵宿禰を賜り、武蔵国造となった。この藤原仲麻呂の乱の後、多くの丈部が、阿部の姓を賜った。

 そして、武蔵国造は、氷川神社を奉斎し、いつの時期かわからないが、この聖域で、スサノオを祀るようになった。

 さらに、関東に展開する氷川神社には、アラハバキ神の聖域が共存しているが、その祭神は、クシナダヒメの両親の足摩乳命(あしなづちのみこと)と手摩乳命(てなづちのみこと)になっている。

 アラハバキ神は、門客神であり、門客神は、門神と客神が融合したもので、門神は、門から邪霊や悪霊が入ってくるのを防ぐ神、客神というのは、地主神である。つまり、門客神というのは、地主神を門に祀ることで、悪霊や邪霊の侵入を防ぐ役割を担っている。

 スサノオに娘のクシナダヒメを助けてもらった足摩乳命と手摩乳命は、先住の地主神を象徴しているのだろう。 

 氷川神社の近くを流れる荒川は利根川とつながり、利根川を遡ると、群馬の高崎から軽井沢を抜けて、千曲川から日本海に到る。

 この水上の道は、氷川女體神社が隣接する馬場小室山遺跡から出土した「の」字型石製品が、八丈島、群馬、新潟、石川、富山、長野、山梨、大阪、島根と、広範囲に流通していたことからも、はるか縄文の時代からの道だったことは明らかだ。

 そして、海への出入り口にあたる氷川女體神社は、古代の祭祀場であり、航海の安全を祈るだけではなく、外部との接点ゆえに、来訪者の邪を祓う場所でもあっただろう。

 その信仰が、アラハバキ神という形となり、現在でも、関東の氷川神社に祀られているのだろうと思う。

 

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