第1362回 同調圧力が強すぎるのか、周りに流されやすい人が多すぎるのか。

ユーチューブで、「陰謀論」や「捏造」をテーマにすると、閲覧者が増えるらしく、そういう情報に染まってしまうと頑迷にそれを信じ込んでしまい、他の人の意見に耳を傾けなくなるという話を聞いた。

 いつの時代でも、「人に流されやすい人」はいる。

 ネット社会は情報伝達が早く、広がりも大きいので、「人に流されやすい人」は、あっという間に流れに取り込まれてしまい、いくら善良な人でも、善悪の基準がわからなくなってしまう可能性がある。

 戦争中に、惨たらしいことをやってしまう人は、根っこからの悪人ではなく、世の中が平和ならば善良の側にいる人だ。真面目で我慢強く、協調性があり、上司の命令に素直に従う。
 周りに流されてしまうのは、自分の保身のためだけではなく、自分の身内を守るため、という使命感によることだってある。

 人間に限らず、どんな生き物にも集団的ヒステリーというものがある。生命は、生存の危機を察知した時、きっとそういうプログラムが発動するようになっている。

 しかし、生存の危機を察知した時、ヒステリーではなく覚醒に到るということはないのだろうかと妄想する。

 人間は、過去の歴史を客観的に見ることができる生物だ。

 同じようなことを何度も繰り返しているにもかかわらず、また同じようなことをしてしまうのは、今起きていることが過去に起きたことと同じ性質のものだという認識がないからだろう。

 なぜ、人は、周りに流されてしまうのか?

 そして、なぜ、人は、周りの目を気にしてしまうのか?

 それはけっきょく、ホモサピエンスという、鋭い牙も爪も厚い毛皮も持たない弱い生物が、生き延びていくためには、集団戦略しか術がなかった、という遺伝子的な問題につながっているのだろうと思う。

 集団から除け者になってしまうと、生きていけないというホモサピエンスの宿命。

 しかし、人類史というのは同質化の延長が積み重なってきたわけではなく、変革期には必ず異質なものとの融合がある。その理由は、ホモサピエンスの遺伝的な問題を超えた生物の問題があり、極端な同質化は、その種を滅ぼすことにつながるという原則が横たわっているからだ。

 生物が生きる環境世界は、常に同じではない。地球に巨大隕石が衝突した時、大型の恐竜は絶滅し、小型の哺乳類が生き延びたケースなど、流動的な環境世界をサバイバルするためには多様化が必要であることを知っている生命の遺伝子が、人間にも組み込まれている。

 この遺伝子があるから、どんな目にあっても周りに流されたくないという人が現れ、孤立の逆境を力にできる人も出てくる。

 話は変わるけれど、今日の世界の中でユダヤ人の成功者が多いためか、ユダヤ人が民族として優秀だと信じ、日本の古代史などにおいても、「イスラエルの失われた10氏族」が日本にやってきて日本の基礎を作ったなどと本気で信じ、吹聴する人たちがいる。

 3000年前も1000年前も現在も、一民族がずっと同じだという考えは、太平洋戦争前の日本人を巻き込んだ「万世一系天皇の神聖さを根拠とする皇国史観」と質的には同じものだ。

 しかし、今日の世界で多くのユダヤ人が成功者となっているのだとすれば、それは民族的な優秀さによるのではなく、今日の世界に適合しやすい条件があったため、と考えた方がいい。

 聖書の中でキリストを裏切ったユダと烙印を押されたユダヤ教徒は、キリスト教的価値観に覆われた中世ヨーロッパでは、差別され、当時の多くの人が携わっていた農業に就けなかった。

 だから、土地所有とは関係ない金融業など都市的な仕事に携わっていた。家庭内での教育も、一般的な人が考えている世の中の価値観への順応よりも、独立独歩の精神を養った方がサバイバルができると考えられた。

 そして中世から近代の資本主義社会への移行で、早くから金融業など都市的な仕事に携わっていたユダヤ教の人たちに成功者が増え、それを妬む人たちのあいだで、さらなる差別感情が激しくなった。

 その心理と結びついたのがナチズムだが、その極限状態のなかでも、ユダヤ教の人たちは、過去から続く差別と迫害の歴史を記憶し、逆境を乗り越えることに人間としての尊厳を見出すという精神を形成していた。

 もし、ユダヤの人たちに成功者が多いとすれば、それは古代から続く民族的優秀さというより、歴史が、彼らをそのように作ってきたからで、歴史を単なる過去の出来事として処理してしまうのではなく、現在を生きる自分に引き寄せているという意味において、歴史に無関心な人たちとのあいだに、違いが生じているかもしれない。

 戦後の日本社会でも、プロ野球選手や芸能界など独立独歩の世界で成功した人に在日韓国人の人が多かった。

 それは、日本企業などで働くと、いくら優秀でも、差別のために出世など望めないとわかっていたから、家庭内でも、そういう育て方をしなかったためだという。

 大きな組織に入れば将来安定だからね(長いものに巻かれた方がいいよ)と教える日本人家庭とは違っていたのだ。

 大企業や銀行は絶対に潰れないという幻想は、もはや消えてしまった時代、日本人のなかでも最初からそういう幻想を持っていなかった人たちの方が、心の準備もできている。

 あれだけ悲惨な太平洋戦争があったにもかかわらず、「人に流されたらロクなことにならない」ということを、戦後の日本社会は教えてこなかった。

 戦争を振り返るテレビ番組でもイベントでも、戦争の悲惨さを伝え、あの戦争を2度と繰り返さないように願うと締めくくるのだけれど、肝心なところはボヤかしている。

 戦争は究極の事態だが、戦争に至るまでに、何らかの形で社会の不安が大きくなる状況が生じる。

 人間は、逆境や不安への耐性が弱いと周りに流されやすくなる。そして、人に流されやすい人は、人に操られやすい。誰も好き好んで戦争に参入していくわけではなく、多くの人が流されたり操られた結果として、さらに流れが大きくなってしまうと、誰も抗えなくなる。

 学校などでも似たような状況は起きる。集団的苛めなどにおいて、加害者のグループにいないと、自分も苛められるかもしれないという不安。その不安のために加害者側になるというのも、周りに流されているという状況。

 こうした社会の問題でも、「周りはなんとかできなかったのか」という言葉ばかり。

 周りと言っているあいだは、誰も自分個人の問題とは考えない。

 周りに流されやすいことは、周りの同調圧力に絡め取られて身動きできない自分を作る。

 そういう自分個人の問題をどうするのか、という大きな課題に向き合える人がどれだけ存在するか?によって、この国の進路が決まってくるような気がする。

 大人もそうだけれど、特に子供は、どういう人を尊敬するかというのが人生の指針になってくると思うが、同調圧力に屈することなく気高く生きる人間の姿が、あまり伝えられていない社会になっている。

 本来、映画や写真も含めて、文学性のある表現には、そういう役割があったが、出版社も映画産業も、時代の空気に寄り添って物を作り続け、メディアは、時代環境のなかでうまくやった人をヒーローとして扱うので、ますます時代の空気に染まりやすい=同調圧力に弱いメンタリティの人を増やすという循環になっている、

 表現者や情報発信者の多くが、世の中に合わせることを重視していることにくわえて、インターネットの情報伝達力で、その波が、あっという間に大きくなってしまう時代、身近なところに尊敬できる気高い人がいる場合は幸いだが、そうでなくても、文学や映画など、周りに流されない自分をつくるための指針となる表現を身近に置くことが、いっそう大事になっている時代なのかもしれない。

 

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