FIND THE ROOT

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 池袋のジュンク堂で、「風の旅人」(創刊号〜40号まで)のフェアが開催されています。
 実際に足を運んでみて、自分でもびっくりしました。こんなに広大なスペースを、風の旅人一色にしていただけるなんて!。ジュンク堂様、ありがとうございます!
 それにしても、このように表紙がズラリと並ぶと、壮観です。大竹伸朗さんの表紙(25号から30号)や、望月通陽さんの表紙(第31号から第37号)など、自分で言うのもなんですが、非常に味わい深くて素晴らしい。
 これらが単体で書店の店頭に置かれていた時、私は、見るのも辛い思いがしていた。なぜなら、現在、書店に並ぶ雑誌の表紙は、これでもかこれでもかと人の気持を煽るように大きなタイトルで飾り立てて、それぞれの主張が毒々しく渦巻いており、それらの阿鼻叫喚に囲まれると、「風の旅人」の表紙が、なんだかとても痛々しかった。
 でもこうしてズラリと風の旅人の表紙だけが並ぶと、ずいぶんと力強いパワーを感じる。。
 他の雑誌と比較すると、かなり異質で、大勢の類似のものに囲まれて異質なものが一つだけポツンとあると、居場所がなく、存在していてはいけないような気がしてくるけれど、こうして繋がっていくと、生きていていいんだという気がしてくる。、
 この現代社会のなかでも、同じようなことが色々あるように思う。日本社会は同質化が強いと言われる。学校内でも、将来の進路選びでも、企業内の会話でも、多くの人が共有している価値基準や話題に合わせないといけないという強迫観念があるし、一般的な傾向からズレていると、迷惑がられたり、攻撃されたり、差別の対象となることもある。
 日本社会で上手に安定的に生きるためには、周りとうまくバランスを取って自分が孤立しないようにすることが大事で、そのために日本人は大きなエネルギーを使っており、なかにはそれだけで疲弊してしまっている人もいる。
 よりよく生きるために、周りとの調整を大事にしなければならないだけなのに、習慣化された日々のなかで考えることを放棄して生きていると、いつの間にか周りと合わせることじだいが目的や決まりのようになってしまい、そのことに束縛されて、よりよく生きることが阻害されるという本末転倒のことが起こるのだ。
 人間はひ弱な存在で、単独では生きることができない。だから連携していくことは必要だ。しかし、他者に合わせること自体が目的化されたり強要されてしまうと、様々な歪みが生じる。
 一人ひとりが、そうした圧力に打ち勝つことは簡単ではなく、そうした心理に付け込んだビジネスも存在する。子供向けに、高価なゲームを買わないと友達と遊べない仕組みをつくりあげている企業など、その典型だろう。
 「風の旅人」は、創刊時から「FIND THE ROOT」というテーマを掲げてきた。すなわち、自分の根っこを発見すること。世の中の価値観に迎合することばかり続けていると、自分の根がどこにあるかわからなくなる。
 テレビやインテリが、「現代の不安」という言葉を連発する。そして「生活が不安定で将来に対する不安がある」などというステレオタイプの分析を流す。しかし、生活の不安定さだけで見るなら、戦後間もない頃の方が、遥かに不安定だった筈だ。
 現代人に不安があるとすれば、それは、世間の一般的情報ばかり追いかけているうちに、自分の根っこがどこにあるのかわからないような状況になっているということではないだろうか。
 「風の旅人」は、流動的社会の表層をなぞるような情報をとりあげるのではなく、それらの濁流によって見えにくくなる水底(ROOT)を照らし出したいと思って編集してきた。
 本当は足が着くところに水底があるのに、それが見えず、流れが急なために慌ててしまい、バタバタともがき水を飲んで溺れてしまうということがある。
 ふと冷静に周りを見回して自分の足で立ってみればいい。そうすると、あっけないほど水深が浅いことに気づくかもしれない。人々は、不安を感じれば感じるほど、目先のハウツー的な解決策に頼ることがあり、そのジャンルに寄生する文化人やインテリが注目される。だから、彼等は、人々に、不安であり続けてもらいたい。浅い川に次から次へと不安要素を流し込んで急流を作り出す。
 冷静に周りを見回して、自分の足で川底に足を着けた瞬間、人は、そうした目先の情報に煽られていただけだと気づく。それに気づかれた時点で、社会の情報の流れにおいてイニシアチブを握っている人達の神通力は通用しなくなる。彼等は、そのように自分のポジションが損なわれることを恐れている。
 「FIND THE ROOT]を掲げる「風の旅人」は、水流の表面ではなく、水底の像を浮かび上がらせることに注力し、社会状況に適合したハウツー情報やカタログ情報がないので、社会の濁流を上手に泳ぐためには役に立たない。泳いでいるのか流されているのかわからない状況を作るのではなく、ひとまず、自分の足で立つこと。立った瞬間、それまで頑なに一つの枠組みにはめこんでいたことが、一瞬にして、別の位相に見えるかもしれない。
 しかし、そうした今日の社会では見慣れぬ性質ゆえに、本屋さんの店頭でパラパラと立ち読みして何かを察知してくれる人は非常に稀になる。
 現在のジュンク堂のコーナーでも、おそらく何か気になるものがあるから手にとるのだろうが、パラパラとページをめくって棚に戻す人が多い。そういう時、一冊でもいいから持ち帰ってじっくり見て読んでくれればいいのにと祈るような気持になるが、このことに限らず、出会う寸前まで行っているのに出会うことができず、離れ離れになっていく運命は、この社会に無限にあるのだろうなあと思う。それが、”縁”というものなのか。