「日本社会」への認識の違い

 「風の旅人」の読者の方ではないのだけど、「風の旅人」が醸し出す空気をなんとなく察する方から、遠回しの批判というか、問いかけがあった。

>> いまの日本よりも「少しでもましな社会」が古今東西・人類の歴史の中にあったのでしょうか。このへんの認識への配慮がないのでは。<<

 「風の旅人」では、報道メディアのように日本社会の現状の局面に対して、一つ一つ攻撃をくわれるようなことは行っていない。といって、現状を安直に肯定するようなスタンスで制作しているわけでもない。批判か肯定かという二者択一のスタンスではなく、現代社会を覆う価値観のなかで見失われがちなものや、不当にないがしろにされているものに秘められた豊かさや美しさに焦点を当てて、現代の商業主義が仕掛けてくる豊かさや美しさの平坦さや嘘っぽさをあからさまにしたいという思いはある。

 「日本社会」という大まかで抽象的な全体像に対して、あれこれ言うつもりはなく、盲目的に信じこまされている価値観の一つ一つを、本当にそうなのかと検証していきたいという思いはある。

 そうした思いが、「風の旅人」のなかに気配として流れているのだろう。冒頭の意見を頂戴した方は、「風の旅人」に対して反社会的な何かを感じ取って、そこから距離を置きたいと考えるのだろう。

 私は、社会を批判することを自らのアイデンティティにしたいとは思わないし、社会を肯定することで、その価値観に添って生きてきた自分の人生を肯定したいとも思わない。はっきり言って、どっちつかずであり、揺らいでいる。

 揺らいでいるというのは、迷っているということではない。何ものであっても、それだけに執着するほどの価値はないと、心のどこかで醒めているのかもしれない。

 ならば自分の拠り所はどこにもないのかというと、そうではない。敢えて言うなら、「揺らぎ」の幅を、自分の拠り所にしているようなところがある。

 「風の旅人」にしても、既存の雑誌のジャンルで括られたくない。毎号のテーマにしても、テーマタイトルとして記された言葉に、内容を従属させてしまいたくない。

 写真を選ぶ時も、文章を説明する写真にしたくないし、文章もまた、写真を説明するような文章にしたくない。

 全ての存在が固有のものとして生きながら、他のものと呼応すること。その関係は、その時々、状況によって引っ付いたり離れたりする。具体的に言うと、「風の旅人」のページを開く時の状況とか気分によって、呼応する写真と文章が異なってくる。掲載されている各文章も、書いていることは別々のようでありながら、なぜか読後感は同じようで、写真もまた、別々のもののようでありながら、なんとなくつながっている。でも、絶対につなげなくてはいけないということではなく、見る時の気分によって、別々であっても何の問題もない。形として、今はたまたまそういう形になっているだけで、形そのものが重要なのではなく、その背後にある気配とか脈動とか、生を裏側から下支えするものを重要視するというスタンスを私はとっている。

 こういうスタンスのことを、冒頭の人は、「理解できない媒体である」と付け加える。

 「風の旅人」のなかに、解答などどこにも書いていない。そもそも、理解を求めているわけではないから、理解できなくて当然だ。

 自分が理解できないという状態をつくり出すものに対して、どうにも落ち着かなくなったり、煙たく感じたり、認めたくないと思う人はいるようだ。

 この世界には、自分が理解できないものは無限にある。その無限を感じると途方に暮れて不安になる。途方に暮れたり不安になったりするくらいなら、そういうものを遮断して、理解できる範疇のことで生きていた方が気が楽になる。

 そういう人もいるし、自分が理解できる範疇のことばかりだと退屈になってしまう人もいる。おそらく、ほとんどの人は、退屈になってしまうのだと思う。違いが出るとすれば、その退屈をどのように解消するかだろう。

 自分が途方に暮れたり不安になるリスクを承知で、理解できないものの大海に船を漕ぎ出す人もいる。そうしたリスクを負うのは厭で面倒だと思うと、理解できないものを遮断して、手近なところに退屈しのぎを見出すということもあるだろう。

 現在の日本社会は、「手近なところの退屈しのぎ」は、満ち溢れている。その分、自分が理解できないものを遮断することも、比較的容易に行うことができる。

 自分が理解できる範疇で、日本を良いと思う人は、良いと素直に感じているのだろうし、悪いと思う人も、素直にそう感じているのだろう。ただ、良いとか悪いとを決める以前に、自分が理解できている範疇が、果たしてどれだけのものかを疑うことが、まず第一なんだろうと思う。全体の10%しか見ていないということもあるのだし。

 しかし、例えば人を好きになるということにしても、相手の全部を知ったうえで好きになるとかではなく、相手の一部だけを見て好きになってしまうことがほとんどだ。周りの人が、当人の知らない相手の悪いところをよく知っていて、「なんであんな男のことを」などと諭したとしても、それを知らない当人が、簡単に聞き入れる筈がない。むしろ意地になって、好きになったりする。

 また、それまで自分のことを貧しいと感じず幸福に過ごしていたのに、周りに珍しい物が溢れるようになって、それを手に入れられないと自覚した瞬間、自分を貧しいと思い、惨めで不幸だと感じることもある。

 自分の知っていることを制限し、自分の置かれている状況に満足することの方が、幸福を感じられ、心を安定に保つことができる。知らないということは強いことであり、知らないからこそ、前向きに生きていけるということもある。このあたりが人生の微妙で難しいところだなあと思う。

 現在の日本社会の状況を、古今東西・人類の歴史のなかでベストだと思おうと思えば、そう思えるし、そうでない例とその理由を出そうと思えば、出すことはできる。

 そういうことは、どこに価値観を置くかの違いにすぎない。そうした二者択一の解答よりも大事なことは、この問いそのものに欠けている視点なのだ。

 それは、現在の日本は、日本という国一つで成り立っているのではないということ。

 食べ物にしても、食糧自給率は40%程度だ。日本をはじめとする欧米への輸出を優先させるために、地元の人に食料が回らないというケースもある。また、日本の木材業者がパプアニューギニアの森を買い、伐採し、住民にお金を渡し、物価を上昇させ、現金をめぐる暴力によって治安を悪化させている実例を目にしたこともあった。

 そういう悪例に対して、日本は発展途上国に多額の支援をしているという肯定論を持ち出すこともできるだろう。私は、日本が悪か善かという議論をしたいのではなく、そのように他国に多大なる影響を与えて日本が必死に得ようとしているものが、果たして、そんなに素晴らしいものなのだろうかということを気に掛けている。

 そのように強引に他国から物を獲得し、それを消費するためのお金を稼ぎ続け、さらに、狭い家に住んで35年ローンを組み、進学だ、塾だと、さらにお金に追われ続ける。こうした状態を、経済の活性だと言う。国民総生産が前年より何%アップしたかで一喜一憂している。物をたくさん作り、たくさん消費し、さらにそれらの物価があがれば、その数字もどんどんと大きくなる。その数字が大きくなることと国民生活の質が一致するわけではないのに。

 こんな日本よりも酷い国はいくらでもあるとか、そういう話しではなく、こういう状態を維持するための様々な思惑によって、現状を肯定する価値観が作られ、それに基づいて、自分たちおよび他者にどういう影響が出ているかはあまり知らされていない。

 自分と関わりが生じている全体への影響を少なくして、かつ、現在の日本国内で行われているライフスタイルよりもましな生き方が可能なのではないかという気持ちを持ち続けておかないと、ある日突然自分が信じこんでいた価値観の維持が物理的に厳しくなった時に、一挙に拠り所を失ってしまい、あまりにも危ういのではないだろうか。

 すぐに今の生活を変えなければならないということでなくても、これよりもましな生活の可能性を、今の価値観とは違った切り口で模索して心の準備をしておくことは大事だろうと思う。それが、冒頭の問いかけ者への私の答えだ。



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