日本の写真の力を、ウェブ空間を通して世界に発信していきたい。

 2年連続で高野山にこもって年越しをした。昨年の年始の高野山は、地元の人も驚くほどの大雪で壮絶なまでの美しさのなかに危うさが立ち込め、いてもたってもいられなくなり、高野山から下山してすぐに「空即是色」というテーマで風の旅人の第43号を作り始めた。
 作り始めてすぐにイスラム諸国に大きな波が立ち、その波が自然現象に転換して日本を襲った。日本に巨大津波が押し寄せた時、風の旅人の第43号「空即是色」はデザインを進行中だったが、その内容が、あまりにも津波とシンクロするものだったため、シンクロに慣れているはずの自分もショックを受けた。何しろ、すでに制作していた表紙も、津波を予感していたかのように、怪しくうごめく波の映像だった。
 3月中旬、津波原発による打撃によって日本国中が重々しい雰囲気に包まれている時、途方に暮れるだけで無力感に苛まれていた自分に、石巻市から介護会社の社長が電話で取材を依頼してきた。その電話の後すぐに宮城に行き、生々しい現場を脳裏に刻みこむことになったが、この現実を人心を煽るニュースとして伝えるのではなく、一つの時代の終わりと始まりとして厳粛に捉えるべきだと自分を諭し、「空即是色」の第43号に続き、「まほろば」というテーマで、第44号を作った。そして、9年間続けてきた「風の旅人」を、この「まほろば」で一旦休刊とすることに決めた。
 昨年に比べて、2012年の年初めの高野山は穏やかな空気が満ちていた。原発の問題も含め、今年は、価値観の大きな分岐点になる可能性がある。東京都知事は、2011年の震災を天罰だと言ったが、人間が試されるのは、震災によってではなく、震災後のあり方を通してなのだ。
 その在り方の大事なポイントの一つが、自分の言動や表現に覚悟と責任を持つことなのだと思う。それを心がける人が増えるだけで、時代の空気は変わっていく。
 生きるということが、快適とか安楽を目標にすることであるかのように人々に思い込ませていたのは、戦後の消費経済の価値観だった。原発は、そうした価値観に基づいて作られた。今でもその価値観にどっぷり浸ったまま、定年後に快適で安楽な人生をエンジョイすることが豊かな人生を獲得した証明になると錯覚し、未来への責任と使命を忘れ、老年の生き生きライフなどというキャッチフレーズに踊らされて今という時間を自分の為にだけ消費している人も多い。
 そもそも、生きるということは、いずれ死ぬということを覚悟し、いつ何が自分の身に起こってもいいように準備し続けること。その準備には、自分の快適とか安楽を脅かすものへの備えという程度のことではなく、過去から連綿と受け継いできたことを自分で終わらせてしまうのではなく、次に伝えていくための役割を果たす使命と責任が含まれている。伝統文化の継承などの形式的な事だけではなく、人類が蓄積してきた生きる為の知恵の全体像の、たとえ一部かもしれないけれど自分の心身を通してリアルに知覚したものを次の世代へとリレーする役割を担うこと。もはや、経済活性化の為に老人の消費力に期待するなどと寝ぼけたことを言っているような段階ではない。消費の余裕があるのならば、未来社会への投資にまわした方が自分が死ぬ時に悔いが残らないだろう。未来社会を健全にする可能性のある産業に投資したり、若い才能に場を与えたり、娯楽や消費優先の価値観の中で掻き消えてしまいそうな上質な文化表現を金銭的に支援したり。
 
 楽しさとつらさ、喜びと悲しみは対立する関係ではなく、お互いに補完し合い、育み合うことで一体となっている。片方だけ都合よく増やすことなどできやしない。楽しいことを増大させると空しさも増大し、悲しみを遠ざければ喜びも遠くなる。そして、死が希薄になると生もまた希薄になる。「禍福は糾える縄のごとし。」幸福と不幸は、縄を縒り合わせたように裏表をなすものだ。
 震災後、連日のように震災地の凄惨な状況がテレビなどで伝えられていたが、実際に現地を訪れると、想像を絶する困難な状況のなか、美しい表情で生き生きと働いている人が大勢いた。同じ時期の東京の方が、人々の顔はどんよりと暗く鈍っていたように思う。
 津波で失ったものは多いが、損失と獲得もまた一体だ。何かを失う時、以前と同じものは得られないが、別の何かを得ている。そもそも万物流転の世で、以前と同じものはどこにもない。何かが消えても他の何かが生まれる。新しく生まれるものに対して敏感であること。それだけでも、世界の見え方は大きく変わってゆくだろうし、生きていく上での心構えや元気も違ってくるだろう。
 私は、「風の旅人」というビジュアル雑誌を9年間続けてきたが、写真が好きだからビジュアル雑誌を作ったわけではない。風の旅人は、単に写真だけを掲載していたのではなく、写真と言葉の力で、現代社会のなかでバイアスがかかってしまっている「世界の見方」を矯正したいと願っていた。
 一般的に”見る”ということに関して、人は、顔に目がついているから見えていると思っている。目というセンサーが映像情報を自然にキャッチして、それを脳に伝えるのだと。だから、自分が見ているものに対して何ら疑いを抱いていない。しかし、実際には、目は単なるレンズにすぎず、目が物を見ているわけではない。目というレンズから入ってきた映像信号を、生きていくうえで意味あるものか、そうでないかを整理して形作っていくのは脳(心)の働きである。すなわち、脳(心)が見たくないものは見えないし、脳(心)が見たいものを無意識であれ選別して見ることになる。
 こうした目の性質上、日常生活というのは、とても大きな意味を持ってくる。日常を生きていくうえで必要な意味と理由だけに慣らされてしまうと、世界をその基準でしか見なくなる。日常によって見えにくくなっているものも世界であり、自分の人生である。それを見抜けるかどうかによって、世界との関わり方が変わってくる。
 今この時代に求められる映像表現とは、慣れきってしまった日常感覚をなぞったものではなく、かといって、日常を忘れさせてくれるものでもなく、日常に慣らされた目では見えにくくなっているものも世界であり自分の人生だというリアリティを、見る者の脳内に新たな回路として生じさせてくれるものだと思う。
 
 人間に限らず、どんな生き物でも、よりよく生きようとして自分に「利」のある方向へと動く。人間もまた生物であるかぎり、「利」を求めることじたいを否定したところで仕方がない。人間は、古代から現代まで「利」を求めて生きてきた。しかし、何をもって「利」とするのかは常に変化している。現代の消費社会の枠組みの中の日常の「利」に慣れきってしまうと、それ以外の重要な事実を見逃しがちになる。
 
 新年を高野山で迎えた後、私は、和歌山市を訪れた。かつての商店街はシャッター街となり、採算が合わないために閉鎖された百貨店等の跡地が、ことごとくパチンコ屋になり、正月から大勢の老若男女で賑わっていた。昔のように人間の手で玉を一つ一つ打ち出すのではなく、自動機械が目にも止まらない速さで玉を打ち続けていた。そして、すぐにお金をすってしまう人もいるし、別の人の台は、玉がジャラジャラと溢れ出てきて、たちまち箱いっぱいになり、新たな箱の中に、さらに玉が積もっていった。
 パチンコ玉は、ものすごい速さで台の中を駆け巡り、館内には耳をつんざくような音楽が鳴り響き、活気に満ちているようにも見える。そして使ったお金以上のお金を得る人もいるみたいだ。しかし、長い目で見れば、パチンコ屋が損をしないように調整されている。そしてパチンコ屋は、次々と閉鎖したビルディングを安く買い叩き、さらに巨額の利益を得ていく。パチンコ屋に集う大勢の人々の全体は、パチンコという運動を続ければ続けるほど、利を失っていく構造なのだ。
 なんだか、戦後日本社会の「利」を求める運動の挙句の果てが、この光景に象徴されているように感じた。
 私は、20世紀の消費社会の運動を力強く後押ししたのは、映像の力だと思っている。
 現在社会には、映像が氾濫している。その多くが消費経済の「利」にそったものだ。それらの映像は、見る者の脳内回路にイメージを吹き込み、それを人生の意味や価値と結びつける働きをしてきた。すなわち、目で映像を見ているのではなく、目という装置が映像によってコントロールされて、消費経済の「利」を求める運動を生み出し、その運動が、右肩あがりの経済成長を前提とする社会秩序をつくりだしたのだ。
 現代人は、目は嘘をつかないと信じている。だから、映像を操ることで、現代人の心を操ることができる。例えば、50年前よりも凶悪犯罪が減っていても、毎日のようにテレビで凶悪犯罪のニュース映像を流すと、凶悪犯罪だらけの世の中であると刷り込まれてしまう。
 現在の課題は数多くあるけれど、その一つが、映像によって歪められた世界を修正していくことだと思う。そして、映像を修正するものは、映像の説得力しかないだろう。
 風の旅人の制作においても、そういう思いがあったが、これからは雑誌という枠組みを超えたところでやっていかなくてはならない。
 その一つとしてウェブ環境がある。ウェブという国境を軽々と超えていくことのできる新しい型によって、これからの時代の軸になっていくと思われる映像を紹介していく場を形成すること。
 風の旅人の第43号を見たフランスの国立図書館の人が、これ一冊を見ただけで、創刊号から全て買い上げてくれた。日本の写真家は凄いと言って。これまでもフランスで日本の写真作品は、日本の学芸員などによって紹介されてきた筈だ。”おたく”や”アニメ”も、日本のアートとしてよく紹介されている。しかし、風の旅人で紹介されている日本の写真は、それらのものと切り口が異なっているのだろうと思う。
 風の旅人で行ってきた事を、ウェブ空間を使って世界に発信していくこと。
 風の旅人の電子書籍を作るという単純なことではなく、風の旅人が選び抜いてきたような写真家や写真表現を、ウェブ空間の中で束にすることで力を増大させ、その力をもって世界に発信していくこと。
 雑誌作りはお金がとてもかかるので、採算性を考えたり流通の対策を講じる必要があったり、それはそれで勉強になったが、9年間とても大変だった。ウェブ空間では、最初から利益など追求せず、様々な人々の力を合わせながら、とにもかくにも未来への架け橋となるものを目指していきたい。
 風の旅人に掲載されているような写真に心惹かれる人で、かつウェブ上の技術や知恵をもっている人達とタッグを組んで、新しく始められればいいなあと思う。
 今現在、同じような問題意識を持ち、こうした内容のことを指向する人がいれば、ご連絡いただければ幸いです。 
 kazesaeki@gmail.com