第906回 陰陽分かれざりし時

 

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 風の旅人ともつながりの深い大橋弘さんの写真が、現在、新宿の伊勢丹のショーウインドウを飾っています。
 これはちょっと驚きでした。ついに時代が大橋さんに追いついてきたかという感じです。
 きっかけは、私が、吉祥寺の「食堂ヒトト」のオーナーである奥津爾君に大橋さんを紹介し、この店で何度か大橋さんの写真展を行い、それを見た伊勢丹の担当者が、伊勢丹のショーウインドウを大橋さんの写真で飾ろうと決心したそうなのです。(以前、風の旅人第44号で大橋さんの写真を紹介した時も、それを見た病院の経営者が、大橋さんの写真を購入したと聞きました)
 私が京都に来る前、吉祥寺に住んでいた時は、奥津君のところで風の旅人関係のイベントを行っていました。
 宮内勝典さん、野町和嘉さん、鬼海弘雄さん、中村征夫さん、関野[E:#x20BB7]晴さん、井津建郎さんといった魂の濃密な人たちが多数関わってくれました。
 奥津君に大橋さんを紹介した理由は、奥津君の理念と、風の旅人の理念と、大橋さんの仕事に、共通するところがあるからです。
 そして、あらたに、「食堂ヒトト」で、大橋弘さんの「野鍛冶」の写真展が開催されます。(期間5月28日〜6月22日)
 昨日、この写真展のパンフレットが私のところに送られてきましたが、それを見て、とても驚きました。
 というのは、私が、現在、次号の風の旅人で企画構想していることと、非常にシンクロしているからです。
 私は、次号を企画するうえで大橋さんの写真のことも考えていて、机の前のボードに、何人かの写真家の名前とともに、大橋さんの名前も貼り付けていました。
 大橋さんは、これまで風の旅人の24号、28号、44号といったところで紹介してきたのですが、大橋さんの仕事全体が、風の旅人の息吹と響き合うものがあり、次号について、どういう切り口でやろうかと考えていたのです。
 それで、昨日、大橋さんの次の写真展のパンフを見て、その共時性に驚いた私は、すぐに主催者の奥津君に連絡をとりました。
 すると、奥津君が言うには、この写真展のテーマが脳裏に閃いた理由が風の旅人の創刊号だったそうで、なんだかぐるぐるとまわって、けっきょく自分に戻ってきたわけでした。
 私が最近考えていることと、大橋さんの写真の共通点は、以下のことです。
 古代において、”もの”は霊でも物でもあったわけですが、現代は、物と霊は別のものになっています。
 現代社会における物体としての物は、人間の都合に応じて消費され、霊は、非科学的な想像上の世界として扱われます。
 しかし、それならばなぜ、愛着を感じる物と、そうでない物があるのでしょう。
 触っているだけで安心したり、身が引き締まる物もあります。
 物というのは、単なる形ではなく、人間と同じように、様々な粒子が寄り集まってできているわけで、それらの粒子は、エネルギーを持っています。
 素晴らしい職人は、単に物の形を作るのではなく、物の中に潜む粒子のエネルギーをリアルに感じながら、そのエネルギーに逆らわずに、上手に整えていく技を持っているように思います。ものの心がわかるというのは、そういうことでしょう。
 大橋さんは、物の形をなぞる写真家ではなく、そのエネルギーを撮ろうとしている写真家です。そのエネルギーは、”気”という言葉に置き換えられるかもしれません。
 大橋さんは、長い間、日本の衣食住+生活に関わる様々な職人を撮ってきました。職人と、職人たちが作り出す物(もの)と霊(もの)を合一化して撮ってきたのです。
 つまり、物と霊が分離しないところ、陰陽分かれざりし時を、撮ってきたのです。
 この「陰陽分かれざりし時」というのは、現在、企画構成中の風の旅人の復刊第6号(第50号)のテーマ、時の文(あや)〜不易流行〜で表したいものでもあります。
 「不易流行」は、「変わるもの、変わらないもの」と説明されることが多いですが、芭蕉ほどの人が、その程度のことを言っているとは思えません。
「易」というのは、陰と陽の組み合わせによって変化していく世界を、陰陽のバランスを読み取って占うことですから、「不易」というのは、陰陽が未分化の状態ということでしょう。つまり、老子の言う天地分離以前、荘子の説く混沌、華厳の一真法界。日本書紀の「古に天地未だ剖れず、陰陽分かれざりしとき、混沌れたること鶏子の如くして、溟 にして牙を含めり。」という、物事の始まりの根元のところ。
 芭蕉は、そこに意識を回帰せよと言っているのではないでしょうか。そうした無自我の無分別の境地で、ダイナミックに変転していく自然と合一化すること。それが流行。本来、どんな表現者も、物作りの職人も、そのように自己主張や自己顕示欲などとは無縁の無分別の境地で対象と向き合い、自分の固定観念に執着せず対象の変化に自在に応じていく境地を目指していました。不易流行とは、そうした融通無碍の境地であると思います。
 今日の人間は、様々な分別や自我意識によって物事を分断してしまっていますが、それでも、素晴らしい表現者や職人がこの世に生み出した、分別の垣根を超えるものと出会えば、きっと目が開かれるのではないかと思います。歴史を超えて伝えられていくものは、きっとそういうものなのです。
 一週間ほど前、京都において、織・染の高い技術をもつ織物創作で280年の歴史をもつ帯問屋、誉田屋源兵衛で、七代目の山口源兵衛さんと語り合った時も同じことを感じました。物づくりに一生をかけている人たちは、自分の名前を残すことなどまったく興味がなく、ただひたすら”神の領域”に向かって、ものを作り続けており、だからこそ、そのように生み出された物(もの)は霊(もの)であるわけです。
 そういうものと出会うと、自分のちっぽけさを感じると同時に、そういう自己意識すら無化してしまう大きな時の流れを感じ、人として生きていることの苦しさを超える楽しさ、ありがたさを知ります。すばらしいものに出会うと、どうやら人は、「有り難いなあ」と感じるもののようです。
 物作りでも芸術でも、どんな表現でもかまわないのですが、究極において、「有り難い」と感じさせる力を秘めているものかどうかが、そのものの真価なのではないかと思います。

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