「島〜Islandと、哀切と痛切

 本日1月13日(金)〜15日(日)まで、パパ・タラフマラのファイナル公演の第二弾「島〜Island」が始まる。
http://pappa-tara.com/fes/shima.html

 私は、明日の14日、18:00からの上映の後、30年間、パパ・タラフマラの舞台を創造してきた小池博史さんとアフタートークをすることになっている。
 演劇や舞台とあまり接点のない私が小池さんとトークすることになるのだが、そのことについては、時々、小池さんとお酒を飲みながら話をすることの延長線上で構わないとは言われている。しかし、お酒を飲まずに、しかも、「島〜Island」の舞台を見た直後なのだから、そういうわけにはいかないかもしれない。
 数日前、小池さんから、「島〜Island」を映画監督の小栗康平さんに是非とも見てもらいたいので連絡して欲しいと連絡があった。小栗監督には、パパ・タラフマラの解散や公演のことは伝えているが、日程の都合で、13日〜15日の「島〜Island」は無理だけど、1月27日〜29日の「ship in a view」なら行くことは可能だと返事をもらっていた。そのことを小池さんに伝えたら、解散公演で行う4作のうち、「島」と「ship」は、きっと小栗さんの心に響く、なかでも「島」は、小栗さんの著作である『哀切と痛切』に通じる内容だから、無理を承知でお願いしてみると言う。
 小栗監督の『哀切と痛切』は、私も、とても大事にしている本であり、突然、この古い書物の名が小池さんの口から出たのには驚いた。私は、今から30年前にパリで「泥の河」を見た時から、小栗さんのファンで、なかなか制作されない新作をいつも楽しみに待ちながら、欠かさず見てきた。風の旅人の執筆者や写真家をはじめ友人にも小栗映画をことあるごとに薦めてきて、「泥の河」や、カンヌのグランプリを受賞した「死の棘」しか知らなかった人たちも、「眠る男」など他の作品を見ることで、小栗映画の大ファンになってしまった人も多い。
 海外で圧倒的な評価を受けている稀有なる日本人映画監督の作品でも知らない人が多いというのが、日本の文化表現が陥っている状況の悲惨さを示している。パパ・タラフマラもそうなのだが、いくら海外で高い評価を受けていても、日本のテレビを主とする大衆メディアで安易なキャッチフレーズとともに紹介しにくい作品は避けられる傾向にあること。映画の出演者がテレビコマーシャルに出ていれば映画制作にスポンサーがつきやすいなど、商売的な要素が多く絡んだものの方が世間に露出しやすいうことや、売名のために認知度が高いものを選んで評論を書きたがる自称文化人が多いという構造が、日本の表現世界を、薄っぺらいものにしている。
 それはともかく、1987年に発行された「哀切と痛切」という本は、言語表現は苦手だと言う小栗監督が、自らの繊細な心の内側を丁寧に綴ったものだが、この本を読んだ後に小栗映画を見ると、小栗映画の陰影のなかに、この本で書かれている小栗さんの心の機微がこめられていることが直に感じられて、小栗映画への愛しさがより増してくる。
 映画作品はそれじたいが自立して完成しているものであり、「哀切と痛切」は、映画のことを説明するテキストではない。この書物は、それ単独で作品であり、小栗さんの澄んだ孤独(というより孤高)が、しみじみと伝わってくる。そして、表現者である前に一人の人間である小栗さんの誠実さと向き合い、自分自身を省みることになるのだ。
 今、あらためてこの本を読み返すと、自分の潜在意識に深く影響を与えていることが実感できる。20代だった私は、小説家の日野啓三さんと小栗康平さんの作品に出逢い、同時に自分のなかで共通するものを感じ、そのことが自分の世界観や人生観の肉付けになっていったことがわかる。

「哀切と痛切」というタイトルになっている言葉じたいも、自分が物事を判断して行動する際の大事な鍵になっている、けれど、時おり忘れている。「哀切であることは誰でも撮れる。それが痛切であるかどうかだよ、オグリ。それだけを憶えておけ。あとはうんうん唸っていればなんとかなる。もの哀しいことと、身を切られるように痛いこと、私は肝に銘じた。」
 小栗さんが、弟子となって助監督をつとめた浦山桐郎さんの言葉だ。小栗さんが「泥の河」を撮る前に原作を持って相談に行った時、内容について何も答えずにこう言われたらしい。
 この言葉を読んだ時、私は心にグサリとささるものがあった筈だが、小栗さんのように肝に銘じるほどにはなっていない。
 でも、心のどこかで深く影響を受け続けている。そして、小栗さんや小栗さんが表現する映像や言葉を深く愛している。
 そして、数日前、小池博史さんが、「島〜Island」と「哀切と痛切」は重なっていると突然言ったのだ。それを聞いただけで、またグサリと何かが心に突き刺さった。
 私は、パパ・タラフマラの作品はいろいろ見たが、「島〜Island」はまだ見ていない。だからアフタートークをすることになっているのに、何の準備もできていない。
 ただ、パパ・タラフマラの解散にあたって行われる4つの舞台が、なぜこの構成になっているのか考えてみたりする。もしかしたら、「島〜Island」と、次の「ship in a view」は、とても大事な意味合いを持っているのではないかと勘ぐったりもした。芸術家は、簡単に胸の内を明かさないが、ファイナル公演の第一弾の「三人姉妹」は、パフォーマーが三人だけの小さな作品であるものの、パパ・タラフマラのスピリットを象徴する作品だし、公演数も非常に多いので、当然だと思う。第4弾の「白雪姫」は、解散前の最後の作品だ。だから、この二つの選択はすんなりと理解できる。しかし、他の2作に関しては、色々な選択の仕方があるだろう。小池さんがパパタラを始めた時から目標にしていたガルシア・マルケスの「百年の孤独」とか。もちろん公演を行ううえで様々な制限もあり、作品の規模など配慮しなければならないことも多々ある。
 そういう分別は別にして、「島」と「shipは、もしかしたら、もっとも小池さん自身が投影された作品なのではないかと、「哀切と痛切」の話を聞いた後に、私は思うようになった。
 「ship」に関しては、以前に稽古を見にいった時、何の説明も受けずに舞台だけを見ていると、南の島のニカライナ伝説のような印象を持ったが、後で聞いてみると、小池さんの故郷の茨城県が舞台らしい。地理的な場所はどうでもよく、ニカライナのように彼岸と此岸のあいだを行き交っている感覚があることは間違いなく、そこに漂うノスタルジーは、現実という此岸の端から彼岸に向かう心情であり、さらに彼岸にわたってしまった後、此岸をふりかえる心情であるとも感じられる。狭い現実の向こう側に思いをはせる小池さんの少年時代、そして、大人になった小池さんがふりかえる自分の少年時代。誰でも自分が立っている現実が此岸であり、今、自分のなかにないものを思う時、そこが彼岸になる。その思いが過去に向くこともあるし、未来に向くこともある。そうした時、人は誰でも、心の船を必要としている。と書いた後、小学校5年生の頃、作文に将来なりたいものとして大型船の船長だと書いたことを思い出した。当時の私の家は明石海峡をのぞむ海辺の村で、毎朝、海峡を通り抜ける大型船の情報を新聞で仕入れて、その時間、窓からじっと目を凝らして、海の方を見ていた。その頃は、家庭環境が酷く、幼心に現実から逃げ出したい気持が宿っていたことは間違いない。
  そして、明日、パパタラ作品で初めて見る「島〜Island」は、世間からはわけのわからないものとみなされる天使の物語が原作だ。
 小池さんは、高校時代までレスリングをやっていて、今でも腹筋や背筋やスクワットの身体トレーニングは毎日欠かさない人だ。そして、言葉にならないものの表現を目指しながら、言語による構築もやってのけ、様々なディスカッションの場でも血気盛んな発言をするので、とてもマッチョで攻撃的な人のようにも見られる。しかし、日頃、小池さんの傍にいるパフォーマー達がよく知っているように、小池さんの内面世界は、幾つになっても、あの少年の時のようにピュアで繊細なのだ。
 そして、小栗康平さんの「哀切と痛切」を読めば、同じような純真さと繊細さが深く根をおろしていることが伝わってくる。小栗さんは、テレビ局や広告代理店が仕掛ける話題性ばかりを浅ましく狙う映画作りに易易と与しない。世間に有象無象に存在する自称表現者のように売名行為の為に自分の魂を売るくらいなら死んだほうがマシだとさえ思っているだろう。小池さんもまた同じだ。
 「哀切と痛切」と、「島〜Island」の共通性。見てみないとわからないが、「ship in a view]」にもつながっていると考えると、やはり、孤高の表現者の内面に宿る原風景なのではないかと思う。一流の表現者のなかにある原風景は、単なる後ろ向きな回想であるはずがない。
 彼らは、自分が立っている現実の枠組みを超えた世界を、他人からは妄想だと言われようが、強い思い入れを持って眺め、描き出そうとしている。それを求める思いは、世間でどう評価されようが、他人がどう言おうが、自分の内部に深く根ざしたものだから切実なのだ。そして、それを求めれば求めるほど、孤独に陥っていく自分を知り、一人の人間として安定の場所を求める心情も生じる。といって簡単に世相に迎合できず、自分が自分であることを確認できる自分の内側の原風景とも言うべきところに何度も立ち戻りながら、再び、現実に向き合い、それを超えていこうとするのではないか。
 そうした内的衝動を持つ小池さんは、桁外れのバイタリティと情熱で、これまでに100本作品くらい作ってきたらしいが、もしかしたら一番自分と近いところにある作品が、「島〜Island」かもしれない。
 「哀切と痛切」のことを聞いて、そういう思いが突然、自分に降りてきた。
 実際はそうではないかもしれないが、ずいぶんと昔に小栗さんの「哀切と痛切」にグサリとした何かを突き立てられながら、まったく肝に銘じることのできていない自分に、「島〜Island」の純真がどのように響くのか。楽しみであり、試されるような不安も覚える。