第991回 根源と全体を受容すること②


 小栗さんと京都の清水あたりを歩いている時、小栗さんがデビュー映画「泥の河」を作ってまもなく、若狭と東大寺のお水送りとお水取りのリポーターをやった時の話をされた。
 この時のことは、1987年に発行された「哀切と痛切」という本の中に書かれている。

古代史に門外漢の私がリポーターという何も価せぬままわずかに発言出来たことは、そのように歴史の中で推理しうることを、若狭の風土で感じとってみようとしたことだったか。それはひと言でいえば、感情である。しかし、テレビではそれがいっさい欠落していたのである。理屈や理論は見事に通っている。が、映像に感情をためるだけの力がない。カットのつなぎにも音声にもそれを気づかう細心さが見られない。
 歴史の裏側に隠された者や殺された者を見ようとする意志は、そのようにがさつなものであったいいのか、私はそう思った。ふだん見えないものがかすかに見えてくるときの、そのうねりのようなものは、もっと密やかなものだ。」
 この本のなかに、「大事なセリフがあったらそれを引きで撮れるようになれ、死んだ師匠の浦山桐郎はよくそういった。引きというのは、クローズアップの反対で全部が写っているものだ。ここが大切なんですとばかり、寄っていっては駄目なのだ。本当に大事なことは相互の位置関係が見えるところで語れという思想だ。」
という言葉もある。

 これらの小栗さんの言葉と、日野啓三さんが、1968年に出された『虚点の思想』という著書の中の、
「無限定のものこそ根源的であり、明確そうなものの方が限定されたものであってむしろ部分なのだ。ちょうど明確なニュートン力学が、極大から極小にわたる無限の世界のごく限られた一領域でのみ成り立つように。根源的なリアリティを正確に感じ取り表現するためには、あえて不明確であることが必要であるにちがいない。少なくてもこれまで明確とされてきた表現の形式への反抗が。もしわれわれの文明が、再び根源的なものを見いださねばならぬ時にあるならば。」

は、言い方は違うけれど、同じことを言っている。
 日野さんが「虚点の思想」を書いてから50年経って、小栗さんの「哀切と痛切」からは30年。大事なことは、あまり変わっていない。
 でも、世の中は、これらの言葉と逆の方向の表現が、あまりにも多くなっている。
 小栗さんの言葉でいうと、”がさつ”だ。日野さんの言葉でいうと、”限定的で部分的”に。

 私は、数ヶ月ほど前から、ピンホールカメラで撮影を始めた。そのきっかけは、歴史や風土、とりわけ、カギ括弧でくくられる「自然」や「宗教」の根源的な何かを、もっとも原始的なカメラで受容したいと思っているからで、小栗さんや日野さんの言葉と同じ問題意識が自分の中にある。
 写真は、100年ほど前に、35mmフィルムを装填できる小型で機動力のあるカメラが作られた時から、人間が自由自在に世界を限定的に切り取るようになったが、その時から、対象に対して、”がさつ”になったと思う。さらにズームレンズの開発で、相互の位置関係がわからない限定的な情報が増えた。そこから、加速度的に、わかりやすさ、明確さが求められる消費社会が作られていった。写真は、広告表現をはじめとして、消費社会に発展に貢献した。さらに近年のデジタル化で、自分の都合の良いように画像処理ができるようになった。
 自分の意図とは関係なく写ってしまった写真からは、多くの気づきが得られるかもしれないが、自分の意図にそって世界を切り取り、処理するようになって、果たして、世界からの気づきは得られるのだろうか。自分という限定された世界が、ますます狭くなっていくだけではないだろうか。
 今日の社会では、自分はこうしたいという明確な意思を持つことが大事だとされるが、世界の解釈も人生のあり方も限定的であった方が、そうしやすい。
 でもその種のわかりやすさは、好きか嫌いか、良いか悪いかという単純な二項対立に陥っているからにすぎず、言うに言われぬ根源的なリアリティからは、遠くなっている。
 大事な物事の判断は、そう簡単に割り切れるものではない。世界は、人間の整理能力を超えて、あまりにも複雑精妙につながっているのだから。