人間は大きいのか、小さいのか 

 土曜日に引き続き、日曜日もポレポレ東中野で行われている小栗康平監督特集を見に行った。
 「眠る男」を見た後、前田英樹さんとの対談があり、この対談は、映像を主体にした小栗監督の凹と、言葉を主体にした前田さんの凸がぴったりと当てはまる素晴らしいものだった。
 今回の特集におけるゲストとのトークの内容は、AOLで聞けるようです。4/7時点では前田さんとのトークはアップされていませんが。  http://entertainment.aol.co.jp/movie/oguri/

  ポレポレ東中野で行われている小栗康平監督特集は、今週の金曜までです。まだ行かれていない人は、是非この機会に。

 「眠る男」は、これまで3回ほど見たが、デビュー作の「泥の河」とあわせて見ることで、感銘深いものがあった。前日、「泥の河」を見て少し気持ちが高揚した時に、小栗監督に、「もう一度、泥の河のような映画を作ってくださいよ」などと言ってしまったことが、恥ずかしくなった。
 「眠る男」という作品を作ってしまった人が、逆戻りするように「泥の河」を作れる筈がない。
 小栗監督は、これまで5作しか作っていないけれど、その1作1作が、他の映画監督にとって10本分くらいのチャレンジであり、成就なのだ。とりわけ「眠る男」は、これ一本だけでも、映画史に燦然と刻み込まれる「事物」になっていると思う。
 「眠る男」を見ているうちにすっぽりと映画のなかに入り込んでいく私の意識は、時折、挿入される大きな水車のシーンで、ギギギィィとネジ巻かれる。この水車は、時計とは逆回りにゆったりと回ってゆくのだが、この感覚が、映画全体の時間のように私には感じられた。
 時計と逆回りの動きだから時間を遡っているというわけではなく、ほうっておけば時計の針の方向にどんどんとまわっていく現代の時間が逆向きにギギギッィと呻ることで、”時間”が、永遠の現在にとどめ置かれるような印象を受けるのだ。
 現在を生きる私たちの概念では、時計の針が右回りに進むのが当たり前のことになっているが、おそらく、機械時計を最初に作った時、人間の意識が「時」を表すために、右回りに針が動く感覚がしっくりと来たのだろう。そして、そのように作られた「時計」によって、私たちの意識は、さらにその方向に固定されることになった。私たちの多くは、その現実を当たり前のものとして生きているから、それに対して、何の疑いももたない。
 ミケランジェロシスティーナ礼拝堂に描いた「最後の審判」は、時計回りに、人間が地獄に堕ちていく。そして、時計回りに、選ばれた人が天上に昇っていく。偶然そうなったわけではなく、その方が、ある種の傾向の世界観や死生観を持つ人間の意識構造として、しっくりくるものがあるからだろう。そうした「認識」が、いろいろなルートで、私たちの日常に入り込んでいるが、「時計」もまたその一つなのだ。
 「眠る男」にかぎらず、小栗監督の映画は、そのように現代社会で標準化されている押しつけの時間感覚で作られていない。
 時間は、私たちの外にあったり輸入するものではなく、私たちのなかに生じたり隠れたりするものだ。今行ったことが次の瞬間へと移行していくのではなく、それぞれがそれぞれの関係性のなかで存在しており、関係性によって、生じたり隠れたりするのだ。その意味で、全てが永遠の現在のなかにある。

 小栗監督が、「泥の河」で成功をおさめた後、その成功を脱ぎ捨てるようにして一歩一歩、歩んできた到達点が、「眠る男」だと私は思う。 
 一昨日に「泥の河」を見て、その翌日、「眠る男」を見た時、そのことをひしひしと感じた。一昨日、「泥の河」をあらためて見た時、「映画」がつくりだす時間に対して、ある種の羨望を感じた。
 せちがらい「日常」を超えたもう一つの「現実」を私たちは映画のなかで味わうことができる。自分でも気づいていない自分自身の感情や心の機微を、映画を通じて発見することができる。なぜそれが可能かというと、私たちは日頃、膨大な情報に触れているわけだが、氷山の上の狭い部分だけ意識に留め置いて、ほとんどのものを流し去っているにもかかわらず、それらが身体の奥深いところに、あたかも氷山の海中の目に見えない部分のように、厚い層になって蓄えられているからだ。
 「泥の河」のように良質の映画は、そのように隠れている記憶に働きかける。それが懐かしさだろう。アルバムなどを見て自分の思い出を確認することは、過去の整理もしくは過去の組み替えと言った方がよいと思う。そうした組み替え作業は、知らず知らず、自分に都合の良い方へと流れていく。自分史でもそうだし、歴史もそうだ。

 ”懐かしさ”というのは、自分でも気づいていなかった自分と出会う瞬間だ。本当は心の底で知っていたけれど、意識の厚い殻によって覆い隠されて見えなかった層が垣間見えるようになる瞬間だ。だからこの懐かしさは、「過去」への逆戻りではなく、「未来」につながっている。
 私は、「泥の河」を改めて見た時、自分のなかに息づく「哀」が、とても大事な感覚として意識の水面下から立ちのぼってくるのを感じた。この映画とともにいる時間を、とても懐かしく、有難いものに感じた。おそらく、今までもこの映画を見るたびに、そういう思いがわき上がっていた筈だが、世知辛い現実の時間を生きはじめた瞬間、そのことを何度も忘れてしまったのだろう。
 それに比べて、昨日の「眠る男」は、「もう一つの現実」を垣間見るどころか、「映画のなかの現実」こそが本当なのだという感覚が、おそろしいほどの勢いで自分に迫ってくるものであった。
 「眠る男」は、「映画作り」に対する羨望を抱かせるという次元ではなく、映画であれ何であれ、これほどまでの高みの境地を見事に具現化しているということにおいて、心底、敬意と憧憬を強く感じずにはおれないものだ。この稀有なる創造者と一緒に、上映後、気さくにお酒を飲んだり話している時間の方が、現実ではなく幻のような気がしてならない。
 「眠る男」の最後、山の頂上に立つ男が、自分の影が光輪によって地上に大きく映し出されるのを見ながら、「人間は、大きいんかい? 小さいんかい?」と呼びかけるシーンがあるが、この台詞じたいが、とてつもなく大きなものを孕んでおり、地上の現実を生きざるを得ない人間が発することのできる言葉のなかで、もっとも大きいものの一つではないかと私は感じた。
 「眠る男」全体に濃密に存在するのは、「人為」に対する深い洞察だ。
 「人為」のなかで、言葉こそがもっとも大きな位置を占める。その言葉によって成される人間意識も当然ながら人為だ。
 「人為」の一方に、「自然」がある。人間の身体は自然だ。人間は自らの内に自然を抱きながら、世界のなかで生きる。その際、自然のあいだに人為を差し挟んでいる。最初は、ヨチヨチ歩きの赤ん坊のように世界に対して戸惑いながら、ビクビクと怖じ気づきながら、人為の手を伸ばしていたことだろう。
 人間が戸惑えば戸惑うほど、世界を構成する事物の存在感が増す。人間が、スラスラとわかったような言葉を吐けば吐くほど、事物の存在感は消失して、後に残るのは、「言葉だけ」であり、それは「世界」から離反してしまった人為だ。
 「眠る男」のなかで、外国人が日本語を話すシーンがとても多いのだが、その訥々とした日本語が、世界の事物の手触りを確認していくようであり、聞きながら、自分の心の薄闇に一つ一つ言葉が落ちて、その都度、小さな漣が立つような感覚があった。こうした濃密な対話の時間は、日頃めったに味わえないけれど、日野啓三さんが亡くなる前、夜遅くまで話し込んだ時の、ひそやかに凝縮された言葉の間合いが私の中に蘇った。
 小栗監督と話す時も、そのような凝縮された間合いを感じる。言葉そのものではなく、言葉が誘発する”底知れぬ思い”によって、心の隙間が満たされるというか、隙間じたいが無化されてゆく。
 人との出会いは大切だとよく言われるが、数多くの人と会っても、数多くの澱んだ言葉にまみれるばかりで、それによって世界や時間が切れ切れになってゆくくらいなら、あまり会わない方がいいと思うこともある。

 人そのものだけでなく、表現の場合も同じだ。数ではなく、その出会い方が大事だろう。

 静謐な水面に石を投げ入れた時に生じる波紋のような出会い方。人や言葉や表現との出会いがそういうものであれば、たとえ数少なくとも、それだけでも生きていることが清々しく救われた感じになる。小栗映画との出会いは、そういうものだ。
 「眠る男」のなかの「台詞」は少ないし、「動き」も小さいけれど、一つ一つの「台詞」や「動き」から生じる小さな波紋のような揺らぎが、人と人のあいだや、人と世界とのあいだに満ちていくように感じられる。
 人間が生きていくかぎり、「言葉」に限らず、人為を成すことを避けることはできない。それらの人為を否定することは簡単なことだが、その否定意識もまた「人為」の断片であり、自分の「否定意識」だけを特別に肯定できるものだとみなせやしない。人為を否定する意識という人為行為じたいが、歪みなのだ。
 それと似たような歪みは、「意味を否定する表現」という類のものだ。意味を壊すことを目的(意味)にしているのだから、やはり意味の呪縛は残る。意味を否定するのならば、表現そのものをやめるべきなのだ。自分の目的(意味)だけ例外的に正しいという発想を持っているのは傲慢すぎる。といって、そのことを自覚しながら表現を行うのは、自虐的で、歪んでいる。そのようなキッチュな作品に対して、自虐的で歪んだ社会を表しているなどと評論家が評価したりするが、そういう評論やキッチュな作品じたいが、増殖する社会現象の一部にすぎない。
 小栗監督は、意味を壊すことを目的になんかしない。人間が生きている以上、人為も成すし、意味も求める。その人為や意味を、現代社会で標準化されている価値観に寄り添って伝えるのではなく、映画という表現手法を使って根元のところから見直そうとしている。標準化というのは、その瞬間における便宜上のものにすぎず、普遍的なものではないからだ。
 時計まわりの時間概念もまた、現代社会で好都合なために既成事実になっている「人為」にすぎず、それが本来のものとは限らない。人為に対する否定的な意識や表現もまた、現在社会の一部において垂れ流されている「人為」の断片にすぎないだろう。
 「眠る男」のなかで、とても印象に残るシーンがある。
 屋外で演じられている能を撮ったものだが、映画の二次元の画面で捉えた能舞台は、左側に自然樹の幹が柱となって伸びて、右側に人工の柱が伸びている。その間で息詰まるような、見た目には静止しているけれど気配が激しくうごめく能の時間がある。クローズアップになった左側の自然樹の樹皮は、自然本来の混沌と秩序の様相を、ただそれだけの事物によって歴然と示しているが、その迫力に負けず劣らない人為的な能の様相がある。その”場”には、自然と人為の鬼気迫るほどのバランスがある。その緊張がしばらく続いた後、突然、妖しい風が吹き荒れる。小栗監督に言わせれば、その「風」が吹くまでのシーンは、撮ろうと思えば撮れる。頭の中で、それくらいの自然と人為に関する認識を持つことは、まだ可能だからだ。
 しかし、その後、絶妙に吹き荒れた「風」は、撮ろうとして撮ったのではなく、まさに「天啓」としか言いようのないものだったらしい。
 自然に対抗したり、利用しようとしたり、克服しようとしたり、様々な試行錯誤を行いながら、意識を持つ人間はめくるめくような階段を上っていく。その間に、多くの矛盾を次々と引き起こしながらも、人為が作り出した矛盾は人為によって解決され、そこからまた新たな矛盾が生じる。人間の人為は、それを繰り返していくのだろう。そのようにして試行錯誤を繰り返した果ての人為の全てを凝縮させた一点において、一瞬だけ吹きすさぶ風が、人為というものの究極の意味と無意味や、その問いじたいを無化して、次元を跳躍させる。
 小栗監督が天啓だと言うあの風は、芭蕉ならば、古池に突然飛び込んだ蛙の音だろう。人為は、人為だけの力で「意味と無意味」から跳躍した究極の意味に達することはできないけれど、場を清めて、その準備を整えることだけは可能なのだ。
 「眠る男」は、その題名のとおり、植物人間となって眠り続ける人間のまわりの様々な関係性が織り込まれていく映画だが、生きているのだけど横たわったままで、それが立って生きている人間以上に生き生きと美しいという、今日の世界観や死生観を裏返す構造になっているため、自分を中心にして他者を見たり、こちら側からあちら側を見るという日頃慣れた視点が、まず壊されてしまう。
 また、映画のあちこちに、水平からの視点や、曲線で事物に関わる視点が挟み込まれており、私たちが知らず知らず陥っている垂直や直線の世界観が殺ぎ落とされていく。直線や垂直というのは、とても人為優先の視点なのだと思う。直線や垂直軸の多い都市に住んでいると、それじたいが世界の枠組みだと錯覚してしまうが、都市のなかのほとんど全てが人為的なものであって、それは、世界の事物そのものから多くのものが「言語作用」によって殺ぎ落とされた結果なのだ。
 それとともに、私たちの感じ方も、「言語作用」によって、多くの事物が殺ぎ落とされていたり、抑制されている。その状態で人間として健やかに生き続けることが可能ならば、それを敢えて変える必要もないだろう。しかし、もし何かしらの歪みが生じているとすれば、私たちが殺ぎ落としたり抑制して意識的に無きものとしている感じ方を、取り戻す旅に出ることが大事なのだろう。
 それは、単純に都市から田舎に移ればいいということではなく、ものの見方それじたいが変わることが大事だ。しかし、それは意識的にできることではない。いくら立派な言葉を説かれても、「言葉だけの世界」に、新しい見え方は存在しないだろう。人間は、「論理」のなかに生きるのではなく、「事物」のなかに生きているのだから。
 「論理」のなかではなく、新しい「事物」のなかに入っていかなければ、世界のなかの関係性における新しい見え方が体験としてわからない。
 「眠る男」という壮大な映画は、全てのシーンが、世界と人間との新しい関係性への扉になっているように思う。
 「人間は、大きいんかい? 小さいんかい?」
 そういう台詞を吐く人間は、切ないまでに大きく、切ないまでに小さい。その振幅の大きさが、真の意味での人間の大きさだろう。
 この大きさは、小栗監督の大きさでもあるが、ただそのことが監督の大きさを示すだけで終わるならば、映画自体は、小さいものにすぎない。
 この映画を見る多くの人間が、「人間は、大きいんかい? 小さいんかい?」と切なく真摯に問いかけざるを得ない可能性に満ちているから、「眠る男」という映画は、とてつもなく大きいのだ。
 こうした真摯な問いを忘れてしまっていることが、私たち現代人のやるせないほどの卑小さだ。
 その卑小さを生みだしている原因は、私たちが拠り所にしている言葉によって殺ぎ落とされたり抑制されている「事物の見方」だろう。
 現代社会は、言葉が、あまりにも事物よりも優先されすぎているのだ。
 言葉と事物の従属関係を反転させ、事物そのもののなかで生きること。そうすることによって初めて自分の中から立ち上がってくる懐かしさ。その懐かしさは、世界や人間の様々な営みが、あたかも神話のなかの出来事のように、神々しく、美しく、愛おしく感じられるもので、その感覚は、言葉によって歪められる以前の人間が普遍的に持っていたものではないか。事物とかけ離れた言葉まみれの現代社会のなかで、その本来の感覚を蘇らせるという稀有なる念が、小栗さんの映画なのだ。
 小栗映画の次なる作品は、この世界そのものの奧にさらに深く分け入って、言葉と視覚の全てが美しく溶けあった、意識の天地(あめつち)が分かれるまえの原初の揺籃状態の、究極の懐かしさというべきところへと通じているように私は思う。
 ということをダラダラ言葉で書いたが、これらの言葉は、小栗映画という「事物」の氷山の一角にも達することができていないだろう。

 究極、事物は、体験するしかなく、このような”論”によってできることは、精一杯のところで、”天啓”というべき体験を呼ぶ”清め”なのだろうと思う。