人のためになる「行い」!?

 昨日の午後、両国のシアターxでロシア人演出家のレオニード・アニシモフさん演出の「銀河鉄道の夜」の演劇公演を観て、夜は、ポレポレ東中野で、田中泯さんと坂田明さんによる、舞踊とサックスの即興公演を見た。
 銀河鉄道の夜は、確固たる理念を持つロシア人の演出家が、自らの主観で原作を解釈して筋書きを作り、それに応じて、日本人の役者さんたちが台詞を喋り、演じるというものだ。それに比べて、坂田さんと田中さんは、打ち合わせまったく無しで、その場で、即興で、サックスと舞踊を重ね合わせて行く。
 演劇「銀河鉄道の夜」の方は、主題がはっきりとしている。「他者への奉仕」と「自己犠牲」だ。それができることが幸福であるという演出家の明確な考えが最初にあり、その考えに相応しい題材を選び、さらに、そのテーマを浮き上がらせるために、題材から不必要だと思われるところを削る。削られたところに大事なことが隠されているかもしれないけれど、自分が理解できないものを入れることは自分に不正直であると演出家は判断して、削除する。このロシア人の演出家は、自分の考え(言葉)と、演出(行動)の間が一直線で結ばれており、あまりにも明確で、自分のそういう頑固なスタンスは自分の気質だから変えることができないのだと、これまた正直に無防備に言い切るので、違和感を感じながらも憎めないところがある。ここまで明確で正直なものに触れると、そうした気質を作り出すバックグラウンドの方に関心がいくからだ。その人をそのように作り上げた教育、社会環境、宗教、風土が歴然とあることが伝わってくる。
 このロシア人演出家の、直線的で、自分自身を拠り所にする確固たる信念のようなものは、もともと日本人の苦手とするところだ。
 そうした異質な価値観と触れることで、触発されることはある。しかし、今回の演劇で少し物足りなさを感じたのは、劇を演じる役者さんたちが、この演出家の強烈な自己の芯を、自分のなかで消化しきれていないのではないかという感じを受けたことだった。
 「自己犠牲」という概念は、言葉上は誰でも理解できる。それを言葉のうえで表層的に理解して、知的教養もしくは人間モラルのファッションのように着飾っても、説得力のあるものにならない。
 キリスト教世界の、神に近付くための「自己犠牲」と、稲作共同体の「相互扶助」としての奉仕精神は、根っこのところが全然違うように思う。前者は「他人の目」なんか気にせず、「自己の目」と「神の目」が重視されるが、後者には、常に「他人の目」がある。
 さらに前者は、「良き行い」は、言葉で説明できること。言葉で説明できないと、「神の国」に入れないとでも思っているかのように。それに比べて、後者は、もっと曖昧だ。「誰がどこで見ているかわからない」。つまり、解釈によって、良いようにとられたり、悪いようにとられたり、ということを、どこかで気にしている。
 日本と欧米では、そういう違いがあるのだけど、「銀河鉄道の夜」という原作について、ロシア人演出家の演出と役者さんたちとの間で、どれだけ“闘い”があったのだろうか。演劇の世界では、やはり演出家が天皇なのだろうか。
 今回の劇で一番気になったところは、「台詞」が、役者さんの自分の根の部分から放たれているというよりも、喋らされているという印象を受けたことだ。会場が広すぎたことが原因かもしれないけれど、台詞が、ただの「言葉」だけのものとして聞こえてしかたなかった。
 欧米人が、アフリカやアジアや中南米に対して行ってきた「開発」は、悪意ではなく、むしろ彼らに都合の良い「善意」によって行われてきたことが、問題を複雑なものにしている。
「他人のために行うことは良い事」という問題も、欧米の価値観と、日本の価値観、どちらか一方を基軸にするのではなく、深いところで融合していかなければ今日の行き詰まり状態から一歩も前に進めないような気がするが、「表現」というものは、そうした新たな価値観の水先案内人であるのではないかと思う。
 そういう意味で、ロシア人演出家が日本の原作に表現の題材を求めるということは、何かしら新しい表現の必要を強く感じているからだろうと思う。しかし、その過程で、彼は自分にわからないところを削ぎ落とす。わからないものは、わからないのだから、しかたない。わからないのに、わかったふりをして表現するという欺瞞が彼にはできない。「自分」に正直な人にとって、やむを得ないことだ。でも、欧米人の理解できないところにこそ、現在の日本人すら忘れている大切なことがある可能性もある。そうしたものを、まずは日本人の役者さんたちが、自分ごととして再発見するような気持ちで演出家と格闘していかなければ、演出家がそれまで理解できていなかった地平に辿り着く道も閉ざされてしまう。おそらく、今回の劇を演出する前と、それを終えた後、アニシモフさんは、自分のなかの理念に少しも揺らぎが生じなかっただろう。自分のなかの変化もほとんど生じなかったかもしれない。いくら他人のために「善なる表現」を行ったとしても、それを行うことで自分が何も変わらなければ、あまり幸福なこととは言えないように思う。
 他者を理解した時、自分が変わる道が開かれる。アニシモフさんにとっては、自分が宮澤賢治の原作から削り取った部分がそれに該当する可能性もある。最初わからなかったことが、他者との共同仕事を通じて初めてわかった時、自分の中の何かが変わる。
「他者のために何かしてあげることが幸福だ」と劇の後、田口ランディさんとのトークでアニシモフさんは言っていたが、何かをしてあげるという判断の前に、まずは「他者」のことをよく理解することが大事であり、他者を理解した瞬間、自分の判断も変わる可能性がある。そのように、「他者理解」によって自分が変わる可能性にこそ、幸福の芽があるのではないかと、日本人の私は思う。
 そうした「他者理解」の極地が、坂田明さんと田中泯さんによる、舞踊とサックスの、即興公演だった。
 打ち合わせも筋書きもなく、相手の表現、動き、気配を読み取りながら、次々と流動的に変化しながら、破綻することなく、といって予定調和になることもなく、予測不可能でいながら、絶妙なる間合いで厳然たる秩序も感じさせる、濃密な世界が展開される。
 こうした表現に触れていると、世界の表層的現象が削ぎ落とされていき、根元の部分だけが露になってくる。世界の根元だけをしっかりと確認できれば、移ろいゆく現象とは自在に付き合って行けるような気がしてくるのだ。
 この世界に雑多なものが溢れているが、ここだけはしっかりと押さえておきたいと感じさせる本物。本物は、世界のなかで生きて行くうえでの、“呼吸の仕方”のようなものを身体を通じて伝えてくれる。
 幸福とか、正義とか、倫理とか、道徳とか、「言葉」ではいろいろなことが言えるけれど、言葉そのものに縛られてしまうと、呼吸が乱れる。いくら立派なことを言っても、呼吸が乱れていれば、行うことに歪みが生じる。
 言葉上の立派さよりも、“呼吸の仕方”を伝えてくれるものの方が、表現としては有り難く、自分の力が増すような感じになる。
 有名人をはじめ権威的な力のある人の言葉を聞いて、自分の行っていることを正当化できて勇気づけられるということと、「自分の力が増す」というのは、少し違う。
 自分が行っていることの正当化は、逆の言葉や現象に触れると、簡単に揺らぐものだが、「自分の力が増す」という感覚はそうではなく、肚がすわってくるという感じなのだ。自信ということでもない。どうにでもなれ、と自棄になるのでもなく、種々雑多なマガイ物に紛らわされないという確かな手応え。それが自分の呼吸の仕方がわかるという感じだ。「本物」に触れると、自分のなかにそうした感覚が生じる。
 無数にあるマガイ物の澱を、たった一つの「本物」が吹き払う。
 人のためになる「行い」とは、そういうことではないかと私は思うが、そうした表現を自分一人の固定した意識で生み出すことなんて到底不可能なことであり、異質なものに触れ合ったり、時には衝突し合ったり、葛藤や軋轢を通じて、自分のなかの自分でも気付いていなかった領域が開かれることで、はじめて可能になることではないかと思う。