気色の悪いニュースばかり

 家に帰って、テレビでニュースを見る。 怒りを通り越して、気色の悪い事件が続く。 まずは野村証券インサイダー取引。社内のエリート部門に配属された入社1,2年の中国人社員がM&Aなどの情報を利用し、友人などと一緒にちゃっかり儲けていた。それに対して、人ごとのような顔で、「アジア進出のためにこういうリスクもあるけれど外国人社員を採用せざるを得ないのだ」というような言い分の渡部賢一社長。(新聞などでは“苦渋の表情で謝罪”などと書かれているから、テレビの編集かもしれないが)。 一人の社員のために会社が大きな迷惑を被っているのだとでも言いたいような印象を受けたけれど、大会社で「数字」と「書類」と「駆け引き」にどっぷりと浸っていると、人として微妙な機微がわからなくなってしまうのだろうか。全ての社員の動きを社長が把握することは不可能だが、”マネーが全て”という空気が証券会社のなかにあるのも事実であって、そうした空気が社員一人一人の心性とも関わってくるだろう。 さらに、茨城県国民健康保険団体連合会の男性職員(34)が、保険料約10億円を着服していた事件。上司の印鑑などを使い、一回につき300万円、3日に1度、3年間で999回もの引き落としを行い、競艇などの博打や遊興に使ってしまったのだと言う。 通帳と印鑑が同じ金庫に入れられていたうえ、管理権限のない男性職員が頻繁に開けていたが、周りの者は誰も気づかなかった。というより、「その人間を完全に信用していましたもので・・・・」と、ヘラヘラと作り笑いをしながら、責任者が答えていた。あのヘラヘラとした顔は、みっともないこと極まりない。こういう緊張感のある場に立ったことのない小心な人間なのだろうけど、部下と接する時も、あんな感じなんだろうと思う。 もちろん10億円を着服した職員が悪いのは間違いないが、その職場が、あのようなヘラヘラした顔だらけで、何事においても波風立たないようにとの小ずるい性根で、部下にも厳しく接することのできない雰囲気なんだろうと想像してしまう。 そして、鹿児島県姶良町で、陸上自衛隊第一普通科連隊(東京都練馬区)の一等陸士(19)が、死刑になりたいからという理由でタクシーの運転手を殺害した事件。「自殺をしたい」と、「死刑になりたい」との間に、いったい何があるのだろう。後者は、それによって人が一人殺され、遺族を苦しみのなかに突き落とす。なにゆえに、自殺ではなく、死刑なのか。殺された運転手は首など20カ所以上を切り付けられていたことも判明。 そして、光市母子殺害事件の被告人に対する死刑判決。この裁判で気になったのは、弁護士。被告人を救うことよりも、死刑を阻止するための弁護活動だったのだろうが、死刑阻止が極端に目的化されることで、結果的に被告人の人としての最後の威厳も損なわれ、詭弁を弄するだけになってしまったような印象を受けた。“死刑”というものをどう受け止めるかという、被害者遺族ですら胸引き裂かれるような局面で、弁護士の人たちは、ただ戦いに勝つための方法を頭でせこく考えて口先で論じるばかりで、心で訴えるということがまるでできていないように感じられた。 人生の最後にそうした弁護人の作戦に乗せられるような形で、これまでの証言をくつがえし、自分が犯した強姦を、「精子注入の儀式」と述べるなど人々の印象を悪化させたうえで死刑判決を受けることになった被告人も気の毒だ。弁護士たちは、自分たちが作り上げた作戦に基づいて上告を闘うつもりのようだが、被告人は、そうした卑小で歪んだ弁護に依存せず(そうしたところで死刑が翻る可能性は低いのだから)、自分自身の赤裸々な言葉で向き合った方がよいのではないだろうか。弁護人たちにとって、重要なのは、被告人の固有の生ではなく、“死刑”という一般論だろうから。もはやこの局面では、被告人は、最後の最後まで人に操られるのではなく、自分で自分の生を全うすることが大事ではないかという気がする。 今回の事件は、被害者と遺族にとってあまりにも残酷であることは間違いないが、被告の家族のことに目を向けると、人間はそのバックグラウンドと無関係に作られるわけではないという思いも強くする。 家庭、学校、社会の様々なことが、一人一人の思考特性や行動特性に影響を与えているのは間違いないわけで、“個人”をターゲットにするばかりでは何もならないだろう。 なのに、裁判の後の遺族に対する記者会見で、記者から、あまりにも矮小で、個人的で、無神経きわまる質問が続いた。 「犯人が死刑になって、あなたは癒されたか?」とか、「この裁判の結果を殺された二人に伝える時の言葉を聞かせてくれ」とか。 こういう間抜けな質問をして、もしも言葉だけの答が得られれば、それを誌面に掲載する。さらに、弁護団に取材拒否されたテレビ局が、「国民の知る権利を阻害するものであり、厳重に抗議する」と主張しているが、いかがわしいテレビ局に、国民の知る権利を委ねるつもりはない。 報道ステーションで、「国民健康保険料10億円着服」のシリアスなニュースを真面目に聞いていたら、意図的なのかどうか知らないが、突然、「外資系保険会社」の間抜けなアヒルのコマーシャルに切り替わる。これがテレビ局の実態だ。 その程度のレベルで、国民を代表するような顔をして、いったい何様のつもりなのだろう。もはやテレビを信頼して依存している人間なんてほとんどいないだろうに。そういうことに対しても鈍感なのが、この国のメディア文化の主流なのだ。口先ばかりの言葉がどんどん軽くなって、それらの言葉に従属するばかりの映像もどんどん薄っぺらいものになってしまっている。ということを、テレビキャスターがテレビのなかで反省しているが、反省して何も変えないことの方が、質が悪い。 上っ面をなぞるような言葉と映像、ヘラヘラと及び腰の笑い顔、自分の組織権威にあぐらをかいて、自分そのもののアンテナを失った厚顔無恥な顔や、発言。それを商業主義的に利用できるものは利用しようという発想で報道するメディア。そうした嘘っぽく白々しい現実のなかで空虚に壊れていくものがどんどん増えていくような気色の悪さがつのる。