死刑と論理と情緒

 3月25日、最高裁高裁第二小法廷が、袴田事件の特別抗告を棄却した。袴田死刑囚の無罪を求める再審請求は却下された。その理由を今井功裁判長は、「袴田死刑囚を犯人とした死刑確定判決の認定に合理的な疑いが生じる余地はなく、再審は認められない」と述べた。
 しかし、実際には、この事件が起こった1966年当時の捜査の在り方に対して、いろいろな疑問が出ている。
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 こうしたことに対して、「死刑確定判決の認定に合理的な疑いが生じる余地がない」と裁判長は言っている。
 つまり、「いったんくだされた判決」に対して、合理的な疑いが生じる余地がないから再審できないというのは、「くだされた判決」が確固たる既成事実になってしまっているということだ。
 裁判は、普通、「疑わしいものは罰せず」だから、今、袴田さんが犯人であるかどうか裁判すれば、無実になる可能性があると思う。しかし、「袴田さんの死刑確定判決の認定」が確固たる既成事実と化している状況において、その認定をひっくり返すためには、昨年10月の富山冤罪事件のように、隠れている真犯人が自白するなど、既に下された判決の認定を合理的に疑える“証拠”を用意しなくてはならない状況にある。
 「疑わしきは罰せず」の筈なのに、いったん強引に判決を下してしまったものだから、それがたとえ間違いの可能性があるにしても、今度は、その間違いをおかした可能性のある人(警察や検事や裁判官)を保護するために、間違いであるという合理的な証拠が必要になってしまう。
 もう一度、白紙に戻して、やり直せば、「袴田さんが犯人でないかもしれないという疑わしさ」は数多くあるので無罪になるかもしれないけれど、その前に、「かつての裁判が間違いであるとみなせる合理的な証拠」という難題を乗り越えなければならない。この壁は、とてつもなく高い。このように人間の心情に添わず、細密な歯車のような整合性だけが一人歩きする法というのは、いったい何なんだろうと思ってしまう。

 精密機械のように組み込まれた法によって確定されたものを覆すために闘うことは並大抵なことではない。
 権力の座にいる人間の横暴というよりは、組織論理の構造が、がんじがらめにそうなっている。それが私たちの法治主義国家だ。
 「国家権力」といっても、そこに特定の悪人がいるわけではなく、「組織論理」を絶対的に優先する人たちが集団化して絶対的なものになっているだけだ。
 企業の不祥事にしても、個人的には善良な人が、組織の論理のなかで「個」を棄てて行動した結果であることが大半だろう。
 「個」よりも「組織の論理」を大切にすること。それは、「組織の論理」を当てにしている大勢を守るためである。そのためには、時には、個は犠牲にならなければならない。そうした「論理」は、現代の日本社会にとても強く根を張っている。
 しかも、そうした組織に人々がべったりと依存することで、よりいっそう組織論理が強固になってしまうので、問題は複雑だ。
 依存体質が強くなると、統一的なルールやマニュアルがある方が安心する。しかし、そのルールやマニュアルはいったん決められてしまうと、融通がきかないものになって、個を縛ってしまう。個を縛るのは、「社会体制」ということにかぎらず、自分自身が、ルールやマニュアルの範疇の外でモノゴトを考えることができなくなり、知らず知らず、それに縛られてしまう。

 そうした縛りに耐えられなくなってくると、個の人権を求めて叫ぶこともある。しかし、その主張は、全体のルールが自分の安全を守ってくれて、その上で個人の人権も守ってほしいということであって、窮極において、この二つは矛盾することがわかっていない。国民の管理化というのは、そうすることが国民の安全につながるという論理で行われるのだから。

 こうした集団組織のなかの”個”は、その集団のルールが自分を守ってくれることを期待しながらも、同時に、集団の約束事のなかで個が犠牲になることも、心のどこかで知っている。だから、せめてその災いが自分に降り注がないように、びくつきながら、疑心暗鬼で、表面的に人と合わせながら生きて行くはめになる。

 死刑制度の問題が論じられる時は、集団組織のなかの「個」の安全安心と、人権の間で引き裂かれるのだが、そこに、複雑な情緒もくわわってくる。”極悪人に人権も糞もない”という情緒。それと、”被害者の側の気持ちを考えろ”という情緒だ。

 全体のルールに依存して生きているわけだから、ルール違反をのさばらせることは、自分たちの安定を脅かすことにつながるという心情が生じるだろうし、被害を受けた人間のことを思えば、犯罪者にも同じ苦しみを味合わせるべきだという心情も生じるだろう。
 そうした“情緒”の前に、死刑反対者が「人が人を裁くことはできない」とか「捜査というものも人間がやることだから、冤罪の可能性もある」といった正しい論理を展開しても無力なことが多い。
 “情緒”は、正しい“論理”よりも強いのだ。しかし、気をつけなければならないことは、”情緒”に基づく意見を声高に主張する時というのは、その”情緒の声”に共感や同意するものが多いということを察しているケースがほとんどだ。その場合だけ安心して、自分の情緒を解放する。だから、自分の情緒に基づいた意見を述べる際も、「みんなを代表して・・」という立場をとりたがる。

 集団への依存心理は、情緒を解放する場合も、安心してそれができるかどうかを計算するのだ。それを行うことが自らに不利になりそうな場合は、情緒を抑制し、集団のルールに従う狡さも併せ持っているのだ。

 ”情緒”の解放は、多数に支持されることが予想できる時は簡単であって、だからこそ瞬く間に増幅する。勢いがつくと、論理では立ち向かえないし、逆の方向を求める少数の情緒は蹴散らされる。

 さらに、多数に媚びたメディアが面白おかしくそれを煽る。これはいつものパターンだ。
 論理ではなく情緒に基づいて行動したり意見を述べることは、少数である場合に甚だ難しくて、だからこそ意義もあるのだろう。
 それができてこそ、その意見は本物であり、多数派に乗じるように解放する情緒は、形勢が逆になると、あっという間に逆向きになるので信用できない。
 そしてまた、「論理」というものも盤石のように見えて、実際は、「論理」にとって必要な事実だけを抜き出して組み合わせて作られるから、多数派の情緒によって簡単に書き換えられてしまうものなのだ。
 「論理」も、多数派の「情緒」も信用ならない。信じられるものは、少数派で自分が断然不利になることがわかっているのに、それでもなお、やむにやまれぬ“情感”が迸り、それに基づいて行動しようとする時なんだろうと思う。
 人間が行うことだから、どういうものであれ完全なものはない。しかし、自己保身、自己顕示欲、自己満足とは関係なく生じるものには、かけがえのないものがあるような気がする。
 死刑の是非を問う場合も、都合の良い論理で片付けるのではなく、また、多数派に属して安心できる情緒で決めつけるのではなく、自分の有利不利や満足を得るための目的とは離れたところで、「やむにやまれぬ気持ちとしてどうなのか」、というポイントに引き寄せて考えることが必要なのだろうと思う。
 死刑に限らないけれど、「やむにやまれぬ気持ち」でないのであれば、簡単に意見を述べるべきではないように思う。

 そして、個人として、「やむにやまれぬ気持ち」があるのならば、「みなを代表して」と自己正当化の武装をするのではなく、個人としてそれを表す術を見つけないと、どこまでいっても、集団情緒と集団論理に縛られるはめになるような気がする。