自分の言葉

 ある種の”ナーバスさ”について考えたい。

 たとえば自分が所属するA社などで不祥事が発生した場合、自分が直接その責任をとる役員でなく一社員である場合の心情についてだ。

 その不祥事に対して、A社の経営手法や内部管理体制などに対する様々な批判が生じる。その時、そこに所属する社員は、それを一体どのように思うのか。

 人と組織の結びつきの強弱は、人それぞれの都合で様々なのだが、自分の所属する組織(世界)が批判されることに対して、過剰に反応してしまう人たちがいる。

 「それは一部の例外的人間がやったことだ!」とか、「批判しているポイントがずれている! 事実はかくかくしかじかだ。!」などと。

 組織を批判されると自分の立場もなくなるように感じ、強い反発を感じる人がいるが、組織がさらに大きくなり、国家の場合でもそういうケースがあるだろう。

 「一部の軍人がかってにやった戦争だ、日本人は悪くない!」とか、「歴史的事実の解釈が間違っている。侵略ではなく防衛なのだ!」とか、「日本には他にもっといいところがある。日本の悪いところだけ見て批判するのは正当でない!」などと。

 そして、そういう気持ちが「組織を思う愛」ということになってしまうことがあるが、果たしてそれは「愛」なのだろうか?

  

 人との対話のなかで、「何をなさっていますか?」という話題になった時に、自分が行っていることでなく、自分が所属している会社名とか組織のことだけを言う人もいて、そういう人は、会社や組織を愛していると主張することもあるが、果たしてそれは「愛」なのだろうか。

 「愛」を簡単に定義付けすることはできないが、少なくとも、見返りを期待するものは「愛」ではないような気がする。

上に述べたような組織とか国家への「愛」は、組織や国家に忠誠を尽くして見返りを期待しない、などと強弁する人もいるかもしれないが、それを言うと同時に見返りを得てしまっている。

 なぜなら、生身の自分自身をさらけ出しているのではなく、他の人が作った「概念」を自分の味方にしたり、それに乗じて、自分のアイデンティティを補強しているのだから。

 私の経験で言えば、23年前、大学を退学して世界を放浪していた時、各地でいろいろな出会いがあり、その時に必ず「日本では何をしていますか?」と聞かれた。その都度、「学生です」とか、「ジャーナリストです」とか、「○○企業の社員です」とか「青年協力隊です」と自分の身分を堂々と口にする人が羨ましくてしかたなかった。私は、自分が何ものであるか、なんとも答えようがなかったから。

 そのように自分のアイデンティティを補強するものが何もないというのは、たまらなく不安だった。

 私は、自分を何かにしっかりとくくりつけて安心したいという衝動があった。

 しかしとても矛盾しているのだけど、私が大学を退学してしまったのは、何かに自分をくくりつけて自分を安全保障するスタンスに、たまらなく不自由な息苦しさを感じたからでもあった。くくりつけるものは、味方にもなるが、檻にもなると直観していたのだ。

 味方は欲しいけれど、檻はいらない。誰しもそう思うけれど、そこが難しいところなのだ。

 自分を何かにくくりつけて自分を安全保障する生き方は、くくりつけたものの檻のなかに入ることでもある。それを檻だと思わず、居場所くらいに思うことも可能だが、やばい時に、そこから自由に出ていくことができてこそ居場所であって、もし出ていくことができないのならば、そこはやはり檻なのだ。

 そのようにして檻から出られなくなると、その檻を批判されるといたたまれなくなるか、批判する相手が許せなくなってしまう。自分と檻が一心同体になってしまう。

 そして檻の中に自分と同じ者がたくさんいることを確認すると、加勢を得た気分になって、檻の正当化のために躍起になるかもしれない。特に自分個人が不特定多数の中に紛れ込むことができれば、その傾向は、より過激になる可能性もある。もともと、自分自身ではなく自分の外にアイデンティティの対象を求める傾向があるので、自分一人だと心細いが、味方を得たり、誰かの後に隠れたりすると、俄然、強気になれるのだ。

 国家の戦争というのは、国民一人一人が悪人だから起こるのではなく、また、少数の軍人が強引に主導するから起こるのでもなく、自分と何かをくくりつけて自分を安全保障する発想のなかに、その芽は既に埋め込まれているような気がする。

 たとえ状況が悪くなろうとも、流れに乗らず、「自分は自分」と腹を据えることができるかどうか。腹を据えるためには、自分が所属する組織や「日本国」が批判されるくらいで、いちいちナーバスになっても仕方がない。

 しかし、「自分は自分」と思うことは、簡単なようにみえて、実はとても難しい。

 「みんなこう言っている」とか、「(権威ある)○○がこう言っている」とか、「現実はがこうだから」とか、「客観的に、かくかくしかじかになっている(例えば、北朝鮮の加核武装力はこうなっているなどとデータに基づいて行う解説も同じ)」という言い方をせず、自分の肌感覚に基づいて自分はどのように考え、どのように行動して生きるかと考えていないと、いざという時に、檻に閉じ込められてしまうかもしれない。

 肌感覚を従属させる「数や権威に乗じた大きな声の論理」に負けないために、自分の肌感覚を下支えする「自分の言葉」を、言葉を尽くして用意しておかなければならない。



風の旅人 (Vol.20(2006))

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