「心」は機械的に説明できない

      撮影/石元泰博

   「風の旅人」第21号より



 明日、全国書店で「風の旅人』第21号、”LIFE AND BEYOND”〜永遠の現在〜が発売されます。

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 8月というのは、お盆があり、原爆が投下され太平洋戦争が終わった時でもあり、魂のことに敏感にならざるを得ない時です。

 この号の巻頭は、第二次世界大戦終了時の瓦礫のなかのヨーロッパ世界、沖縄の戦跡、そして「絶対平和論」へ続いておりますが、1945年に時計をリセットしたいという思いで制作されています。

 あの大戦で、近代西欧の思考特性の様々な矛盾が噴出しました。にもかかわらず、その後、日本は、学問的に細部の修正が多少あったのかもしれませんが、生活の大部分においては、その思考特性をただ繰り返し、その断片が私たちの日常の表層に厚く堆積しているように感じられます。

 そして、客観的根拠を主張しながら、数字や論理をふりかざし、長期ではなく目先の視点でモノゴトを推進する動きが、日本国中に氾濫していきます。

 さらに「心をこめて何かを行う」という人間の美質であった「心」さえも、感情のない、頭だけの言説で解析されることが多くなっています。

「心の活動は脳における神経回路の電気的興奮と化学的な蛋白質の変化の累積現象で、死を恐れる心は種としてより有利に生き残るために遺伝子に刷り込まれたプログラムで、見知らぬものに対して恐れや不安を感じることは、自己を守るために必須な自己防衛本能である」などと。

 「心」がそのように機械的に扱われた瞬間、ここに存在している私たち自身の生は、固有のものでなくなり、他に簡単に取り換えできるものになってしまう。

 「風の旅人」の8月号の中間から後半にかけては、モノゴトに心をこめて生きる人間の姿が続きます。どんなに苛酷な環境でも、人間は心をこめて生きる力がある。その力は、神経回路の化学反応とか、遺伝子のプログラムによるものではなく、神経回路や遺伝子そのものを創造した力に通じるものだと思います。

 「心」を神経回路や遺伝子との関係で説明する人は、この世に、神経回路や遺伝子が最初からあったかのように錯覚をしている。すなわち、神経回路や遺伝子を神のように勘違いしている。

 そうではなく、神経回路も遺伝子もまた、私たちが解析できない宇宙の働きの中で創造された。それを、宗教的な「神」という言葉で片づけるつもりは私にはない。

 困難に直面した時に感じる心の疼きとか、手探るように何かをしようとする衝動は、宇宙に細胞を誕生させ、神経回路や遺伝子をつくり出してきた目に見えないエネルギーと同質のものではないかと私は思います。「心」は、神経回路や遺伝子よりも、そのエネルギーに近いところにある。

 「風の旅人」は、いつもそうした思いで制作されています。

 「風の旅人」の8月号で、「1945年に時計をリセットする」というのは、その時点に立ち返り、「心」の捉え方を変えて、新しく始める必要があるからと感じるからです。

 「心」とは、言いかえるならば、「いのち」です。その「いのち」は、モノゴトとモノゴトの関係性に生じるエネルギーであり、この世にはまったく同じ関係性はありませんから、すべての「いのち」は固有のものです。

 「いのち」こそが、そのモノをそのモノたらしめ、一人一人を他に取り換えのきかないものにしている。そして、その「いのち」というエネルギーは、肌感覚と眼差しを通して、伝え、伝えられている。

 

 「視覚」を、客観的で普遍的なもののようにみなす人が多いですが、ものの見え方は常に曖昧に変化します。暗いところにはすぐ慣れるように、視覚はとても柔軟な感覚です。

 「見ることは曖昧で、絶対値を持たない」。だから、「視覚」は、純粋に客観的な行為として完結せず、人の言説の影響や、自分の身体的感覚の影響も受けやすいのだろうと思います。愛するものへの「眼差し」なども、当然ながら身体的感覚と強く結びついているわけですから。

 にもかかわらず、「視覚」を、純粋に客観的な感覚であるかのように扱う風潮がある。報道などでもそうだし、広告のトリックなども、ムードで見る人の視覚を影響下におきながら、見る人が、それを客観的情報だと信じ込むことで成り立っている。

 また、科学的実験などでも、「視覚」の客観的普遍性を信じることで成り立っているのかもしれない。

 しかし、厳密に言うと、「ものごとをどのように見て、どのように認識するか」は、その人の身体的感覚の影響を受けている筈です。

 人は、知らず知らず、「肌感覚」を通して世界の多くを感じ取っています。特に赤ん坊から子供の頃は、その感じ取り方が圧倒的に優位にあるように思います。

 そのような時期に、肌感覚を従属させるような「論理」を強要して肌感覚を麻痺させてしまうと、モノゴトの見方や見え方にも支障がでてしまうかもしれません。

 その逆に、肌感覚を下支えするようなもので対応することを心がけ、肌感覚をより強く意識できれば、肌感覚を深めていけるかもしれません。

 最終的に、その肌感覚こそが、「私である」ことの手応えであるような気がします。

 「曖昧で絶対値を持たない視覚」を、さも客観的普遍性のように押しつけてくる今日の映像文化は、見ることと肌感覚を切り離し、それがゆえに、「私である」ことの手応えも麻痺させてしまう。

 「私が私である」ことを取り戻すためには、「客観性を大義名分にした論理や映像」によって肌感覚を従属させるのではなく、その感覚を下支えする言葉や映像に触れることが大事なのでしょう。

 毎日のように現代社会の様々な問題に対して、各種専門家の「論理」が示され、「論理」の体系ばかりが増殖しますが、論理の体系は現状を変えうる力にはならない。

 「心」というエネルギーのこめられた”眼差し”によってこそ新しい意識が生まれ、何かを変えうる可能性があると私は思います。



風の旅人 (Vol.21(2006))

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