理性と感性の融合

 数日前、このブログで科学に関する対話を行ったアクエリアンさんと、その後、アクエリアンさんのブログで対話を行っていた。

1.科学について対話のために

http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2006/07/post_5080.html

2.無邪気で無難な科学者?

http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2006/07/post_53c5.html

3.合理的考えを擁護して

http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2006/07/post_e34d.html

4.科学は生の問題に答えない

http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2006/08/post_a5f0.html

 そして、一昨日の「科学は生の問題に答えない」のエントリーで、アクエリアンさんが若い頃、大森荘蔵先生のもとで1年間、学ばれていたと知り、とても感慨深いものがあった。私は大森さんの理性的論考から直接影響を受けていないが、科学と生の間の問題を丁寧に解きほぐそうとする大森さんのスタンスは、とても畏れ多く、尊敬している。

 科学的知識や他人の作った概念だけを振りかざしてくる科学の人との対話は不毛であるが、アクエリアンさんは、「科学の立場」を自分の言葉で語ろうとされるので、この対話は、私にとってとても意義深いものがあった。今年の1月にも同様の対話があり、その結果を私は、「風の旅人」18号の「HEAVEN‘S WILL」や19号の「ONE LIFE」に反映させることができた。

 大森荘蔵という人は、「科学」と「生身の生」や「心の問題」に両足を踏ん張って思考し続けた人だと思う。といって、「生」や「心」を、物質の機械的カニズムという科学的根拠の側面から探究したのではない。そうした頭ばかりの捉え方ではしっくりとこない自分の身体的感覚や心の問題は、そもそも科学的な捉え方に落とし穴があるのではないかというスタンスで、科学的な深い見識を備えたうえで、科学の基底を哲学的に探究していた人だと私は解釈している。

 人は誰しも、「会社」や「家庭」や「科学研究」や「音楽」や「絵画」や「宗教」など何でもいいが、どこかに片足だけを乗せることは簡単なことだと思うし、その分野ごとに優劣などはない。それぞれの分野の中で一生懸命であれば、価値は等しいのだ。

 それよりも難しくて大事なことは、もう一方の足をどこに乗せるかだ。両足を同じ場所に乗せる人もいるし、すぐ傍に乗せる人もいる。思い切り足を開いて、踏ん張らなければ立てないところに足を乗せる人もいる。

 同じところに両足を乗せると、その場所から出ることが難しくなる。つまり囚われてしまう。その場所を味方につけながら檻に入ってしまう。檻の中から、その中がいかに素晴らしいかを主張して人を呼び寄せる人も多いので、それに惑わされないように注意しなければならない。

 足の置き場は、具体的な外の場所とは限らない。自分の思考の軸足をどこに置くかということでもいい。人と話をすると、その両足の置き方がどうなっているか、だいたい察することができるだろう。

 場の空気に関係なく、自分の知っていることしか言わない人は、両足を檻の中に入れて、外の世界が見えず、空気が読めなくなっている。

 アクエリアンさんという人は、両足を「文」と「理」の世界に開いている人だ。そのうえで、人間は「理」の方の足に強く力を入れなければならないと感じている人なのだと私は思っている。その「理」は、理系とか科学ということだけでなく、「理性」だ。感覚や感情に流れ溺れることで人間は愚かな行為を繰り返してしまうという懸念。カルト宗教のように超越的感覚を崇め、理性を排除する態度に疑いの目を向け、人間自らの理性的な力によって問題を克服していかなければならないと、アクエリアンさんは考えておられるのではないかと思う。

 さらに科学というのは、そうした人間理性の、もっとも発達したものである。だから、その科学から生じる野蛮は、発展途上の一種のプログラムミスと考えなければならない。そのミスで科学全体を否定されると、理性の牙城が壊れ、感覚や感情を優先させる宗教的な野蛮がはびこり、人間世界は闇に引き込まれる心配がある。ただし、その理性を優先させすぎると、自らの身体的感覚が「理性」に従属させられる。それは、本能的衝動のブレーキになるが、そのブレーキがききすぎると、自らの身体的感覚や心が死んでしまう。おそらく良心的科学者なら、このことについて深刻な軋轢を感じているだろうと思う。

 大森荘蔵さんは、こうした良心的科学者の心に強く訴える仕事をなされていたと思う。

 ただ、良心的でない科学者は、大森さんの著作をどのように読んだだろうか。おそらく、見たくも聞きたくもないものであり、きちんと向き合うことはしなかっただろう。そして、分析と論証によって科学的構造の問題を指摘していく大森さんの世界は、「分析」や「論証」そのものにあまり関心のない人にとって、無縁のものだったと思う。

 私は、アクエリアンさんの問題意識である(とかってながら推測する)理性と感性の軋轢の問題については、やはり、二者択一できるものではないし、双方の戦いでは決着がつかないだろうと感じている。

 この二つを融合した第三の道が必要なのだ。それは何かというと、「空気とか流れを読む」つまり「機微を読む」ことではないかと私は思っている。しかし、これらの能力は、「機微が読める!!」などと人前で宣言した瞬間に、機微が読めていないことを証明するものになってってしまう。

 なぜなら、「機微を読む」という感覚について共通理解のない人にこの言葉を使っても「対話」が成立しないわけで、対話が成立しない言葉を吐くことじたいが、空気を読めていない証拠なのだ。

 「対話」というのは、空気が読めないと成立しない。その場の流れや空気とは無関係に、自分の知識や専門用語だけを並べたり、「正鵠を得る発言だ!」などと自分の側を強い口調で正当化し、大上段から相手を威嚇するように権威的で一方的な発言をして悦に入る人がいるが、それは自己顕示欲ばかり優勢で、空気が読めていないからなのだ。国と国との関係でも、そういう意味で、「対話」が必要な時代だし、人と人との関係においても、それはとても重要なものだ。 

 そして面白いことに、この「機微を読む」という能力は、科学者や学者や報道など、世間一般に知的であるとイメージされている人よりも、自分の身体を通して「現場」で働いて生きている人の方が発達している場合が多いのだ。肉体労働に限らず、たとえば、困難なプロジェクトで利害が対立する時、その狭間で調整をかってでるような人は、身体感覚を通して場の空気が読めるようになる。

 いくら机上の勉強ができても、現場の予測不可能な困難を経験しなければ、機微が読めるようにならない。現場で使えないというタイプだ。緊急時に、そういう人がでしゃばると、大きな失敗につながる。企業などでも、管理者にこういうタイプが多くなると、不祥事も多くなり、衰亡も早まる。

 今、何をしなくてはいけないかを瞬間的に察知して行動に結びつける力は、「理性」か「感情」の二者択一ではなく、それを融合した「機微を読む力」だと私は思っている。

 機微を読む力は、自分が生きていく上で基盤にする片足を置く場所と、その場所の質とはまったく異なる所にもう一方の足を置いて踏ん張らざるを得ない状況にあればあるほど、備わるのではないかと思う。

 たとえば自分がやろうとしていることがあっても、それができない現実がある場合、その間で何とか折り合いをつけて道を探ろうとすればするほど、周りの機微が読めるようになる。いくら何か一つのことに没頭して専門能力を身につけても、外の世界との軋轢を避けるように逃げて生きていたら、機微がわからなくなるだろう。

 そして、この機微を読む力は、一から構築する必要はなく、私たち人間は、その「種」を潜在的に所有している。既に所有している「種」を大事に育て、芽を出させ、茎を伸ばし花を開かせることが、第三の道につながるのではないかと私は思っている。



風の旅人 (Vol.21(2006))

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