人間の感覚を信頼する。

 今日、武術家の甲野善紀さんとの打ち合わせを兼ねて、横浜の朝日カルチャーセンターの甲野さんの実演・講義を見に行く。

 老若男女、スポーツ関係者、介護関係者など、多くの人が参加していた。

 これまで教えられてきた身体の使い方の常識を覆すような実践と、その効力に対して、目から鱗のように驚く人々の顔が面白かった。

 甲野さんが言うには、何も特別なことをしているのではなく、当たり前のことを当たり前のようにやることが大事だということ。つまり、今日の社会で教えられることは、当たり前のことを歪めてしまう方向で教えられてしまう。その結果として、身体や心にトラブルが発生してしまう。

 スポーツトレーニングに限らないが、科学的といわれる対応の問題は、「部分」にしか視点が行かなくなることだと甲野さんは言う。腕の筋肉を鍛えて、腕の力を強くして相手に対応するという発想だ。その結果、腕と腕以外の部分のバランスが悪くなって、どこか他の部分を痛めてしまう。

 もう一つの科学的な対応の問題は、二つの関係性しか捉えることができないことだ。

 A(腕)に対してBの負荷がかかると、そのBに対応しようとしてBとAだけを意識してしまう。そうすると、AとBの力勝負になってしまう。しかし、甲野さんの方法は違う。

まず、Bに対応しようと意識しない。そしてAも意識せずに、Aにつながっている全体を、意識せずに動かす。その意識せずに動かすための方法が面白かった。例えば、相手が自分の腕をしっかりと掴んでいても、すました顔で酒の杯を口に持っていき、何かの拍子にそれを落としそうになって慌てて姿勢を低くして手でそれをキャッチしようとする。そうした一連の流れのなかで生じた力が相手にかかると、相手は軽々と崩されてしまう。

 また、腕を捕まれた女性が、手だけで相手をふりほどこうとしてもダメだけど、相手とは反対方向から車が突っ込んでくることを想定して、「危ない!車だ」という感じで相手の方に全身で動いた瞬間、手を掴んでいた相手の体制はいとも簡単に崩れてしまう。

 甲野さんは、火事場の馬鹿力もそういう類のものだということを言っていた。

 それ以外にも、介護現場で応用できる寝たきりの人の身体の起こし方や持ち上げ方など、とても興味深い。自分の身体に負担のかからない方法で行うと、相手の身体にも負担がかからない。こうしたことを、昔の日本人は、ごく普通にできていたと言う。

 例えば重さ60キロもある米俵を5つも担いでいる小柄な女性の写真が残っているとも言う。科学的には説明できないことがたくさんあるので、それらは例外として扱われてしまうが、決してそうではないのだ。

 昔の人は、身体が求める楽や快を、身体と対話しながら探り、それを普通に身につけていた。

 つまり、自分自身の感覚を信頼していた。

 しかし、現在では、身体と対話する前に、「これがいいですよ」、「この方法にしなさい」と言われたことを頭でっかちに行おうとする。人から言われる情報知識の方を、身体感覚よりも重視している。つまり、自分自身の感覚を信頼していない。信頼せず、対話もしないものだから、益々、身体感覚が鈍感になってしまう。

 ならば、「これがいいですよ」という立派な人が科学的などと言って説明することが、本当に当てになるのかというと、それはそうではない。

 その理由は、そのように説明する人は、自分が説明しやすい事実だけを見て、自分が理解できない事実を関係ないものとして除外してしまうからなのだ。

 「わからないことは、わからないものとする」というスタンスは別に構わないのだが、「わからないものとする」とみなしてそれを除外した状態で、わかっている部分だけを説明しても極めて不完全であり、不完全なものを聞かされるくらいなら、何も情報を与えられず、自分の身体と対話してニュアンスを嗅ぎ取った方がマシなのだ。

 このことは、何もスポーツに限ったことではないだろう。

 企業経営を身をもって体験したことのない経営コンサルタントの言うことは常に不完全で、実際に役立たないということを私は株式上場の前に実感したし、社会で身をもって働いたことのない社会学者の社会分析も同じだろう。

 スポーツ解説者は、実際の行為が目の前に展開するから、そのスポーツをしたことのない人間が分析しても、その浅はかさがあからさまになる。

 しかし、経済とか社会は、目の前にモノゴトがあからさまに進行していかず、後になって全体の流れがわかるものなので、経験のない人間でも、束の間、いろいろ言葉だけを駆使することで、ごまかしがきく。 

 自分の感覚よりも専門家と称する人が説明することを重視することは、自分の感覚を信頼しないことで、それは、自分を信頼しないことにつながる。自分のことを信頼できない生き方なんて息苦しくて仕方ないが、なにゆえに賢明を装う大人は、子ども達にそういう生き方を強要するのか。

 安倍さんの政権公約は、新憲法と教育改革らしい。「美しい日本」をスローガンにしているが、その美しさとは、教育の再生・改革によって「自由と規律を知る凛とした国」を実現することと、技術革新による経済成長と、日本の国益を主張する外交らしい。

 教育改革といっても、学校、教師の評価制度導入や、学校間の競争を促す教育バウチャー制度の導入といったことだ。つまり、総合的に判断すると、国民に一生懸命にお勉強をさせ、技術などを発展させ、経済成長を実現し、その国益を守るために規律によって人々を管理し、外国と闘っていくこと。それが、凛として美しい国というイメージなのだろうか。

 「美しい国、日本」というのは、日本人に幻想を抱かせ、惹きつけるイメージだ。

 でも、日本人が大事にしてきた美しさというのは、スローガンになるものではなく、もっと奥ゆかしく、さりげないものだ。そして、頭でっかちな理屈ではなく、敏感な身体感覚で捉える微妙な機微のなかに美を見いだすのが、日本人だろう。

 品というのは、「国家」が備えるものではなく、一人一人の中に備えられるもので、決して外に主張されるものでないし、主張した瞬間、品のなさを暴露するものになる。自分の品位を省みることなく、国家の品格(品格というより、本当のところ、馬鹿にされてたまるか、という頑迷なプライド)にもたれかかることは辞めてもらいたい。

 もし、教育改正が行われるのなら、頭で理解できることよりも身体感覚を通して得られる世界の方が圧倒的に広大であるという事実を包み隠すことないものになればいいと思うのだが、そうなってしまうと、頭でっかちの知識人が威張る理由がなくなってしまうし、職そのものを失う人が増えるので、抵抗が強いかもしれない。しかも、その抵抗は明白なものではなく、弱者擁護などの主張も織り交ぜたり、権威の傘の下にいるのに自らに害が及ばない程度に権威を批判するなど、ヒューマニズムっぽい演出もあって、巧妙でずる賢くなっているので、よけいに厄介だ。



風の旅人 (Vol.21(2006))

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