大企業の採用に関する議論について

 大企業の採用方法や雇用形態に関する様々な意見を目にする。

 派遣とか契約とか請負とか様々な方法を駆使して、大企業は正社員比率を下げ、人件費を少なくして、国際的な競争に勝ち残ろうと躍起になっている。

 また、王子製紙をはじめ、大企業による企業買収など企業世界の弱肉強食状態に関する問題提起も、いろいろあるようだ。

 さらに、新聞や雑誌で、正社員と契約社員生涯賃金格差などが大きく取り上げられる。

 それについて社会学者?とか様々な専門家が、いろいろ論じ合っている。

 大手製造メーカーが、正社員採用を東大をはじめ一部の高偏差値大学に限定したとしても、この世の仕事の全てがサラリーマンの研究職に限定されているわけではないのだから、一部の企業の人事政策をとりあげて全体の傾向とする考えに私は違和感がある。

 仮に他の幾つかの企業がそれに追随しているとしても、この社会には、大企業にこだわらなければ企業の数は無数にある。仕事の内容だって技術職はほんの一部であり、企業に就職したとしても、理系、文系に関係なく、大半の人はサービス部門で働くことになる。

 そして、今日のような複雑な社会のなかで、同じような思考特性と行動特性の人間ばかり集めたとして、その企業が長く繁栄できるとは思えない。

 企業の人事部が実際にそう考えているのかどうかわからないが、仮に、高偏差値大学の学生だけが優秀だとしても(私はまったくそうは思わないが)、その数は限られているわけで、企業の間で人材獲得競争をしなければならず、それに負けるところは、必然的に譲歩していかざるを得ない。

 譲歩というのは、妥協ということではない。知名度や資産状況などから判断して、限られたパイのなかでの人材獲得競争に勝ち目がないと判断する企業は、早めに、その企業ならではの採用と育成の方法を確立していくものなのだ。

 そして、学歴など表層的な部分を重視する大会社に運良く入社する人も、その企業にはそういう肩書き重視の体質が根深くあるわけだから、出世をはじめ様々な局面でそういう企業スタンスに直面することになる。会社で働くということが、本質的なことより、表面的な駆け引き重視になる可能性もある。そうした環境で生涯賃金が高かったとしても、幸福になれるとは思えない。また本質より表層重視となれば、20代、30代の時は運良く順調であっても、家庭を持って子供ができて、人生のなかで一番舵取りが難しくなる時に、企業の中の主導権争いみたいなものに巻き込まれ、立場が苦しくなってしまう可能性もある。実際にそうならないとしても、常にそういう可能性に怯えながら働いていくというのも、精神的に不健康なことだろう。

 大企業の人事政策などを口先で批判しても、その企業で働きたいという人間が大勢いるかぎりは、その企業は政策を根本的に変えることはない。批判すればするほど、その企業に採用された人間は、選ばれた人間として優越感を感じるかもしれない。

 そんなことよりも、そういう企業で働くことのつまらなさを伝えていった方がいいのではないか。

 ”大企業さま”に人事政策で様々に配慮していただき、強者も弱者も同様に幸福を分配していただきたいというというスタンスは、けっきょく大企業をはじめとする既存の権威崇拝の体質から抜け出ていない証拠ではないだろうか。

 いずれにしろ、こういう問題について、実際に企業現場で働いたことがない人が、あれこれ言葉の上で論じ合うから、話しは空論になっていくのだろう。

 人から聞いた話をもとに議論するのは学者の自由だろうが、本当にモノゴトの本質を知りたいという情熱があれば、人から聞いた話ではなく、実際に自分でもその経験が必要だと感じるのが普通であり、もしそう思わないとすれば、そこまでの情熱は無いというのが、正直なところではないか。

 情熱を向けるべき対象は人それぞれだが、そこまで情熱が無いのに、それについてあれこれ論じる人が多いということが、今日の言論をややこしいものにしていると私は思う。

 私は大手企業の人事戦略のことは、その中の人間の立場としては知らない。

 しかし、逆の立場からは、いろいろ知ることが出来た。

 自分が大学を中退し、25歳くらいまでフリーターのようなことをしていて、そういう状況から脱しようと真剣に考えた時、新聞の採用広告などを見ても、ほとんどの企業が大卒以上が条件だった。だから、新聞ではなく週刊就職情報誌を見て、学歴問わないというところを探して、中小企業に就職したことがあった。しかし、その企業のクライアントは大企業が多かったため、大企業の内部事情をいろいろ知り、大企業の不自由さのなかに拘束されて何十年も働いていくことは、自分には耐えられないだろうと思った。

 その後、いろいろあって、今の会社の経営に関わるようになってからは、人事において、学歴は不問にしてきた。私の会社は、大手企業のように採用で優位に立てるわけではないから、独自の採用方法と育成方法が必要なこともあるが、高偏差値=仕事ができる、という図式になっていないことは、経験を通して、知りすぎるほど知り尽くしている。

 製造業の技術分野のことは知らないが、現在の企業活動の大半は、間接的であれ直接的であれ、サービス業と言える。物よりも人と関わることの方が多いのだ。出版だって旅行だって、人間を相手にした仕事であり、人と人との関係作りや、人の心、機微といったことが、とても大事になる。目配り、気配り、心配りができる人が、結果的に様々な経験を知恵にしていくことができる。

 いくら学校のお勉強ができたとしても、そういうデリケートなところがわからない人は、はっきり言って、まったく使い物にならない。さらに、普段、周りに持ち上げられて自分が優秀だなどと思っているバカモノだと、自分の至らなさを修正しようと努力もできないから、ますます負の循環に陥ってしまう。

 優れた力を発揮する可能性のある社員というのは、偏差値の高い大学を卒業した人ではなく、古い言い方だけど、「人生において苦労してきた人」だ。もちろん例外もあるだろうけど、こちらの方が、高偏差値だけを基準にするよりも、確率が高い。

 もう少し付け加えるなら、「苦労しているけど、拗ねてしまった人」は、ダメだ。エネルギーのある人は、苦労しても、拗ねていない。私は、旅行であれ、出版であれ、拗ねた人とは一緒に働きたいと思わないから、ぜったいに採用しない。拗ねる理由などつくりだそうと思えば、いくらでもつくり出せる。

 拗ねて陰口をたたくというのは、自分が怨みつらみを持つ社会(会社)に執着とか未練があるからで、本気で社会(会社)をバカにするのなら、そんな社会(会社)を完全に見限って、田舎で土地を耕したり、漁師になったり、自分でいろいろ工夫して生きていった方がいいのだ。

 問題のある大企業に従属させる生き方だけが、人間社会ではないし、そんなものが人間本来の生き方ではない。「現実はそうだから、それに合わせたり対応して生きていかなければならない」という考えじたいが、社会学者も含めて、今日的パラダイムにどっぷりと染め上げられているゆえのことではないかと思う。

 「契約社員」か「派遣社員」かをはじめ、対立軸を作って、その間に拘泥して足を取られてしまう生き方ではなく、その対立そのものを無化してしまう生き方もある。

 「誰しも、そんなに強くなれない、だから弱者を庇護する体制が必要だ」などと、文化人や識者などは言うわけだが、本気でそう考えるなら、言葉のうえだけでなく、自分が見本となる会社を作るために心血を注いで努力すればいいだろうと思う。

 そして、実際にやってみれば、企業という実態も生物だということがわかり、生物ならではの複雑な関係性の産物であることもわかる。

 その関係性は、幹部だけでなく、そこで働く一般社員、その家族、取引企業、消費者、ライバル会社やマーケット特性など、様々な微妙な要素のバランスのなかで成り立っている。その生物の存在のしかたは、その生存環境が変わらなければ、根本的に変わらない。

 様々な要因が重なって、成長と発展と衰退と淘汰があり、そのメカニズムは、とても複雑だ。

 しかし、その複雑なメカニズムも、たかが人間の産業の一種であり、そのメカニズムがおかしいと思うならば、そこに拘泥するのではなく、新たな産業作りに注力した方がいいのではないかと私は思う。

 おかしな人事政策の会社の製造物がこの世から消えてなくなっても、おそらく人間は、束の間、多少の不便があるかもしれないが、その後、問題なく生きていける。

 どんな大企業の商品も、その程度のものだ。大企業で働いている人もそうでない人も、他に簡単に取って代わられるものに自分の人生の全てを委ねたり、その価値観に支配されるのではなく、いつでもその呪縛から逃れられるように自分を整えていくことが、本当の意味で、よりよく生きるということにつながるのではないだろうか。



風の旅人 (Vol.21(2006))

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