下流志向なのではなく

 「下流志向」著者:内田樹講談社発行は、共感できるところもあるが、根本的に違うのではないかと思うところも多くあった。

 とりわけ重要だと思うのは、「労働からの逃走」の項で、「労働から逃走する若者たちは、自分の苦役に対して等価な報酬が同時的に与えられないから、働くことを拒んでいる。」ということを説明している部分だ。

 内田さんは、「労働に対して賃金が安いのは昔から原理的に当たり前のことで、そうでなければ会社は利益をあげられないし、設備投資もできない。すべての労働者から収奪した労働価値のよって研究開発や設備投資や株主への配当がなされている。会社というものはそういうものであり、それを前提に働くものなのだ。」と書いていて、そのロジックはぼんやり聞いていると説得されてしまうが、大事なことが抜け落ちている。

 内田さんは、人間を「時間的な存在」であると書いているが、企業もまた「時間的な存在」なのだ。たとえていうならば、止まっているトロッコを押して動かすためには大きなエネルギーが必要だが、いったん走り出してしまえば、動かすためのエネルギーはそんなにはいらない。

 企業も同じで、創業期の人たちの必死の努力で勢いよく走り出したトロッコに乗り込んでくる人たちは、自分の労力の方が報酬より上まわっているとは限らない。他社と長年取引のあった人を自社の顧客にするのと、先人が獲得した顧客を引き継ぐ場合では、エネルギーとか知恵の部分で大きな違いがある。また、同じ能力を持つ人が、同じ労力をかけていても、名の通った大会社の社員の場合と、無名の中小企業では、営業成績がかなり違ってくる。

 自分の力ではなく会社の看板で仕事ができるということはよくあることだし、一人の天才によってもたらされた特許によって、他の社員が支えられることもある。また、先人が、他社から利益を収奪するシステムをつくりあげた会社に入社すれば、大した労力をかけずに、確実に利益も給与も獲得できる。マイクロソフトなどが行ったディファクトスタンダード戦略は、その典型だろう。一方で、そうした企業が生まれるということは、その逆にいくら一生懸命に働いても収益も給与もあがらないという会社が生まれるということだ。

 だから、「労働に対して賃金が安い」のは全ての会社にあてはまることではない。その原理が当てはまるのは、会社の看板も、先人が築き上げた信頼関係も、技術特許も何もない会社で働く場合であり、とりわけ他社によって功名に収益を収奪される仕組みのなかにおかれている企業なのだ。

 テレビ会社の下請けプロダクションなどは典型的なケースだろう。

 大企業の仕組みに組み込まれてしまうと、大企業の思惑一つでコントロールされてしまい、ライセンス料を引き上げられたり、納入価格を引き下げることを求められたりして、立派な仕事をしていても利益が少なく、給与が安くなってしまう。そうした会社にいると、クライアントである大企業のサラリーマンの方が自分より仕事ができないのに給与が高いという現実を常に直視させられ、「やってられない」という気持ちになってしまうということがあるだろう。

 だから、内田さんが書くように、労働逃避者は、「子供の頃から等価交換意識が高すぎて、労働から逃避する」だけではないのだと私は思う。

 現在日本の企業環境は、外注という名のもと、大企業本体は下請け会社の管理だけを行い、下請け会社の社員が残業も多く休日返上で働かされるという構造ができている。テレビでも雑誌でもそうだし、製造メーカでもそうだ。大企業は、「知名度」と、大規模仕入れによるコストダウン圧力と、既に構築している大規模な流通網によって商売をする。下請け会社が制作したものをそのまま世間で売っても売れないから大企業の知名度と流通網で売ってあげましょうという論理だ。コンビニなどに代表されるライセンスビジネスも構造は同じだろう。大企業が「宣伝などをしたり、大量仕入れによって納入業者への圧力を高めて現場の販売をサポートしてあげるから、一生懸命働きなさい。そして、稼いだ利益はこちらにまわしなさい」という論理だ。

 「知名度」と「大規模な販売・仕入網」。この二つを握っている大企業は、下請けに対して強気だ。そして、大した仕事をしていない社員でも、それなりの給与を獲得する。

 そして、この二つがないことに負い目を感じて、それを持っている大企業に寄生する生き方を選択してしまうと、大企業のコントロール下に置かれ、コントロール下にあるかぎり、永遠に賃金が安い状態で生きるはめになる。

 「知名度」と「大規模な販売・仕入れ網」がなくても、他の方法でビジネスを行って成果を出せれば、もしかしたら社員数が増大しすぎて利益配分が少なくなっている大企業の社員よりも賃金が高くなる可能性がある。ただし、何の後ろ盾もないわけだから、リスクも大きい。

 現在の労働環境の問題は、「知名度」と「大規模仕入れ・販売網」を持っている企業が、その二つを頼る弱小企業を配下においてコントロールしながら、ますます「知名度」と「大規模仕入れ・販売網」を強化して権限を強め、弱小企業が、ますますその呪縛から逃れなくなっていくことのように思う。

 そして、この流れを強めたのが、グローバルスタンダードという名の「標準・規格化」だ。標準・規格のためのルール作りは、既に広く通用しているものに添って行われるから、既得権組に有利になるに決まっている。

 さらに、長年のメディアなどの擦り込みによって、「有名」/「大規模」=「素晴らしい」/「信頼」というふうに、一人一人が信じこまされている。商品を買う場合だってそうだし、就職だってそうだ。ここにきて、有名/大規模の優位性がますます強まっているので、その流れも強まり、ますますその構造が強化される。「有名/大規模」の側に入れないと、そのハンデは一生取り戻せないという強迫観念で、子供が駆り立てられる。

 現代は、「有名/大規模」を神と仰ぐ時代のようだ。企業合併とかを見ても、大きいところが、さらに大きくなって競走優位性を保とうとする。街には大規模スーパーマーケットができて、商店街の個性的な店が消える。

 しかし、有名で大規模を優位とする社会が生み出すものは、人間一人一人に対応するものではなく、最大公約数で割り出したものを、全ての人間に当てはめようとする圧力だ。明るい色調の物を好む人が多いと、例外なく全てを明るいものにしようとする圧力が働く。そしてモノゴトの捉え方が、大雑把になり、味気なくなる。

 近い将来、人間はきっとその味気なさに耐えきれなくなるだろうと私は思う。人間の理性による自浄作業は期待できないけれど、味気なさが極限までいった時、その反動として、過激な刺激を求めるか、「有名/大規模」に価値を置くことのバカらしさに気づいて、ベクトルを変える可能性も残されていると思う。

 労働からの逃走とか、学びからの逃走には、前の世代が築き上げた今日的価値観の延長にある人生の味気なさを、前の世代の人間の有様を直接見ることで知ってしまった世代の、意義申し立ても含まれていると思う。

 現状では、それに変わる価値観がないがゆえに、意義申し立てをする者が苦しい状況に追いやられる。

 仮に新しい価値観が生まれても、メディアなどが持ち上げることでまたたく間に「大規模/有名」の一員に組み込まれてしまい、既得権組の構造を太らせるだけになってしまうのだ。

 そういう枠組みの外で完全に生きるのは、とても難しい。ただはっきりしていることは、だからといってその枠組みに従順になりすぎて、その枠組み無しに生きることができない状態に自分を置いてしまうと、完全に他者に牛耳られて身動きとれなくなるということだ。へたに有名大企業に就職してしまうと、矛盾を感じてもそれを棄てて生きることができなくなり、チャンスを逃すこともある。

 いざという時のために、僅かであっても、大規模/有名、標準/規格 に代表される既得権組の構造から自由な領域を自分のなかに用意しておくことが必要なのではないかと思う。

 

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