働き方が変わる時

 シンゴさん、コメント有り難うございます。シンゴさんのコメントのなかには、いろいろなヒントが鏤めれれていると思います。私にとっても、旅は旅でしかなく、その後の「試み」こそが大事ですが、それでも世界に相対する対し方のようなものを、旅から得たことは間違いないでしょう。

 一番大きなポイントは、人から与えられた「モノの見方」を鵜呑みにしなくなったことだと思います。自分というフィルターを通して、ものごとと向き合っていくこと。そうなった時、自然と自分にとって快い空間というのが決まってきます。 

 今日の多くの人は、たとえば就職などにおいても、自分にとっての快さとは無関係に、大きな組織を志向するところがあります。世間体とか安定を快さとみなす人も多いでしょうが、短期的にはよくても、長期的にはどうなのでしょうか。

 というのは、大きな組織に所属することで、世間体とか安定と引き替えに失うものが多いように思うからです。

 大きい組織においては、モノゴトの決定は全体に配慮する形でなされる。その全体というのが、姿形が見え、互いに対話がなされ、「暮らしを共に営む仲間」ならばいいのですが、そうではなく、結びつきがリアルに実感できない抽象的な概念であることが多いと思います。リアルなつながりであれば、その都度、状況に応じて意志決定が流動的であってもかまわないのですが、そうでない場合は、どうしてもルールに従った決定となる。それによって、自らの意志は殺されていく。それゆえ、個人と会って話す時は、とても柔軟な考えを持っているように思われる人が、組織のなかでは、とても硬直した対応になるということはよくあります。その硬直さによって組織への忠誠を示し、自らの保身がはかられる。そうした息苦しさが、大きな組織に属していると、生涯にわたって付きまといます。

 そして、今日においては、大きければ安定しているという神話は崩壊しつつあり、世間体についても、どこの組織に所属しているかではなく、どういう生き方や働き方をしているかが少しずつ問われるようになっているように思います。こうした傾向が進むと、仕事の選択のされ方が、少しずつ変わってくるのではないでしょうか。そして、仕事の選択のされ方が変わることで、現在の日本の歪んだ教育も修正される可能性があります。

 進学競争→有名大学→有名企業 という構図には、シンゴさんの語る地域的や暮らしや仲間といった自分の身体感覚で捉えられる距離を大切にするという発想はありません。データとか専門家の分析による世界認識に追随し、人間関係をはじめ様々なことを功利的に計算し、グローバルスタンダードという画一的な価値基準に自分を当てはめることが優先される。昨今の教育もまた、こうした思考特性を鍛える方向になされているのです。

 進学競争→有名大学→有名企業というシナリオに盲目的に従っていれば、エスカレータ式に幸福になれるわけではない。そういうエスカレーターに乗っている人の多くは、その真実に気付いていても、見栄があるので、決して認めようとしないかもしれない。それを認めないために、自分より不幸に見える人を探しだしてきて、相対的に自分の幸福度をはかろうとするかもしれない。

 相変わらず、人の幸福度をはかるバロメータとして、生涯賃金のようなものが提出されます。そうした煽り方によって、多くの人を安定労働者へと駆り立てる政策は、安定労働者層を中心としたヒエラルキーを維持することで恩恵を受ける人たちによって成される。もちろん、そのなかには年金政策が含まれる。長年、安定労働者層として我慢して働いてきた人たちは、その見返りとして、きっちりと年金をもらわなければ損だと思い、その年金資金の充実のために、安定労働者層の増大をはからなければならないと考えるでしょう。

 現在は、価値観が錯綜としている時代でありますが、それは、消費活動においてです。働き方ということにおいては、職種の種類は数多くあれど、「消費のための金銭を得る苦役」という意味において、あまり違いがありません。

 今日のニートとかフリーターの問題は、彼らをいかに安定労働者に帰属させるか、という発想でなされることが多いように思います。その発想は、これまでの大組織と安定労働者を中心としたヒエラルキーを維持させるためのものです。安定労働者になって、年金をきっちりと支払い、消費活動にも貢献することが期待されるのでしょう。

 しかし、そうではなく シンゴさんが語るように、「仕事は金銭を得る手段の枠から、具体的に社会に向かってまみれていく広がりや、金銭では計り知れないものとのかかわりの豊穣さを感じる世界」ということが、リアルに感じられるような働き方を見出し、実現していくこと。そして、そのリンクを広げていくこと。現在、もっとも切実に求められる価値観の転換とは、そういうものではないかと思います。

 ただし、こうした新しい生き方の最初の実践者は、多くの困難が予想されます。それなりのタフネスさがなければ、困難に打ち勝つことができず、安定労働者がその失敗例を大袈裟に取り上げて、「それみたことか」と、見下される結果になってしまうこともあるでしょう。

 しかし、人の結果を見て、自分を安心させるという思考特性に陥っていることじたいが、不幸だと思います。

 自分は、自分の生を生きて、その生のなかで人とつながり、世界と呼応していると言える状態をつくることができさえすれば、それこそ不必要な出費もなくなり、どんな形でも生きていける。私が、旅に出て学んだことは、そういうことだったような気がします。