21世紀の働き方への思い(続)

 前回のエントリーで、大会社に媚びない中小企業のあり方について書いた。
 そのことについて、「そういう優れた中小企業の採用なんて、めったにない。確率が低い」とか、「その中小企業の社長が、若い社員に充分な給与を与えるとか、将来の保証をしてくれないのであれば、意味がない。搾取にすぎない」といった意見のやりとりが、他のサイトで交わされた。
 私の書き方が悪かったのか、その「中小企業の採用条件」が趣旨にすりかわってしまったのだが、それほど、「採用時に良い条件で採用されること。そして、その後を保証してくれること」に対する関心が高いということなのだろうか。そういう言い方をすれば、「当たり前だろう、生活していくために、お金が必要なんだから」ということになる。
 しかし、技術も経験も無い状態で、「仕事でお金を生み出す段階」に至っておらず、「仕事や技術を教えてもらう段階」で、高い給与を要求することじたいがナンセンスだ。お金をたくさん稼ぎたければ、技術を身につけて、周りの信頼を獲得して、独り立ちしてからのことだろうと私なら思う。
 学校の先生は、授業料をもらって教える。しかし、中小企業は、給与を支払って、かつ仕事も教えなければならない。立場が全然違う。にもかかわらず、企業の現在の状態に対して「搾取」と言う大学教授がいるが、搾取しているのは、生徒から高い授業料を取るだけの先生だという言い方もできる。しかし、そういうことは誰も言わない。
 大企業は当然のこと、中小企業も搾取だというなら、学校の先生も搾取。お役所は当然ながら搾取、物を売ることもサービスを提供することも、お金を取って利益を得るという意味で、突き詰めて言えば「搾取」であり、どこに行っても搾取されるなら、もはや搾取が悪いなどと声をあげてもどうにもならない。搾取という現実を認めたうえで、自分はどう生きるか戦術を練るしかない。
 自分の現在の状態を省みることなく、「良い条件」だけを求め、たまたま良い条件を得た人を羨み、自分にそれがこないことを恨む。そういう心につけ込んで、「良い条件」を餌にして、近寄ってくる人を酷い目に合わせるという現実も、この社会には溢れかえっている。
 地下鉄の車内でも、最近、「転職のための登録サイト」の広告が目に付き、「残業無し、年収700万円!!」等の好条件や、「あなたの適性にぴったりの仕事をプロが見つけます!」とか、今どきこの種のキャッチコピーに釣られる人間がいるのかと疑問だけど、それが堂々と掲示されているのは、安直で薄っぺらい言葉に騙される人が多いということなのだろうか。
 私は、大企業で働いたことはないが、大企業の人たちと仕事をすることはこれまでも数多くあり、その組織的膠着状態と、重箱の隅をつつくような作業の繰り返しと、責任の所在の曖昧さに、いつも辟易としている。これは、そこで働く人の人柄に問題があるのではなく、一種の組織病だ。個人の人格として無責任ということでもなければ、重箱の隅が好きなわけではない。組織が大きいうえに複雑で、自分の直接の関与がどこまでなのか、どこまで実態を把握しているのか、どこまで責任を持てるのか、どこまで自分の言葉で言いきってしまっていいのか、当人にはわからなくなるのだ。
 先日のイージス艦の事故にしても、内部的な詳しいことはわからないが、ただ単に緊張感が無いとか、指揮系統ができていないとかではなく、そこに所属する無数の人間が個人の状況判断で対処することが不可能な歯車の一つになってしまっていることが、一番の原因ではないかと思う。
 生身の人間の身体的本能として、その瞬間、「右に舵を切らなければならない」と感じても、その直感に従って行動できない。自分の判断と無数の他の人間の判断が同じなのか、自分の判断を優先していいのか、自分の判断が許されるのはいったいどこまでなのか、まったく見当がつかない。咄嗟の判断と行動を結びつける力は、修羅場をくぐり抜けるなどの実践無くして身に付かないものだけど、あってはならない事故に遭遇するのは、人生のなかでめったに無いことだから、そうした勘も身に付かない。自分の直観を信じられず、知識として様々なことを詰め込もうとするが、知識というものは、自らの知識が完全でないことを常に当人に意識させるものであるから、いざという時に、その不完全さが頭をもたげ、「恐怖」となり、行動にブレーキをかける。そのように、不完全な知識は、最終的に、決断すべきところの判断を誤らせるものだと思う。
 大多数の人が「大組織の好条件」に惹かれて、大組織に入ることを熱望し、そのことを羨ましがらせる風潮のなかで、それを利用した詐欺も横行するが、何よりも、この国全体が、自分で自分のことに対する判断すらできない状況に陥っていくような不安がある。歯車の一つになって判断を放棄し、リーダーにそれを委ねようとするものの、イージス艦の事故を例にするまでもなく、大きな組織のリーダーは、「知識獲得競争」の勝者であり、いざという時に的確な判断ができないタイプの人が多いのではないか。
 バブル崩壊後の日本企業において、真っ先に立ち直ったのは、組織内の優等生ではない、癖のある人物をトップに大抜擢した企業が多かった。企業の場合、自らの死活問題が目に前に横たわっているから、いざという時にそういうカードも切れるが、お役所の場合は、そのカードを切る場合すらも大勢の優等生による談合になるから、とても無理だろう。
 大企業にしても、いったん窮地を脱してしまえば、また以前と同じような組織的膠着状態がはじまる。一度でも危機を知ったことで、その「知識」は、今まで以上に、慎重に狡猾に立ち回ることを命じる。
 そういう息苦しいまでの官僚的窒息状態を変えるために、遠巻きに「社会が悪い」と吠えているだけでは、変わるどころか、ますます官僚組織の警戒網は強まるだけだろうという気がする。頭のいい小心者が作る警戒網は、狡猾であり、簡単にはそれとはわからぬ方法で行われるのだ。
 「底辺で生きる人の悲惨さ」をドキュメントで伝える番組なども、つくっている人は良心と誠実さでつくっているかもしれないが、現在、テレビのメインターゲットである40代の主婦(と、テレビ報道番組の制作会社の人が言っていた)は、どう思いながら見るだろうか。
 自分の子供にそういう苦労をさせないために自分の生活を切りつめてでも進学塾に通わせようとしたり、自分の夫が大企業のサラリーマンだったりすると、自分の境遇に安心して、子供にもそうした人生を強要したりしないだろうか。
 そのようにして、底辺の人に対する束の間の同情を演出しながら、大組織がさらに進学競争の勝利者を吸収し、自らの社会的ステイタスも高め、自らが優位の社会を盤石なものにしていくということも考えられる。
 私は、こうした社会の膠着状態から脱するためには、大組織に人材が吸収されていく現在の価値観が壊れることが第一だと思っている。
 ちょっとオーバーだが、「大組織で働くなんて、馬鹿じゃないの。すげえ、かっこ悪いねえ」と言われたり、大組織の名刺を差し出して、それだけで優越感溢れる顔をしている人が、つまらない奴だと笑われるとか・・・。非現実的かもしれないけれど、そう思う。
 こうしたことは、みんな頭のなかでは少しは思っているのだけど、実際の場面では、なかなかそうはいかない。
 イベントなどを取材している時、「NHK」が来たりすると、NHKの担当者の頭の中身や人間的魅力は関係なく、NHKというだけで、「すっげえ」という雰囲気になって、あちらが優先され、こちらに対しては、「どなたさん?」という感じになってしまう。
 「風の旅人」などというわけのわからない名前よりも、「NHK」とか「講談社」とか「集英社」とか「朝日新聞」とか「日本テレビ」と言っている方が、物事を進めやすいという現実は歴然とあるのだ。
 ここまで書くと、ひがんでいるように思われるかもしれないが、正直言って、ひがみはないけれど、バカ野郎という気持ちは強い。私は、大手広告代理店の下働きをしたり、大手企業をスポンサーに奴隷のようにこき使われたことがあり、そうした時、仕事はできないのに「名刺」だけで偉そうな顔をしている人たちが腹立たしくてしかたなかった。だから今でも、「名刺」を看板にする人には、まったく魅力を感じない。「風の旅人」の誌面でも肩書きや経歴は入れない。
 「大企業が搾取している」とか「強者が弱者を搾取している」という言い方は、その状況を告発しているように見えて、価値観としては、大企業とか強者の方が優れているということが前提になっており、「優れた方が、そうでない側に配慮して分け前を与えなさい」と言っているように私には聞こえる。
 下請け会社からの仕入れにしても、それまで50円で買いとっていたところを、まあしょうがないから60円にしましょうと言われて、その大組織の一担当者にすぎない輩に、「ありがとうございました」と深く感謝して頭を下げなければならない。その一担当者は、自分の力でもないのに、優越感に浸り、感謝されるという構造だ。
 そうした現実があるのはわかるけれど、そうでない奇跡的な現実もあり、それが、前回のエントリーで書いた部品会社の社長だった。「接待なんかしたことない」、「値段は自分たちの側が決める」ということを聞いて、とても清々しいものを感じた。
 こうした事例に対して、「こういうケースは少数だから甘い夢をふりまくな」とひねくれたことを思う人もいるが、これは幻想ではなく、事実であり、数少ない事実であったとしても、それが実現できているということは、やり方次第で他の人にも可能だということだ。数の問題ではなく、ただ一つであっても可能だと知ること。”希望”というのは、どこにでも簡単に転がっていることではなく、そうした希少なケースと、自分の可能性をつなぐ力のことだと思う。
 砂漠を歩いていて、目の前に大きな湖がある状態を”希望”とは言わない。遙か彼方にぼんやりとオアシスの緑が見えていて、もしかしたらそれが蜃気楼かもしれないと思っても、そこに向かって歩く。それが、希望であり、本当に追い詰められていれば、そうするしかない。
 「道の向こうに確実にオアシスがあるという保証がなければ歩く気になれない」とか、「歩いて行ってもオアシスがある可能性は1%未満だから、それは甘い夢にすぎない」などと言っているあいだは、そこまで追い詰められていないということなのかもしれない。
 砂漠のなかで本当に追い詰められれば、そこで死ぬか、1%の確率に賭けて歩くしかない。1%の確率に賭けて歩いたことのある人間にしかわからないことがある。
 いざという時に、「知識」に縛られることなく、自分の生身の感覚を信じることができる。それが自恃だと思う。
「既にオアシスに辿り着いている人間がそうでない者のリスクを保証しろ」と主張することは簡単だが、オアシスに辿り着いた人間は、そういう声に同情するふりをしても、心のなかでは自分の今と未来しか考えない。貧乏人の味方をしている言論人が、大金持ちでマンションを幾つも持っていたりする。人気投票の票集めにすぎないのだ。それが人間の本性だ。そんな偽善に期待する方が幻想だと思う。そんなものを期待して憤死することほど、やりきれないものはないだろう。
 途中でのたれ死のうが、自分の足で歩いていった方が、よほどすっきりと死ねる。

 こういう「正論」は、うんざりで腹立たしいと思う人は当然いる。けっきょく、このように長々とダラダラした文章でもそうだし、それ以外のところでもそうだが、自分が求める美味しい答は、自分の外に言葉となってどこにも落ちておらず、自分の中の言葉以前のところに探すしかないような気がする。